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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

白川郷:合掌造り集落~其の三 in 岐阜県白川村

2020年04月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

白川郷の絶景スポットと言われる「荻町城址展望台」。ここからの景色を見ずして「白川郷に行ってきました」なんて、口が裂けても言えません。彼方に見える白山の力を借り、ついでに御亭主殿の手を借りて、山道の遊歩道をひたすら歩く事20分・・・

荻町を見下ろす山上展望台からの白川郷は、まさしくポスターで見た世界そのまま。

田植え前の水田、深い緑の山懐に抱かれた合掌造りの集落、手前に見えるあの大きな家屋が「和田家」、こうしてみるとその規模の大きさが一際目立つ・・はぁ~~~~byため息💗💛

「荻町城址展望台」「天守閣展望台」は、どの観光案内でも「白川郷随一の撮影ポイント」として紹介されています。それが決して誇大表現でない事は、この場所に立てば納得の一目瞭然。

天守閣展望台では有料の記念撮影もあり、それとは別に自前のカメラで記念撮影もしてくれます。シャッター時の合言葉は「しらかわごぉ~」😄

遠くに雪を抱いた白山を望むロケーションは、内外問わず観光客に絶大な人気のスポット。カメラマンを担当してくれたご亭主殿のおかげで、忘れ難い記念の一枚となりました。

折角此処まで来たのだからと、城址らしき遺構を探索。とは言え本当に「らしいもの」は何もありません。唯一見つけた「荻町城址の空濠跡」をカメラに収めて、さて、再び下界を目指しますか。

登りに比べれば多少はましな筈!!と我が身を慰めつつ・・もと来た道を引き返します。やっとこさ平地について振り向けば、展望台が遠くに。そして目の前には、何度見ても見飽きない茅葺合掌集落の佇まい~💗

何といっても、今日は丸ごと一日、白川郷を楽しんでもいいと言われているので、名残惜しさに足が動かないなんて言い訳も必要なし!。目に入るもの全てが特別で、素晴らしくて!ああ、形容詞のボキャの少なさが恨めしい・・・・

 

足の向くままに歩いていると不思議なほど人気のない場所に出たりします。そこにはごく普通の日常があるだけなのに、やっぱり私には特別な一場面。そうして目の前に広がる、緑に包まれた穏やかな風景に見とれ、いつの間にか時の流れを忘れてしまうのです。

水田に映る合掌造りは「逆さ合掌造り」と呼ばれ、それはもう何も知らなくてもカメラを向けたくなる情景。

水が張られた田では「代掻き」をしている場面があちこちで見られました。世界遺産に登録され、世界に知られた「白川郷」ですが、そこには普通に人の営みが行われている日常があるのです。

目に入る風景の一つ一つがどれほど素晴らしくとも、そこに暮らす人たちの存在を忘れてはいけません。時折見かけてしまう心無い行為は、通り過ぎてしまう旅人の私さえも、眉をしかめ、胸を痛めるものです。

誰もが心惹かれる景色は、そこに暮らす人たちによって守られている事を、ここに訪れる誰もが心して欲しい・・・そう願わずにはいられません。

 「合掌造り」とは、木の梁を山形に組み合わせて建てられた日本独自の建築様式です。外から見たその形が、まるで掌を合わせたように見えることから「合掌」造りと呼ぶようになった等、諸説あるようです。白川郷の合掌造りは「切妻合掌造り」といわれ、屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴です。積雪が多く雪質が重いという白川郷の自然条件に適合した構造になっています。」白川郷観光協会公式ページ

 

 訪問日:2012年5月19日


白川郷:合掌造り集落~其の二 in 岐阜県白川村

2020年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

古くより人々の暮らしが営まれる土地には、必ず神や仏が存在し人々の敬いを受けて来ました。人智の及ばぬ様々な現象をもたらすものを神として奉り、敬い、恐れ、そして恐れの向こうにある救いを仏に求めてきました。

