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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

本高寺&経王寺 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

宝永3年(1706)、信濃国上田藩より『仙石政明』が但馬国出石藩初代藩主として入城して以来、明治の廃藩置県まで仙石氏の藩政のもとに様々な歴史を紡いできた出石。最初の紹介は豊岡市出石町魚屋にある日蓮宗寺院「舟橋山:本高寺」

「創建は康正元年(1455)、日曾上人の開基と伝えられる。当時は寺運が隆盛し最盛期には9坊を擁する大寺ながら度重なる兵火により堂宇は焼失。日成上人の代に現在地に移し再興、慶安3年(1650)に出石藩主:小出吉英の庇護を受け境内を整備。宝永3年(1706)、上田城より移封し出石藩主となった『仙石政明』が帰依し、仙石家の菩提寺とした。」境内案内より抜粋

文政7年(1824)、出石藩6代藩主:仙石政美の病没から始まった「仙石騒動」と呼ばれた内紛。この騒動によって出石藩は5万8千石から3万石へと減封。事件は「江戸時代三大お家騒動」とも呼ばれ、当時の講談や実録本、歌舞伎などの題材にもなりました。本高寺には、そのお家騒動によって処刑された家老『河野瀬兵衛』の菩提も弔われています。

境内の一画に建立されている「妙見宮」。お寺の境内なので『妙見菩薩(みょうけんぼさつ)』を本尊としていると思われます。

本尊である妙見菩薩とは、「北極星」、または「北斗七星」を神格化した仏教の天部の一つで、『尊星王(そんしょうおう)』『妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)』『北辰菩薩(ほくしんぼさつ)』などとも称されます。

妙見宮のお堂前より聖域を守護されるのは出雲丹後の構え狛犬さん一対。すっかりと丸くなった体に、年月が与えた穏やかな笑みを浮かべて参拝者を出迎えてくれます。

妙見宮参道横の小祠と、境内の一画に建立されていた文学碑。作者らしき部分に「少将」の文字を読み取った以外、内容は全く分かりません🤔 ご存知の方、是非!教授下さい。

三年後に通りかかった「本高寺」。塀越しに見えた大イチョウの鮮やかな黄色が目に焼き付いています。

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豊岡市出石町下谷にある日蓮宗寺院「一乗山:経王寺」。石部神社参拝の帰路、馥郁と香る梅の香に誘われて立ち寄った寺院。出石藩藩主歴代の菩提寺の一つであると知ったのは、ずっと後の事。

「創建は室町時代永禄年間、山号を会稽山、寺号を薬王寺という真言宗の寺院として創建された。江戸時代初期に布教のため当地を訪れた北条氏政血縁者である法音院日道により日蓮宗に改宗され、このとき現在の山号と寺号に改められた。出石藩における寺格は高く、藩主松平家と仙石家は当寺を菩提寺の一つと定めていた。境内には出石藩4代藩主仙石久行のほか、勤皇の志士多田弥太郎の墓がある。」Wikipediaより

参道石段の左右に並べられているのは、磁器製の灯籠で中にろうそくを灯して、足下を照らします。境内には陶芸の工房があり、こちらのご住職が製作されているとの事。明かりの入った灯籠が並ぶ参道は、きっと幽玄でしょうね。

ちなみに山門横の白い建物が経王寺の鐘楼で、豊岡市指定文化財である事を知ったのも、やはりずっと後の事。 何をやってんだか・・なんて、今だから言えるのです😓

参拝日:2011年3月31日

 


出石町歩き~其の二 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

昨日に続いての出石町歩き、スタートは「谷川山トンネル放水路」の説明に興味を引かれたご亭主殿。

豊岡市出石町小人にある人工水路、2004年の23号台風の際には洪水を迂回させ、出石の中心部を守ったと記されています。専門的な事は分かりませんが、こうした最新の土木技術を何気なく見る事が出来るのも、町歩きの楽しみかも。

豊岡市出石町下谷、「谷川山」をはさんだ先に、市指定文化財の『加藤弘之:生家』がひっそりと佇んでいます。

出石藩主の兵学師範の家に生まれ、弘道館に学び、ドイツ学をきわめ、明治天皇へ講義を行い、日本の大学制度の基礎を作りあげた人物。やがて設立された帝国大学(現:東京大学)の初代総長に就任しました。

