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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

別宮(べつぐう)神社 in 福井県敦賀市櫛川

2016年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市櫛川に鎮座される「別宮(べつぐう)神社」。御祭神は『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)』、また一説には『仲哀天皇・神功皇后』とも云われます。

由緒「往昔より別宮大明神と尊称し、聖武天皇天平二十年(748)蒙古襲来夜、敦賀の天地轟々震動し蒙古の軍悉く海中に覆没した伝える。この神瑞霊異を氣比宮の神官が朝廷に奏上した為、氣比宮の御造営の宣旨があった。其の折、櫛川と松原にも神社を創立したと云われている。当社御創立の以前は氏神に山神社を奉斎していたものと推想される。」敦賀郡神社誌より

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大きな耳を横に張り出した、大正4年(1915)6月建立の、エイリアンタイプの狛犬さん一対。目・口に施された彩色が鮮やかなのは、時に応じて化粧直しがされているのかもしれません。

ちなみに横顔で並べてみると、仲良しの二人がとっても楽しい相談をしているような雰囲気。人の手によって生み出された狛犬さんたち。見る角度によって想像が膨らんでくるのも、また、楽しみのの一つだったりします

本殿の傍らにあった末社に奉納されていた吽形だけの笏谷石の狛犬さん。満身創痍ですが、それでもこうして健気に神域を守護されています。

参拝日:2012年7月12日

 


金崎宮(かねがさきぐう) in 福井県敦賀市

2016年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市金ヶ崎町に鎮座される「金崎宮(かねがさきぐう)」。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。御祭神は『恒良(つねよし)親王・尊良(たかよし)親王』。

境内迄の九十一の石段は、幸福の階段と名付けられています(^^;)。その理由は「九十二が無い・・・【九(く)・二(に)】つまり苦にならない」・・と言う事で「必ず駆け上がってください」と説明に書かれていますが、たどり着く前に間違いなく病院送りになります σ(^◇^;)

由緒「後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて金ヶ崎城に入城。半年の間、足利勢と戦うも遂に落城、尊良親王、新田義顕以下将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子『恒良親王』は何とか逃れられるも、後に幽閉され 翌年京都にて他界される。金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年、敦賀の人々の熱烈なる請願によって『尊良親王・恒良親王』を祭神に、社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である」

長い石段をやっとの思いで登りきると一の鳥居、その先に舞殿、拝殿が続きます。約1000本のソメイヨシノが境内を彩る金﨑宮は桜の名所としても知られており、毎年4月1日~15日に行われる「神事・花換まつり」が有名です。

舞殿の後方、拝殿には菊の御紋の神社幕が、まるで日章旗のように鮮やか。

拝殿の朱の透かし塀を背にして神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

境内摂社「絹掛神社」。御祭神は『尊良親王に殉じた総大将・新田義顕以下三百二十一名』

鳥居前左右より神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

絹掛神社の御社殿前より神域を守護されるのは、大正2年(1913)1月建立の狛犬さん一対。

体は小さくとも、方耳を失おうとも、御祭神が鎮まる聖域を一生懸命守護されています。

拝殿下の境内に建立されていた時計台は、「御鎮座 貮拾年記念」の奉納。

ちょっと風変わりな可愛い絵馬は、織田信長の窮地を知らせる為、妹お市が陣中に届けた小袋が手本だとか。朝倉攻めを見事勝利に導いたこの逸話から、金崎宮は難関突破の宮とも言われています。

「金崎宮」から花換えの小径を辿って更に上に行けば、国の史跡「金ヶ崎城址」に至ります。そこには、共に戦った武将たちと運命を共にする為に自刃した「尊良親王御墓所見込地」もあるとか。もう少し頑健であれば訪ねて見たかった史跡ですが、ここは謙虚にわが身を顧みて自粛(^^;)

城址碑のある場所から見えた敦賀港の風景

帰路の石段途中に鎮座されていた「愛宕神社」、鳥居の前からの拝礼で失礼させていただきました(o_ _)o

参拝日:2012年7月10日

 


氣比(けひ)神宮~Ⅱ~ in 福井県敦賀市

2016年07月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する「氣比神宮」。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的な玄関口にあたる要衝であった事から、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視されました。昨日に続いての氣比神宮、大鳥居は二度目の参拝、三年後のもの・・かなり色褪せが目立ちます。

二日目の今日は、南参道から神橋を渡っての境内紹介。

一の鳥居をくぐった先より神域を守護されるのは、明治28年(1895)4月建立の浪花タイプに近い狛犬さん一対。

笏谷石の狛犬さんに比べると、とにかく人懐こい顔立ち(笑)。それはともかく・・阿形さんの口元から流れ出た黒いシミのようなもの・・非常に気になります。心無い愚者の仕業でなければ良いのですが・・

南参道からすぐ左手に、「末社:大神下前(おおみわしのさき)神社」、御祭神 は『大己貴命(おおなむちのみこと)』。こちらは2009年参拝時の画像。

「式内社で、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。」公式HPより(三年後の画像)