村の入り口に鎮座される「秋葉神社」。拝殿前の説明には「江戸時代、度重なる火災と、特に天明三~七年の大飢饉ので悪病が流行し多くの犠牲者を出した。この苦境を乗り超えようと「小神堂」を建立、大正時代に神殿を改修し「秋葉神社」と改めた。」白川郷の散策では一番最初に出会う村の鎮守様。

古くより続く家には、屋敷神と呼ばれる神様が奉られています。その昔、神田家の先祖の夢枕に水神の化身である白蛇が現れ「この湧き水を汚すことなく守り暮らすように」とお告げされました。敷地内には、その証として建立された社に「水神」が奉られています。

茅葺屋根の建物の前に建立されていた三基の碑。日露戦争に出征して戦死された人たちの慰霊碑だそうです。神仏の括りとして相応しいかどうかと問われれば、やはりこの項が相応しい気がします。

由来やご祭神がわかるものもあれば、きちんと奉られているにも拘らず神社名が全く不明な社もあります。この社殿は「荻町城址展望台」に祀られていたものですが、社号を現すものも見当たらず、したがってご祭神も不明。

観光案内のページなどに必ず登場する「明善寺鐘楼門」。屋根は茅葺きですが、1階に板庇(ひさし)をつけた珍しい建築様式で、亨和2年(1801)に『加藤定七』以下、延べ人数1425人を要して建てたと伝えられています。

初代の梵鐘(ぼんしょう)は太平洋戦争の際に供出。現在の梵鐘は、高岡市の鋳金工芸作家『中村義一氏』によって戦後に作成されました。季節ごとにその装いをかえる優美で素朴な鐘楼門は、国の重要文化財に指定されています。

 真宗大谷派寺院「松原山:明善寺」。合掌造りの本堂は、文化3年(1806)より欅材の伐採に着手し、20年近い歳月を経て、文政10年(1827)に高山の大工『水間宇助』他、延べ9191人を要して建築されたといわれています。

本堂横、合掌造りの庫裏は、江戸時代末(1817年頃)に高山の大工副棟梁『与四郎』によって建てられたもので、県・重要文化財の指定。階上は郷土の民具や資料などが展示され「明善寺郷土館」として公開されています。

白川村荻町、「明善寺」の手前に鎮座される「白川八幡神社」。御祭神は『応神天皇』。毎年10月14・15の両日に「どぶろく祭り」が開催される事でも知られており、白川郷一帯の鎮守様ですが・・・・・鳥居の向こうには無粋な重機がデ~~~~ン😱!・・・工事中😭

案内に「和銅年間(708~714)創建と伝えられている。寛永12年(1636)に社殿を再建。延享5年(1748)、別当寺として内ヶ戸から明善寺を移す。」

鳥居の左右から神域を守護される狛犬さん、いわゆる岡崎型で普段ならあえて紹介はしないのですが・・・そこはまぁ白川郷なので😅

白川八幡神社の絵馬は、白山を背景に「どぶろく祭り」に奉納される獅子舞。

絵馬と言えば・・ここ「白川八幡神社」は同人ゲーム「ひぐらしのなく頃」に登場する「古手神社」のモデルだそうです。オタク好みの華やかなイラスト絵馬が奉納絵馬の大半を占めています。奉納の文言は「聖地巡礼なのです」・・・だそうです😅

 参拝日:2012年5月19日

まだまだ見所一杯の白川郷ウォッチ、~其の三に続きます


白川郷:合掌造り集落~其の一 in 岐阜県白川村

2020年04月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

岐阜県白川村の荻町地区に残る、大小100棟余りの合掌造り集落。日本の原風景ともいうべき美しい景観をなすこの集落は、1976年に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として重要伝統的建造物群保存地区に、また1995年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 

岐阜の観光パンフレットとか、世界遺産の旅特集とか・・今まで本や写真でしか見たことがなかった「白川郷」。車中泊旅の目的地を「岐阜県」と決めたとき、真っ先にコースに入れたのが、ここ白川村の白川郷でした。ずっと憧れだった「白川郷」。それが、今、目の前に・・・駐車場に車を入れ、庄川に架けられた出会い橋を渡ったら・・・さぁ!白川郷へ😍