仙石家菩提寺の「経王寺」の向かいに建つ赤門。まさかこの門が「兵庫県立出石高等学校」の校門だなんて想像もできません。

この門は、藩政時代に赤門を建てる事が許されていた磯野家の『一瀬粂吉(元三和銀行取締役)』が戦前に建設し寄贈したもの。赤門前にはその記念碑が建てられています。

そろそろ町の方へ戻る事にしましょうか。千本格子に、丹塗りの漆喰がとても粋な佇まいのお宅。以前はタバコ屋さんだったのでしょうか?もうずっと昔、私が住んでいた町にもこんなショーケースに煙草を並べていたお店がありました。

出石町宵田の、とある建物の前で「鋳物師町発祥之跡」の碑を見つけました。鋳物師とは文字通り鋳物を造る職人の事ですが、この一帯にそうした職人の集団が町を形成していたのでしょう。

豊岡市出石町八木に鎮座される「呉服神社」。織物の神『袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)』を御祭神とします。

寺町に近いせいか、町歩きの途次にこんな風に祠に祀られるお地蔵様を見かけます。おさめられたお地蔵さまはいずれも美しく化粧が施されています。町内の隣保(りんぽ)ごとに地蔵当番があるそうで、内も外も塵一つなく、大切に守られています。

豊岡市出石町魚屋。明治20年(1887)に出石城跡近くの登城橋公園内に出石郡役所として竣工した、木造2階建ての美しい擬洋風建築があります。

下見板張りに施された明るい浅葱色は当時流行した色だったとか。正面玄関ポーチのペディメントやコリント式の柱頭などに、明治時代の郡役所の威厳をうかがうことができます。

昭和14年(1939)に、北東約300メートルの現在地に移築され、昭和59年に「豊岡市立出石明治館」として一般公開が開始。館内には出石の近世の歴史や、歴史を彩った『斎藤隆夫、桜井勉、加藤弘之、山名宗全、沢庵宗彭』ら、出石の人物が紹介展示されています。

同じく出石町魚屋にある「たくみ工芸」さん。ここではカバン産業の祖となった柳行李が作られています。玄関先に立てかけられているのは、その材料となる「かわやなぎ(猫柳)」・・ああ、だから「やなぎこうり!!」・・と、今更に当たり前の事が無性に嬉しく思えてしまう、変な奴なのです😅

出石を代表する景観通り「大鍛冶の細間」・・この一帯がそうなんでしょうか?まるで映画のロケ現場にでも迷い込んだような、不思議な雰囲気の通り。

袖卯建と千本格子のお屋敷、白壁の塀に見越しの松・・

かなりの距離を歩いた筈なのに、何故か疲れを感じさせないのも町並みの魅力がなせる業。重伝建地区の町歩きの締めくくりは・・何とも素敵で可愛い光景😊

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ラストは町歩きの途次ではなく、後に紹介する「伊福部神社」の道路向い、豊岡市出石町中村にある「斎藤隆夫記念館」。同地出身の政治家『斎藤隆夫』の生家を整備し、遺徳をしのぶために建てられたものです。

帝国議会衆議院において、立憲主義・議会政治・自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入に抵抗し「憲政の神様」といわれた人物だそうです。あわよくば植民地化をと虎視眈々と機会を狙う欧米諸国。そんな中で、日本国を護ろうと誰もが必死に生き抜いた時代・・・昔の政治家は右も左も、国を愛し、国を守るという一点に置いては共通の認識だった気がします。

二・二六事件から間もない1936年5月7日、彼は議会において軍部の政治介入を批判しました。いわゆる「粛軍演説」と呼ばれる全文が、遺墨、遺品と共に、「静思堂」と名付けられた建物に収められているそうです。

