車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

法泉寺&正覚寺の芭蕉句碑 in 岐阜県大垣市

2020年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

明星綸寺を後にして次に向かったのは大垣市赤坂町にある真宗大谷派寺院「清白山:法泉寺」。と言っても目的は芭蕉の句碑なのですが・・、そんなことばかり言ってたら、仏様に叱られそう。

山門横に設けられた藤棚の下に建立された碑の句は、別名「大和紀行」「卯辰紀行」とも呼ばる「笈(おい)の小文」の一句。
【 草臥(くたぶれ)て  宿かる比(ころ)や 藤の花 】貞享5年(元禄元年)、芭蕉45歳(歩き疲れて宿に入ろうと思っていたら、綺麗な藤の花が咲いていて、思わず見てしまった)

芭蕉の句碑が目当てですが、お寺に来たからには、きちんとご挨拶をするのは一応の礼儀。とは言え、宗派を持たない私たちなので、「南無阿弥陀仏」とお唱えします🙏🙏

「法泉寺」を後にして次に向かったのは、大垣市船町にある曹洞宗寺院「正覚寺」。車で探すにはとても分かり難い場所で、同じ場所を何度も往復してしまいました😓
史跡「芭蕉・木因遺跡」の碑は、意識してみなければ分からない、細い路地の入り口にあります。

史跡の碑を見ても本当に間違いないのかと不安になりそうな狭い路地、とりあえず行って見ることに。場所的に車の進入は不可。近くに駐車場も無い為、ご亭主殿は車中で待機。

突き当りまで進むと「芭蕉・木因遺跡」の説明と、幾つかの句碑が並ぶ一角が見えてきた時には思わず「良かった・・間違ってなかった」😅「元禄7年(1694)、芭蕉が大阪にて病没すると、如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。」説明版より

元禄七戌年(1694)十月十二日、路通筆「芭蕉翁」と刻した自然石の芭蕉追悼尾花塚。日本最古の翁塚として有名です。尾花塚の向かって左に

【 あか/\と  日はつれなくも 秌のかぜ 】はせを翁

この「翁塚」と相語らう位置に「木因墓」が作られており、それゆえこの場所は「芭蕉木因遺跡」といわれています。

画像の向かって右端、背の高い句碑は、江戸時代後期の俳人『氷壺仙』。明治十年の建立。【 無心とは あの白雲ぞ 秋の山 】

画像の右側手前、白い円柱形の句碑には、三名の句が刻まれています。

【 住みあいた 世とは嘘なり  月と花 】 帰童
【 名月や ことしの影は  ことしとて 】 冬恕
【 しずけさや  芭蕉にかかる  雨の音 】 蘆元坊

左端の丸い句碑【 野に咲けば 野に名を得たり 梅の花 】梅花佛

安政六年建立【乗りながら馬繋がれて春寒し】軽花坊 
【菜の花の 香やほろほろと 暮の雨 】曙庵

そうそう、ここは曹洞宗のお寺さんですが、手水舎の側に狛犬さんがおいでになりました。時間に急かれながらなので、じっくりと全体を写すことも出来ず、台座も読み取れません。

年代も石工も全くの不明ですが、扇状の尾をちょこんと立てた姿は、中々に愛嬌があります。

元禄七年十月十二日:時に芭蕉五十一歳。生前の遺志によって、近江国「義仲寺」に葬られます。【 旅に病で  夢は枯野を かけ廻る 】これが、芭蕉の生前最後の句となりました。

明日は「結び地記念館」から水門川周辺に建立されている『芭蕉』や俳友の句碑を紹介します。

訪問日:2018年10月10日


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