 最高に素敵な白川郷、どこから紹介しようか・・歩いた順?印象が深かった順?文化財の建物?有名な名所?・・・・・・とあれこれ考えても結論は出せず、何時のように思いついた場所から😅

まずは「お食事の庵 基太の庄」。築250年の合掌造りで頂く「岩魚の塩焼」、自家製の「朴葉味噌で頂く飛騨牛のステーキ」・・・フレーズは素敵ですが、実はわたし、岩魚も飛騨牛も全くダメなのです。いつも私に合わせてくれるご亭主殿、今更ながら、ごめんね~~~~~😣

おみやげ処「めめんこ」の店先。ここにしかない「白川郷:どぶろくきんつば」のフレーズに思わず立ち止まってしまいました。お酒は一滴も飲めない+きんつば大好き・・・悩みまくって購入しましたが、やっぱりというべきか見事に撃沈。ご亭主殿が美味しく私の分も頂いてくれました😄 そうそう、「めめんこ」って「ねこやなぎ」の事だって。

飲み物を買ったお店の方が記念にと写して下さった写真。こういうサービスって個人の旅行者にはとっても嬉しい。

大型バスが何台も並び、観光客が押し寄せる白川郷。お食事処やお土産のお店はいつも沢山の人だかり。でも折角この美しい集落を歩けるのです。もっと貪欲に、ただし余所者としての謙虚さを絶対に忘れずに、隅から隅まで記憶に残そうね。

五月の白川郷。水を張られた田圃がそこかしこにあり、例えば軒先の木々が、切妻の屋根が、水鏡にやわらかく影を落としています。

どの家も美しい佇まいですが、やはり文化財に指定された建物には、それなりの凄さも付いてくるようです。明治23年(1890)に建てられた「白川郷最大級の合掌家屋」「長瀬家住宅」国重要文化財に指定された建物ですが、普通に現役で人々の暮らしが営まれています。

同じく白川郷最大級の合掌造り民家は、江戸時代後期に建てられた「和田家」。当主は代々『弥右衛門』を名乗り、江戸時代には牛首口留番所役人や庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄です。

白川郷の合掌造民家として最大級規模であり、また式台玄関を備えるなど、質、格式ともに優れた建築であること。その他、附属建物や消雪用の石組溝など屋敷構えも良く残されているとして、1995年12月、和田家主屋、土蔵、便所(右手の小さな建物)の3棟ならびに土地を重要文化財に指定。

和田家住宅は、現在も住居として使われていますが、内部の見学が可能ということで、アジア方面の観光客の人たちが賑やかに出入りしていました。そのパワフルさに圧倒され外観を見ただけで退散・・あのけたたましさ・・さすがにしんどくて・・苦手😓

「神田家合掌造り民芸館」は、文政年間に和田家から分家した当主が、およそ10年の歳月をかけて建てたもの。木造4階建(中2階を含めると5層)の建物で、1階は居住空間、中2階は寝室、2・3階は養蚕の作業場、4階は物置になっています。当時、「白川八幡神社」の社領(神田)があった場所に屋敷を構えたことから、「神田」を苗字としました。

妙に人気の無いこちらの建物は、白川村指定文化財の「旧寺口家住宅」「安政の地震(1850年代)により以前の住宅は倒壊し、その後再建されたものである。建築当時とほとんど変わらない状態で保存されており、昭和62年からは日本ナショナルトラストにより保存、管理が行われている。」案内板より

 

合掌造りの家屋の傍らに頻繁に見かける小さな小屋には「放水銃」が格納されています。火事の恐怖は何時、何処にいても同じ・・とは言え、茅葺屋根の集落においては、その脅威はより深刻であろうと思われます。生命財産はむろん、大切な国の宝を守り続ける為に、ここ白川郷の集落では毎年11月上旬頃に一斉放水の訓練が行われるそうです。