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 


出石町歩き~ 其の一 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

但馬の小京都と謳われる兵庫県「出石」。車泊で各地の観光名所を尋ねるようになって一年。迎えた年のはじめの車泊計画で最初の候補地に決まったのが、出石を含めた丹波方面の旅。結局一度では飽き足らず3年後に再訪をしたくらいお気に入りの場所となった訳ですが・・まぁ、一つには家からそんなに遠くないという事も大きな理由だったと思います。ともあれ、車中からこの光景を見た時の感動は、今でも忘れ難いものが有ります。

憧れの「辰鼓楼」の前でひとしきり記念写真に興じた後は、何を置いても城下町の散策。「鶴萬一休庵」の屋根の上にコウノトリを見つけてドキッとしたり😲 でも作り物とわかって「そうだよね」と妙に納得したり(笑)

重要伝統的建造物群保存地区の町並みは、どこを見ても「ホォ~~~」とため息の出る素敵さ😀 まず最初は、昭和初期の旧出石郵便局を改装した老舗皿そば店「大門」

入り口の暖簾を見ながら目線を上に進ませると、そこには確かに見慣れた「〒」マーク。こうした形でもちゃんと残されている事にとりあえず感動。内装はどうなっているんだろう?こんな建物で食べる皿そばも良いかも。

目的地にたどり着く道々に見かける素敵な佇まいのお宅に思わず足を止める事も数知れず(笑) 最終目的地にたどり着けるのは何時になるのか😓

江戸時代後期の上級武士の居住区であった内町通りに面して門を構える、白亜の土塀と長屋門の「家老屋敷」

仙石騒動の中心人物の一人『仙石左京』の屋敷跡にある事から「左京屋敷」とも呼ばれており、内部には、仙石騒動の資料をはじめ、無形文化財の大名行列諸道具など出石藩に関する資料が公開されています。

家老屋敷に隣接する建物は「豊岡市立美術館:伊藤清永記念館」。実際に家老屋敷が建っていたのはこの位置だったとか。

旧出石川のすぐ側にはかつて船着き場の灯篭であった「おりゅう灯篭」がありますが・・残念な事にブルーシートに覆われていました😥  ちなみに私「おりゅう」と「おりょう」を間違えていました。「おりょう」は無論、幕末の英雄『坂本竜馬』の恋人の『おりょう』。実物が見られなかった事と、近くに『桂小五郎』の史跡があった事から、深く考えず、説明も読んでいなかったのです。

そんなわけで、何が何でも見たかったと言う訳ではありませんが、折角再訪の機会を得たのですから、ここはやはり押さえておかなければ(笑) という事で「おりゅう灯篭」アゲイン😊  

「その昔、身分違いの恋に仲を引き裂かれた男女、男は戦で死に、女はそれを儚んで川に身投げ・・以来、大雨のたびに「おりゅう」の悲しみで川は氾濫し、人々はおりゅうの悲しみを鎮める為、船着き場に、祠と灯篭を建てた。灯籠に寄り添う柳は二人の姿なのです。」 綺麗に修復された「おりゅう灯籠」を見る事が出来てミッションクリア(何のミッション??)。

「出石・幕末」のキーワードで必ずヒットするのが「桂小五郎潜伏地」。元治元年(1864)に起きた禁門の変で朝敵として追われる身となった桂小五郎(木戸孝允)は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得てここ出石に逃れます。出石の町歩きの折々に見かける碑が物語る歴史・・興味は尽きません。「すし梅」様の玄関わきに建てられた碑には、「維新史蹟 桂小五郎 后(後の) 木戸孝允潜伏セシ畳屋戈七屋敷跡」と刻まれています。

他にも同じような碑を見つけました。「維新史蹟 桂小五郎 后 木戸孝允 潜伏セシ角屋喜作屋敷跡」。右の碑は「料亭 桐吉」様の角。「維新史跡 木戸孝允公潜伏セラレシ遺跡 志水重兵衛屋敷跡」と刻まれています。

そして最後の潜伏地の碑が「そば屋:本家よしむら」様の横に建立された「桂小五郎居住跡」の駒札と、「維新史跡 桂小五郎再生之地」碑。

「桂小五郎居住跡桂小五郎居住跡(荒物屋跡) 元治元年(1864)七月禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり桂小五郎も追われる身となりましたが、出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出し町内各所にかくまわれていました。当家は荒物屋を営んでいた跡です。愛人の幾松も訪れています。潜居九ヶ月、九死に一生を得た小五郎はやがて回天の大業を為し遂げ木戸孝允と名を改め、維新の三傑と仰がれましたが、この出石こそ桂小五郎の再生の地となったのです。」現地駒札全文