訪問日:2012年5月19日

見所一杯の白川郷ウォッチ、「~其の二」に続きます


「三寺まいり」と「あゝ野麦峠」 in 岐阜県飛騨市古川

2020年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

浄土真宗本願寺派寺院「照耀山:円光寺」『阿弥陀如来』を本尊とし、.近隣の真宗寺や本光寺とともに「三寺まいり」の寺として知られています。創建は永正十一年(1514)。垣株堂という道場として開かれたのが始まりと伝えられ、山門は、天正年間(1573~1593)に築かれた「増島城」が廃城となった後に移築。飛騨市史跡 に指定されています。

本堂は寛文7年(1667)の建立。妻面に施された亀の彫刻は「水呼びの亀」と呼ばれ、明治37年(1904)の古川大火の際に、火災から本堂を守ったと云われています。

鐘楼と経蔵の後ろに見えているのは、瀬戸川用水沿いに見えていた洋風建築っぽい建物の一部。あれって、結局なんだったんだろう??

側の解説板に気付かなければ素通りしたかもしれない大石・・・「境内にある上町塔の腰塔心礎は上町廃寺の五重塔の塔心礎と推定されるもので飛騨国内に見つかっている塔心礎4基のうち柱穴が最大のものとされ飛騨市指定文化財に指定されています。」

荒城川河畔に建つ、浄土真宗本願寺派寺院「朝光山:真宗寺 」、同じく『阿弥陀如来』を本尊とします。 文亀2年(1502)に白川郷萩町に開創。天文11年(1542)に古川町に移転しましたが、金森氏が飛騨の領主になると、新しく作られた古川町三之町の現在地に移転しました。

本堂は明治37年(1904)に起きた古川大火によって「輪転蔵」だけを残し、他の伽藍と共に焼失。現在の本堂は明治45年(1912)に再建されたものです。

本堂脇に建つ輪転蔵経堂」は明和8年(1771)の建築で、飛騨市指定文化財。格子戸の小さな穴から見える仏の世界は、250年近い年月を経たとは思えないほど鮮やかで美しいものでした。

実は「三寺」の中で一番最初に立ち寄ったのは、荒城川に架かる「霞橋」を渡ってすぐ右手の「本光寺」。激しい雨の為に車内から山門を写し、目当ての銅像をデジカメに収めただけで、直ぐに車に戻ってしまいました。

激しい雨にも拘らず画像に収めたのは、『あゝ野麦峠』の文学碑と工女の像。
「二月もなかばを過ぎると 信州のキカヤ(製糸工場)に向かう娘たちがぞくぞくと古川の町へ集まって来ます。みんな髪は桃割れに、風呂敷包みをけさがけにして「トッツァマ、カカマ達者でナ」 それはまるで楽しい遠足にでも出掛けるように元気に出発して行ったのでございます」

お天気が回復したので本格的に町歩きをし、最後に立ち寄ったのは、国登録有形文化財で野麦峠にゆかりの老舗旅館「八ツ三館(はっさんかん)」。明治38年(1905)に建てられたもので、今も現役で営業されています。

「~そのころ、古川町の工女宿向町の八ッ三旅館の前は工女の荷物をとりに来た親たちで、毎日ごった返して、廊下や裏庭は足の踏み場もなかった。」あゝ野麦峠より

後で気がついたのですが、「八ツ三館」の川向こうに見えていたお寺って「本光寺」だったんですね😓   町歩きに思ったより時間を費やし、遠目で見ただけで確認さえしなかった・・・。これでは「三寺・・」ではなくて「二寺まいり」。でもってこちらの本堂、木造建築では飛騨地域で最も大きく、装飾も飛騨の匠の技巧をつくしたものだとか~~~~~💧💧

毎年1月15日に行われる「三寺まいり」。飛騨古川に200年以上も前から続く『親鸞聖人』のご恩を偲び、町内の3つの寺、円光寺・真宗寺・本光寺を詣でる独特の伝統風習として受け継がれてきました。

「その昔、野麦峠を越えて信州へ糸引きの出稼ぎに行った年頃の娘たちが着飾って瀬戸川の川べりを歩いて巡拝し、男女の出逢いが生まれたことから「嫁を見立ての三寺まいり…」と飛騨古川の小唄にも唄われ、縁結びが叶うおまいりとして全国に知られるようになりました。」飛騨市公式ウェブサイトより

「女工哀史」によって悲惨な面ばかりがクローズアップされてしまった飛騨の女工たち。ですが当時の日本には、過酷な出稼ぎの話はごく普通に転がっていました。家の為に身を売る事も決して珍しい事では無かった時代の女たちを、可哀そうだ、悲惨だ、残酷だと、現代人が賢しらに煽り立て、薄っぺらい正義感と同情をひけらかす。それは「驕り」以外の何物でもないと・・私は思います。

訪問日:2012年5月18日


飛騨古川の町歩き in 岐阜県飛騨市古川

2020年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

古川町弐之町に酒蔵を構える「渡辺酒造店」。明治三年(1870)の創業で店舗は国登録有形文化財の指定。大きな杉玉の横に架けられた「蓬莱」の看板、飛騨の濁り酒(どぶろく)なら「蓬莱」と言うのが定番だそうです。

その「渡辺酒造」の倉庫の角に、「杜氏酛摺(もとす)り像」と題された像があり、下に『司馬遼太郎』の書による言葉が刻まれています。二人の杜氏の凛々しい顔立ちは、是非ともアップで堪能してください😊

【杜氏殿の 心澄みゆき魂きはる  いのちの酛は 生まれ初めけり】(酛は酒母の別名)

宝永元年(1704)創業の「有限会社蒲酒造場」。大きな杉玉の横に並ぶ「白真弓」の看板が歴史の重さを感じさせる建物は、国登録有形文化財の指定。

白真弓の名の由来は、万葉集の巻代十二の中にある「ひだ」の枕詞に由来するとも言われているとか・・「利は貪るべからず頂くべし」の家訓の元、「飛騨の銘酒:白真弓 大吟醸」を生み出しています。

弐之町の角に建つのは、「創業文化二年(1805):三伊呉服店」。店先でご亭主殿が熱心に見ているのは、額に納められた古い「染め型紙」。職種は違えど、かって共に着物の道に進んだ二人にとっては、これは必見のお宝。

和紙と灯芯と真綿で作った芯に、ハゼの実から出来た蝋を掛けながら形を整えて製作される『生掛和蝋燭』のお店、「三嶋和ろうそく店」。飛騨の風物詩「三寺まいり」のために、三嶋和ろうそく店では重さ13kgにも及ぶ大きな和ろうそくを作り、それぞれのお寺に奉納されています。

この和ろうそくはどこで見たんだったか・・・目に付くものを片っ端から写していると、つい関連付けを忘れてこういう結果になります😓

歴史とモダンが不思議なほど調和して、このシックな町並にすっぽりと溶け込んでみえるのも、古川の優しい雰囲気の魔法でしょうか?のんびりと見て歩けば、数え切れないほどの素敵に出会えて、いつの間にか時間を忘れている事に気づく。

水が美味しい飛騨ならではの、極上の珈琲を楽しませてくれるのが「壱之町珈琲店」。濃い珈琲の香りに歩き疲れた足もほぐれて幸せなひと時・・でも途中から漂ってきたカレーの香りは、私にはちょっと残念な思い出となりました。御亭主殿にはどっちも良い匂いだったようですが😅

訪問日:2012年5月18日


瀬戸川と白壁土蔵群 in 岐阜県飛騨市古川

2020年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

高山の奥座敷と称され、飛騨に残るもう一つの古い町並みとして知られる飛騨古川。 白壁土蔵やお寺の石垣を背景に、1,000匹余りの鯉が泳ぐ瀬戸川の風情は、観光地:飛騨古川の象徴としてパンフレットなどに多く取り上げられています。

碁盤のような町割りや古い町家が今も残り、約500m続く白壁土蔵街。この時は生憎の雨模様でしたが、しっとりと濡れた石畳、幾つもの波紋を描き出す水路、舞い落ちる柳の葉に釣られて近づく鮮やかな鯉の群れ・・どれもが水彩画の世界のように優しく鮮やかに織り成されてゆきます。