出石町宵田の一画に建つ豪邸は、明治時代の豪商「旧福富家住宅」を1977年にリニューアルした「出石資料館」。館内には仙石騒動や藩政の記録をはじめとする出石藩関係の史料、古地図、武具、茶臼山古墳からの出土品等が展示され、江戸時代を中心に古代から近代までの出石の歴史が紹介されています。

出石城下町の80%以上を焼失した明治9年の出石大火の直後に、生糸を商う豪商:福富家の本邸として建てられた近代和風建築。建設にあたっては遠く京都から職人を招いて工事に当たらせ、当時流行の数奇屋風に仕上げられています。

土台の石だけで家一軒の価格に匹敵するなど、まさに贅の限りが尽くされた豪邸。1987年に兵庫県住宅百選に選定。旧出石町指定文化財(現:豊岡市指定文化財)に指定されています。

史料館近くの小公園で見つけた、出石お城祭り「槍振り」の碑。大名行列の中で演じられる槍振りは、どこで・いつ見ても・心躍る光景。真剣に「見たい!!」😍

🌸まだまだ続く出石の町歩き、長くなるので続きは明日(^^;)

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 


出石酒造酒蔵 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

出石の見所を紹介するパンフレットやインターネットのお勧めサイトに必ずと言って 良い程登場するのが、「出石酒造」の酒蔵。

築270年以上とも言われている赤い土壁造りの酒蔵を初めて見た時の、あの何とも言えない感動。初めて見た風景の筈なのに、どこか懐かしく、温かくなるような不思議な心持ち・・

すでにひと昔と言って良い歳月が流れているにも関わらず、今も鮮明に思い出す事が出来ます。閉ざされた土壁の扉の向こうには、何か目に見えない不思議な命が息づいているように思えた・・その感覚は三年後の再訪でも変わりませんでした。

こうしてじっと待っていたら、それはこの重い扉を潜り抜けて、何か優しく語りかけてくるのでは・・と、三年前と同じ有り得ない期待を抱いてしまうのです。

大人のためのお伽噺の時間を紡ぎだしてくれるような、妙にくすぐったい感覚に、何度も行ったり来たりを繰り返した私。三年後の今もやっぱり同じように行ったり来たりを繰り返す二人😊。

三年後に再開した土蔵に一つだけ違いを見つけました。角にあてがわれた金属は・・もしかしたら疲れてしまった土蔵に施された手当てなのかもしれないね。

三度目にもう一度来ることができたなら、その時にもここにあって欲しいから達者でいて欲しいと、まるで生きているものに語り掛ける如く見上げて、二度目の名残を惜しんだ私たち。

宝永5年(1708)、出石藩主仙石公の命によりお城に酒を献上し、以来三百十三年続く造り酒屋「出石酒造」。こちらでは地酒「楽々鶴(ささづる)」の試飲もできるとの事でしたが、運転担当の御亭主殿には金輪際!縁の無い話。あまりにもしょげ返った姿を見かねて、二度目の来訪の際に、お土産用に純米酒をプレゼント(笑)

何処に行くにも文句ひとつ言わず、入念な下調べをし、どんな辺鄙な場所でも迷う事もなく無駄足も踏まさず、楽しい車中泊の旅を一緒に楽しんでくれるご亭主殿のささやかな贅沢、たまには叶えてあげないとね😊

江戸中期に作られ、屋根以外はすべて土壁造。明治の大火も乗り越えてきた酒蔵ですが、経年による傷みがひどく、2017年に修復工事が行なわれ、生まれ変わったように綺麗な外観になったとか。綺麗になった土蔵に会いに行きたいな・・・

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 


辰鼓楼(しんころう)界隈と出石皿そば in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明治時代の廃城令で取り壊されてしまった出石城。現存するのは堀、石垣などごく僅か・・と、これはなにも出石城に限った事ではありませんが・・もちろん、城址以外にも見所は沢山あります。