そぞろ歩きの途中に見つけた『若山牧水』の歌碑。「大正10年10月白骨温泉より平湯峠を越えて飛弾に入り、20日福田夕咲と共に野口の簗に遊び、その夜当町一之町料亭杵寅で地元の歌人らと酒を酌みかわす。~後略」碑文より

【 ゆきくれて ひと夜を宿るひたのくにの 古川の町に 時雨ふるなり 】

まさしく、「古川の町に 時雨ふるなり」の情景が、歩を進めるごとに展開、これで彼のように歌の一つでも詠めれば、気分はすっかり「旅の歌人」

【 憧れて  たずねてきたるひたの国 影によりそう鯉のやさしき 】tibineko

やがて、石畳を濡らしていた雨も止み、薄日が指し始めた瀬戸川沿い。雨を避けるように隠れていた鯉たちが、水辺に映る人影を見つけて近寄ってき始めました。

瀬戸川の水辺には幾つもの黒い小箱が設置され、そこで「鯉のえさ」が販売されています。何でも食べる鯉ですが、水路を美しく保つ為にも、決められた「鯉のえさ」以外の投げ込みは、決して!してはなりません。

ふと見上げた先に、切り絵版画のような看板を発見。同じ場所を探してデジカメを向けてみましたが、実際と絵の世界では色々と障害物もあり😅、同じ構図にはなりません。(腕の悪さは勿論棚上げ)

さぁ、雨も止んだ事だし、古川の町並に溶け込んだ素敵なお店とか、楽しい看板とか、じっくり訪ねて歩きましょう。町歩きの醍醐味は、なんでもない日常の中にさり気なく存在する「素敵」を見つける事なのだから。

訪問日:2012年5月18日


荘川桜(しょうかわざくら) in 岐阜県高山市荘川

2020年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「御母衣ダム」によってつくられた御母衣湖畔の展望台に立つ、江戸(あずま)彼岸桜2本の巨桜「荘川桜(しょうかわざくら)」。樹齢500余年といわれる二本の桜は、いまは湖底に沈む照蓮寺と光輪寺の境内にあったものです。

「なんか凄そうだけど・・・でも葉桜じゃないか!」と思っているそこのアナタ😠!。実は私も同じ事を思っているので、パンフレットからの転載画像でその美しい姿をチラッとお目にかけましょう。どうです!この見事な美しさ・・・まさに日本を代表するに相応しい佇まいではありませんか!!

樹高約20m、幹囲目通り約6m、この巨桜が今この地にあるのは、ダムを建設した電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁『高碕達之助』の発案により、同社によって移植されたからだそうです。老巨桜の移植と言う前代未聞のプロジェクト、その壮大な物語は多くのメディアにも取り上げられました。 『高碕達之助』が詠んだ歌碑が、御母衣湖畔に建立されています。

【 ふるさとは  水底となりつ うつし来し  この老桜  咲けとこしえに 】

また、「故:高崎達之助翁と荘川桜」と題された碑にはかって高崎翁が光輪寺に老桜を訪れたとき、慈愛に満ちた口調で語った言葉は、その時 翁に従っていた者にいつまでも深い感動を与えた。「進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われてゆく。だが人の力で救えるものは、何とかして残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いものである。」刻まれています。

もう一基、『佐佐木信綱』の読み上げた歌には、湖底に沈む村への限りない慈しみが溢れているようで、胸に迫るものがあります。

【 すすみゆく  御世のしるしとうもれても  荘白川の  名をとこしえに 】

湖底に眠る祖先の霊を慰めるために、湖底の方を向いた姿で建立されたという浄土真宗の僧侶『嘉念坊善俊:合掌像』。 親鸞の直弟子で、白川郷に浄土真宗を広めた人物として知られ、今も白川村には彼の墓が存在しています。

訪問日:2012年5月19日


臥龍(がりゅう)公園と臥龍桜 in 岐阜県高山市一之宮

2020年04月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

旧一宮村のマンホールデザインにも用いられた「臥龍(がりゅう)桜」。樹種はエドヒガン桜。幹の目通り周囲7.3m、枝の差し渡し東西20m、南北30mに達します。一見すると二本に分かれて見えますが、もともとは一本の木だったものが、主幹から伸びた大枝が重みで地に着き、そこに根を張り、今の形になりました。