まずは出石のシンボルともいわれる「辰鼓楼(しんころう)」。城の石垣などの廃材を利用して明治4年(1871)に建てられた明治時代初期の時計台。

高さは本体が木造4層で13メートル、支える石垣が5メートル。建造当初は太鼓で時を告げていましたが、明治14年(1881)に旧藩医で蘭方医の『池口忠恕』が機械式大時計を寄贈。同年9月8日から時計台として稼働し、日本国内では北海道の札幌時計台に次ぐ、二番目に古い時計台として登録されています。

「大時計と池口忠恕」

「弘道小学校跡」

まるで洋風庭園にでも置かれていそうな休憩ポイントですが、実はこれ、旧出石町役場の車寄せ

「旧役場は昭和13年に当町宵田出身の実業家竹内慶吉氏の寄贈により完成した建築です。~中略~ 更にその重厚な様式は昭和初期の洋風建築として高く評価されてきました。ここに旧役場車寄せを保存 ~後略~ 」碑文よりの抜粋ですが、高く評価されてきた建物は残せなかったんですね。

車寄せから見る、出石城復元東隅櫓

再び「辰鼓楼」の側まで戻って・・できればこの美しい建造物を見ながらお弁当などというシチュエーションに物凄く憧れるのですが、多分ここではそういった行為はダメだと思うので、素直に諦める事にします(笑)

「三の丸跡」の碑と「辰鼓楼」

「辰鼓楼」「出石城大手門跡」の碑。昼食は「但馬出石:本陣」にて

ちなみに最初にオーダーした二人分😲 、本来は一人五皿が定番ですが、折よく二皿のサービス券を貰ったので、お一人様七皿!

更にもう一人前(五皿)追加で、ご亭主殿は十四皿、私も五皿頂きました。

j🐣さんが一緒の二度目の出石皿そばは「湖月堂」さん。

テーブルの上は三人分、j🐣さんは皿が多くて邪魔だからと追加注文の蕎麦を移している最中😄 。今回ご亭主殿とJさんは八皿、私は五皿いただきました。

合計21皿の注文でお皿の絵文字は5種類、本当は何種類あるんだろう?

本陣も湖月堂も、どちらもお食事をしながら「辰鼓楼」が見えます。出石そばのマスコットキャラクターそば丸』もあちこちで見られます 😊

実は私・・今だから告白しますが、この玄さん通行手形がとっても欲しかったのです😓。でも湖月堂は、秋篠宮紀子妃殿下が「こうのとり未来・国際かいぎ」ご出席の折に、皿そばをお召し上がりになられたお店。流石にこの事実には玄さんとて太刀打ちできませんでした😊

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日


石部(いそべ)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町下谷に鎮座される「石部(いそべ)神社」。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は 石部氏の祖神とされる『天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)』『大山積神・大巳貴神・大物主神・事代主神・健御名方命・高彦根命・瀧津彦命』を合祀。

「創建は不詳。社伝では、当初は坪井村に鎮座したといい、のち文禄4年(1595)には毘沙門町の丘上に遷座、さらに寛永3年(1705)11月に現在地に遷座したと伝える。天明年中(1781~1788)、谷山で大火が発生した際、いかなる御神威か、社殿屋上より大雨が降り注ぎ、あたり一帯の火は消滅したと伝えられる。出石藩藩主の小出家・仙石家から崇敬を受けたという。」

入母屋造、瓦葺の拝殿は昭和10年(1935)の造営。

拝殿後方、覆い屋の中でお姿は見えませんが、昭和9年(1934)に一瀬粂吉氏により建立された二間社流造、銅板葺の本殿が鎮座します。

拝殿前玉垣の内より神域を守護されるのは、明治41年(1908)9月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。剝離も傷もなく美しい姿。