う~~~~~ん、やっぱり上の絵のように桜色が鮮やかなほうが見応えがありますが・・季節的には望むべくも無いこと、ここは潔く😠、立派な葉桜で。樹齢1,100年を超える国の天然記念物「臥龍桜」。かなり小柄な私と比べるのは如何なものかと思いますが、それでもその雄大さは充分に伝わると思います。

臥龍の桜として名高い桜ですが、もともと飛騨三十三観音札所の一つの「大幢寺(だいとうじ)」の境内にあり、昔より「大幢寺の大桜」として親しまれていました。昭和6~7年の高山線工事中の頃、第二十代『大喝道仙和尚』が、龍が臥した用に見えるという事から「臥龍桜」と命名したといいます。

まさに、龍が臥せたように幹を伸ばす見事な樹形。元禄年間(1680)、全国を行脚した旅の僧『円空』は、この桜を見て次のような歌を残しました。

【 一の宮  神の御舟ははるはると  花の盛りも 長くさくらん 】

古来より人々に愛されてきた「一宮の臥龍桜」でしたが、昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により、大きな枝が4本折れたり幹が避けるなどの瀕死の重傷を負いました。その後3年の歳月をかけて樹木の外科手術が施され、支柱を立てて枝を支えるなどの保護処置を実施。そうした人々の努力が報われ、「臥龍桜」は再びその美しい姿を蘇らせたのです。1989年には周辺の整備がなされ、「臥龍公園」として多くの観光客の目を楽しませています。

公園の一画に祀られていた「三木祖霊社」。傍らに旧宮村文化財の碑。「山下城の城主で大幢寺中興の開基でもあった『三木三澤』は、天正13年(1585)8月、『金森長近』と戦って討死しました。大幢寺では彼の霊を弔うため大桜の下に葬り墓(五輪塔)を建立。その後、弘化4年(1847)に『祖胆和尚』は子孫である『三木七郎右衛門』と共に、傍らに祖霊社を建立。昭和34年九月の台風によって大きな被害を受けたため、公園内の現在地に移築されました。」宮村文化財一覧より

公園の外、一宮駅の歩道橋を降りて直ぐに石塔などが建立された一画。「観退と六地蔵」と題された案内板には、「万霊塔」の脇に屹立する念仏石塔と六地蔵(現在は四地蔵)は『山梨浄心』がその居宅の前に建立したものである事。また「万霊塔」は大原騒動犠牲者の霊を弔う為に建立したものである旨が記されています。

飛騨一ノ宮駅から徒歩1分という立地ゆえに、電車の発着を間近に見られるのは、いわゆる「オタ」でなくとも、ついつい聞こえてくる音が気になる物😅。白い車体がゆっくりと動き出す瞬間を写真に収める事ができて、妙に得した気分です。

旧清見村では「カワセミ」が、旧朝日村では「スズラン」が街灯になっていましたが、ここ一宮では「臥龍桜」が街灯にデザインされています。「淡墨桜」、「荘川桜」と並んで岐阜の三大巨桜として知られる「臥龍桜」。本音を言えば、一度で良いので満開のその姿を見たいものです。

訪問日:2012年5月17日


飛騨一宮:水無(みなし)神社 in 岐阜県高山市一之宮町

2020年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

高山市一之宮町一の宮上に鎮座される「飛騨一宮水無(みなし)神社」。御祭神は「位山」を神体山とする『水無大神(御歳大神ほか14柱の総称)』。水無は「みなし(水成)」または、「みずなし」とも言われ、「すいむ」と音読することもあり、これには「水主」という意味があります。

「神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。」由緒より

拝殿左右より神域を守護されるのは、昭和28年(1953)9月建立の神狼さん一対。神門より外からの撮影なのでこれが精一杯ですが、全体的にとても精悍でスマートな印象。