画像が少ないので(笑)斜め後ろから

「摂社:皇大神宮」。御祭神は『天照大御神・品陀和気命・太田命』配祀『豊受皇大神』合祀『玉依比売命』。 右手に小さく「摂社:天満神社」が鎮座されています。

樹齢1,000年と伝えられる御神木「幸の大けや木」。「ひょうごの巨樹・巨木100選」で、市の天然記念物にも指定されています。

参拝日:2011年3月31日

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御神名一口メモ

『天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)』、大神(おおみわ)氏の祖。父は「事代主神」。母は「活玉依媛」。妹の「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」は神武天皇の皇后。

 


諸杉(もろすぎ)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町内町、有子山北麓・出石城東部に鎮座される「諸杉(もろすぎ)神社」。御祭神は『多遅摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)』

2011年3月、2014年11月と二度に渡っての参拝です。

「創建は不詳。社伝では、当初は出石神社近くの水上村に鎮座したといい、現在地に遷座したのは天正2年(1574)とされる。社名の「諸杉」に関わる多遲摩母呂須玖(但馬諸助)は「古事記」「日本書紀」で見え、かつ天日槍の嫡子にも位置づけられることから、諸杉神社も古くから鎮座したものと推測されている。なお、創建地とされる水上地域は現在も諸杉神社の氏子の関係にあり、祭礼では水上までの神輿渡御が行われる。」

現在の社殿は明治17年(1884)に竣工されたものですが、各所に素晴らしい彫刻が施されています。作者は丹波柏原藩の宮大工:中井権次一統(なかいごんじいっとう)、八代目『中井権次橘正胤』30歳頃の作品と言われます。

本殿扉に施された彫刻は、馬上の『神功皇后』と、その皇子『応神天皇』を抱く『武内宿禰』

向拝彫刻は巨大な鷹を退治する若き『応神天皇』

その上には梁を支える力神の姿

木鼻彫刻は迫力満点の阿吽の獅子。玉が入れられた目。目じりに入れられた鮮やかな朱が、獅子の表情を更に生き生きと見せています。

丸く掌に収めた爪は、敵意を持たない者には柔らかく優しく、けれど悪意を持つ者の目には、いつ鋭い爪を立てられるのかと怯えさせるに十分の迫力。

手挟みには、波の上を飛翔する鶴の姿。

二の鳥居正面に建つ、入母屋造り千鳥破風付きの拝殿

拝殿前参道より神域を守護されるのは、明治38年(1905)11月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんにこっぴどくお小言を貰って意気消沈している吽形さん・・一度そう思うとどうしても想像がそこから離れなくてちょっとツボ(笑)

拝殿前より神域を守護されるのは、明治27年(1894)6月吉日建立の浪花系の狛犬さん一対。吽形さんの表情は読めませんが、阿形さんはどこかで見かけたようなオヤジ顔(^^;) こんな顔の人、身近にいますよね。

参道真っ直ぐに「神輿庫」、横に「境内社:川下神社」

神輿庫の褄部分には鏝絵の鳳凰、それを守るかのような瓦細工の翼竜

神池と太鼓橋

境内社:三柱神社・八幡神社・・・他

奥に碑が建立されていますが詳細は不明

紅葉に彩られた境内

今回の一番の収穫は社殿彫刻を手掛けた中井権次一統八代目『中井権次橘正胤』の存在を知った事。一統が代々手掛けた龍や麒麟、獅子、獏といった霊獣など、現存する寺社彫刻は北近畿(旧丹波国・丹後・但馬)を中心に旧播磨・摂津を含め300カ所程度と推測されています。雲蝶波の伊八を訪ねたように、立川流彫刻井波彫刻を訪ねたように・・いつか彼の残した霊獣たちに会いに行けたらと・・無理と分かってしまっても、それでも願わずにはいられません。

参拝日:2011年3月31日&2014年11月21日

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御神名一口メモ

『多遅摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)』、父は渡来神『天之日矛神』。母は但馬の豪族の娘『前津見』。『田道間守』の祖。


有子山(ありこやま)稲荷神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町内町、出石城跡・稲荷郭に鎮座される「有子山(ありこやま)稲荷神社」。御祭神は『稲荷神』

谷山川に架かる「有子橋」正面、一の鳥居。

「出石城最上段の本丸のさらに一段高い場所にある曲輪稲荷郭に、慶長9年(1604)の築城時より、城の鎮守として現在地に鎮座。城山稲荷とも呼ばれる。」

一の鳥居を潜り、朱の千本鳥居が立ち並ぶ石段をひたすら登ります。

右手に本丸西隅櫓の建物が見えていますが、観光は後回し(^^;) 。黙々と鳥居を潜り、石段を登ります。

石段の数は157段、朱塗りの鳥居は37基だそうですが、気持ち的にはもっと多く感じます。

神橋を渡った先、境内入り口の鳥居前より神域を守護されるのは、明治40年(1907)3月吉日建立の端正な神狐さん一対。

入母屋造り唐破風付きの拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正元年(1912)9月22日建立の神狐さん一対。口元の修復の後、欠損してしまった耳・・なのに、何と穏やかで優しい表情。

末社:恵方稲荷大明神

本丸跡から見た稲荷郭の石垣。稲荷の境内に立てば、まさに城そのものを見下ろす位置となります。

城内に一般人が立ち入れば、即斬首とされた時代にもかかわらず、一年に一度だけ、誰もがこの高い位置に立つ事を許された日がありました。それが旧暦2月の最初の午の日。この日だけは大手門が開放され、一般町民の参詣が許可されたのです。遠方からも多くの町民が訪れたとか・・当日の賑わいは如何ばかりだったか。

稲荷の美しい社を守護される神殿狐さん一対

社殿屋根替え修復竣工記念の絵馬

日の本を表す「金泥に日輪」の拝殿額

稲荷神社境内出口近くに「史跡 有子山城跡」の碑。出石城の築城以前に山名氏によって築かれ、わずか6年にして落城したといいます。少し下った有子山登山道案内の横に祀られていた小さなお社。詳細は不明です。

参道途中の石仏

参道入り口近くの神輿庫

初午の宵宮に、氏子さんたちが御神輿を担いで町内を練り歩きます。

神輿を守護されるのは巻物と宝珠を咥えた神狐さん一対。

参拝日:2011年3月31日&2014年11月21日

 


出石城址 in 兵庫県豊岡市出石

2023年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

一か所でこんなに沢山の見所がある町歩きというのも、実はかなり珍しいのではないか・・そんな事を思わせる出石の町並み。今日は、昨日紹介した有子山稲荷とは切っても切れない関係にある出石城址の紹介です。

稲荷郭から望む出石城址と出石の町並み、真下に見えるのは「感応殿」

復元された本丸西隅櫓、右手の木陰に見える朱は、稲荷の鳥居。

慶長9年(1604)、『小出吉英』により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けたのが出石城の始まり。それにともない、平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれると共に、城下町も整備され出石の町並みが出来上がりました。当時の一国一城令によって但馬国唯一の城として小出氏・松平氏・仙石氏の居城となり、やがて迎えた明治の廃城令で城は取り壊され、わずかに堀や石垣を残すのみとなりました。

2011年の春、2014年の秋はお馴染みのJさんが一緒でと、出石には二度訪問。その都度、城址や町歩きを楽しみました。二つの季節を織り交ぜての出石城址の紹介、まずは谷山川に架かる「登城橋」からスタート。

鮮やかな紅葉に彩られた谷山川

登城門を潜っていよいよ本丸に

内側より見る登城門

軒丸瓦には、最後の出石藩主・仙石家の家紋「永楽通宝」が刻まれています。これは、『仙石秀久』が織田の家臣であった時代に『織田信長』から拝領した家紋であると伝えられています。

野面積みの見事な二の丸石垣

「本丸西隅櫓」

二の丸から見上げる「本丸西隅櫓」。桜にはまだ少し時期が早かったようです。

紅葉に彩られた「本丸西隅櫓」。

二の丸跡

二の丸跡にあった池、いつの時代の造営かは不明

有子山稲荷の参道側に設けられた本丸跡入り口

昭和43年に復元された「東隅櫓」

東隅櫓の軒丸瓦には有子山城主でもあった小出氏の家紋「亀甲に小の字」。実際の定紋は「額に二八文字」だったようで、こちらはいわゆる「替紋」と呼ばれる紋です。

本丸跡に建つ「感応殿」には、出石藩仙石氏の祖『権兵衛秀久公』が祀られています。豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した人物。伏見城で『石川五右衛門』を捕らえたとの伝説が残されています。