丁度この時間に「車祓(くるまばらい)」の予定が入っていたらしく、神門の前には新車の生コン車が二台、神妙な赴きで並んでいます。

ご神事の邪魔をしてはならないので神門の写真は諦め、格子戸の隙間から木彫の神狼像を激写。江戸中期頃の建立と伝えられる一対の狼、そのカミソリを思わせるシャープな線は、今にも低く唸り声を発しそうで、見るものを圧倒させます。実は拝殿横の神狼さんは、この木像がモデルなんだそうです

市指定文化財の絵馬殿、棟札によれば、慶長12年(1607)に高山城主『金森長近』により、拝殿として造営。

絵馬殿には実に沢山の絵馬が奉納されており、欲を言えば全部紹介したいのですが際限ないので、ほんの触りだけ😓

境内の一画に鎮座される「末社:白川神社」、御母衣ダムの湖底に沈む予定であった長瀬・橋島地区の白山神社が合祀されたもので、場所を隔てても尚、かっての神域を見守っておられるようです。

神馬舎に安置されている「黒駒」は、『左甚五郎作』と伝えられる「稲喰神馬(いなはみしんめ)」。「白駒」は飛騨の工匠『武田万匠作』と云われる「祈晴の神馬」。特に白駒は「あ~あ・・😩」という写りですが、雰囲気だけでも伝わればと、あえて掲載😠

左・切り株状の檜は、絵馬殿の横に保存されている「御神木:拗(ねじ)の木」、文字通り左巻きにねじれています。右の「神杉」は、鳥居横に立つ樹高45m、枝張り幅20m、目通り6.45m、樹齢およそ800年の老杉で、県指定天然記念物。

境内の一角に『島崎正樹宮司』歌碑、あの著名な作家『島崎藤村』の実父です。

【 きのうけふ  しぐれの雨ともみぢ葉と  あらそひふれる 山もとの里 】

最後は、参道の一角に建立されていた「大原騒動大集会の石碑」。飛騨一円をまき込み、日本近代史に残る一大農民一揆となった「大原騒動」。この一揆によって水無神社の神主四名が、磔(はりつけ)の刑に処せられました。どの時代にも、どこの地にも、己をすてて民が生きる為に戦った人々がいました。その御霊・・安らかなれと、願わずにはいられません🙏🙏。

参拝日:2012年5月17日


金峰(きんぽう)神社 in 岐阜県高山市朝日町

2020年04月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

高山市朝日町見座前平に鎮座される「金峰(きんぽう)神社」。御祭神は第二七代天皇『安閑(あんかん)天皇』。『継体天皇』の第一子。母は尾張連草香の『女の目子媛(めのこひめ)』。大和の「勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)」に都を置き、在位二年。屯倉(みやけ)を増設し、「勾舎人部(まがりのとねりべ)」「勾靱部(まがりのゆきべ)」を置いたとされます。

享保九年(1724)十月創祀とあり、それ以外の由緒を示す記載はありません。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、たっぷりとした貫禄が魅力的な狛犬さん一対。ご亭主殿に言わせると、こちらもいわゆる飛騨のイノシシ型なんだそうですが、顔立ちはイノシシと言うよりも「獅子」の精悍さ。

珍しく後姿の吽形さんと、横顔の阿形さん。

さて・・・フォルダの中には、拝殿も境内の画像も無いと言う・・何とも不思議な参拝の画像。参拝どきに何かあったのか?と思い返し・・思い当たったのが、境内を覆い尽くすほどの満開の桜・・。有名な桜には縁が無い二人ですが、遅咲きの八重桜だけは各地で見ることができました。多分その美しさに夢中になってしまったんです😔

拝殿横の草地には「マムシグサ」の群生。その足下に大正十四年の文字が刻まれた石仏さんたち。

神社に参拝に来たはずなのに、今回は随分と不真面目とお叱りを受けそうな結果になりました。折角なので「マムシグサ」の写真。私の地元で見かけるのは殆どが「ウラシマソウ」。茎に紫褐色のまだらな模様を見た時、改めて名前の由来に納得(毒草なので良い子は触らないように!)

参拝日:2012年5月17日