この画像は2014年の有子山稲荷参拝の帰路に見かけた光景ですが、何らかの工事現場なのか、それとも遺構の発掘現場なのか・・結局分からずじまいでした。

2006年、本丸跡に建立された「出石そば発祥の由来」碑より抜粋

「政明公は大変そば好きで宝永三年(1706)出石の松平忠徳公(のち忠周=老中)とお国替えで出石に入部の際、信州一の蕎麦打ち名人を伴われ入国しそばを当地に広められました。後永年に亘り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の小皿に盛り付ける独特の「出石皿そば」を創出し今日に受け継いできました。本年そばは伝来三百年を迎え、科野大宮社三柱の御祭神の依代として、大欅の一部を譲り請け「出石皿そば」の守護神とし、政明公への報恩の念を込め、当祠に奉齋しました。」

出石には、約50軒もの蕎麦屋が建ち並んでいて、関西屈指のそば処として有名。「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」の“三たて”が、伝統的な信条とされ、出石焼の小皿に小分けした独特のスタイルでいただく「出石皿そば」。御亭主殿の抑えていたお腹の虫が騒ぎ始めたようですが、もう暫く辛抱してもらいましょう(⌒∇⌒)

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 


玄武洞(げんぶどう)~其の二 in 兵庫県豊岡市赤石

2023年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

玄武洞公園で「玄武洞」に次いで・・と言うか、それ以上に人気があるのが「青龍洞」。玄武洞と同様、こちらも国の天然記念物に指定されており、とても美しい節理の絶壁が見られます。

上から下へと、まるで流れるようなうねりが、龍の昇る姿に似ていることから命名された「青龍洞」。洞の高さは33mに及び、玄武洞公園の中では最も長い、15mにも及ぶ柱状節理が見られます。

いずれも同じアングルからなのですが、この場に立つと他のものが目に入らない・・と言うのが正直な感想。岩の連なりを見て美しいという言葉がこれほど当てはまる光景は、中々お目にかかれるものではありません。

流れるような岩の連なりはそのまま水辺に落ちて、その姿を映し出し、更に水の奥深くに続く錯覚を感じさせます。それは何とも形容しがたい、まさに人知を超えた神の造形と言っても過言ではありません。

青龍は、中国の伝説上の四神獣、東方を守護するものとされ、蒼竜とも呼ばれます。水面に映る柱状節理の壁は、蒼き竜が天を目指して駆け上がる姿にも似て神秘的です。中央に置かれた石灯籠は、水神である龍への供物でしょうか。

空の青さを写しだす池に舞い落ちる紅葉の赤、黄、橙・・

「青龍洞と人々の暮らし」と題した案内看板には、大正時代頃の絵葉書が紹介されています。池の上には橋があり、流れ落ちる龍の姿をもっと間近に見る事が出来たようです。橋の上から見る水面の中の世界は・・きっとこの世とあの世の狭間を思わせるような不思議な光景だった事でしょう。

玄武洞最期の立ち寄りは、南方を守護する「朱雀」に例えられた「南朱雀洞」

少し奥まった中央部分が、天に向かって羽ばたく鳳凰の姿を想像させるのも、ある意味神の造形に近いのかもしれません。柵に遮られて良く見えませんが、下にある小さな池に摂理の壁が映りこむ様は、きっと圧巻だろうと思います。

「北朱雀洞」も、「南朱雀洞」同様に羽を広げた朱雀をイメージして命名されたと思われます。ですが柵の向こうで距離も遠すぎる事もあり、この状態で朱雀を想像するには、かなりの想像力が必要かも(^^;)

玄武洞公園から見えた山陰本線の赤い車体。旧城崎町にある玄武洞駅からここまでは、渡し舟で川を渡るんだそうです。そういう非日常的な時間・・すごく贅沢な感じがして、ちょっと憧れます。

訪問日:2014年11月21日

🌸🍀明日からは旧出石町の紹介です