鳥居の内より神域を守護されるのは、宝暦7年(1757)9月吉日建立のダースベーダー顔の笏谷石狛犬さん一対。うっかり手を出すと嚙み千切られそうな吽形さんの噛み締めた歯・・・怖いですよ(^^;)

大神下前神の左(向かって右)に鎮座される「末社:兒宮(このみや)」。御祭神は『伊弉冊尊(いざなみのみこと)』。平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前よりの鎮座とされます。

徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤く、公式HPいわく、母子大小の笏谷石狛犬さんが拝殿内を守護されています。

母子狛犬とありますが、おそらくは全く別個の狛犬さんを一対にしたと思われ、母とされる阿形さんは、享保11年(1726)の建立。

子とされる吽形さんは、嘉永2年(1849)の建立。似ても似つかぬ見知らぬ赤の他狛犬ですが、縁あって母子とされたのであれば、仲良くお過ごし下さいますように。

「兒宮」の隣に鎮座されるのは、摂社で式内社の「角鹿神社」。御祭神は『都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)

「崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」に由来する。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われた。」公式HPより JR敦賀駅前『都奴賀阿羅斯等』の像

境内亀池側の絵馬殿

「亀池」敦賀は名水湧出の地であり、特に境内は水脈の中心に位置し江戸時代に当宮の亀池は「日本庭園歴覧」に記された名池でもあった。明治42年、東宮殿下(大正天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語る。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備しお水取りの参詣者でにぎわう。」公式HPより

昭和11年、当時陸軍関係者が武運を祈願して献木されたユーカリの木。傍らの案内板によれば、ユーカリが北陸の寒冷地に育つのは珍しく、敦賀市指定天然記念物となっています。

「旗掲松」南北朝争乱時代の延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと云う「旗掲の松」。金ヶ崎城を築いて足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死す。今でも旧根が朱塗中鳥居前に残り二代目が成木として雄々しく育つ。」公式HPより

参拝を終えて手水舎の近く、気になっていた「長命水」で気比神社の紹介は終わり。説明によれば、大宝2年(702)の修営途中に、突然として地下水が噴出したと伝えられており、以来、1300年以上に亘り「長命水」の名称で親しまれ、小容器で持ち帰る人もいるそうです。

参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日

 


氣比(けひ)神宮~Ⅰ~ in 福井県敦賀市

2016年07月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀市曙町に鎮座される「氣比(けひ)神宮」。式内社(名神大社)で、北陸道総鎮守・越前国一宮。旧社格は官幣大社。御祭神は『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)・仲哀天皇・神功皇后』

参拝者を迎えてくれるのは、正保2年(1645)造営の木造朱塗の両部大鳥居。扁額の文字は『有栖川宮威仁親王』の染筆で、国の重要文化財に指定されています。奈良「春日大社」の大鳥居、広島「厳島神社」の海上に立つ大鳥居と共に「日本三大鳥居」の一つに数えられています。

「二千有余年前、伊奢沙別命は天筒の嶺に霊跡を垂れ土公の地に降臨したと云う。仲哀天皇御即位の後、当宮に国家の安泰を御祈願された。神功皇后三韓征伐出兵の折に御参拝され、海神を祀るように神託を受け、海神から干・満の珠を得た。仲哀天皇8年、安曇連に命じて気比神を祀らせたと云い、これが神宮の創建とされる。大宝2年(702)、文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。」公式HPより

中鳥居の正面に見える外拝殿・内拝殿、更に奥に本殿が鎮まり、周囲には『日本武尊・応神天皇・玉姫命・武内宿禰命)』を御祭神とする「東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮(四社の宮)」が鎮座されます。

「古事記」によれば、御祭神伊奢沙別命「御食津(みけつ)大神」とも称されており、「御食津」が「気比」に転訛。「けひ」は「食(け)」の「霊(ひ)」。すなわち食物神としての性格を表す名称ともいわれます。

御本殿に向かって鎮座される「九社之宮」。古来より氣比大神の御子神等関係の神々をお祀りする社として崇敬されています。

かって国宝とされた社殿群は第二次大戦の空襲で大鳥居を残してすべて焼失。現在の主要社殿は戦後の再建で、この廻廊も「昭和の大造営」によって新築落成されたもの。

廻廊を出て境内を突っ切った先、天筒山(てづつやま)に向かい合うように「土公(どこう)遥拝所」があります。

「上古、『伊奢沙別命』は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨せり」「土公は陰陽道の土公神の異称。その土砂を土公の在る地に撒けば悪しき神の祟りなし」

戦後の諸事情により、鎮座地を「敦賀北小学校」に譲る事になった「土公」ですが、神宮創建に関わる「神籬(ひもろぎ)」であるため、校庭の一角にそのままで保存され今日に至っています。鳥居の奥より遥拝所を守護されるのは、享和元年(1801)建立の笏谷石(しゃくだにいし)の狛犬さん一対。

扇のように肩から背中にかけて開いた鬣(たてがみ)の形状が、遠くエジプトのスフィンクスを想像させるという人もいますが、私にはクレオパトラの髪型に、より似てると思っています(^^;)

インパクト大のお顔、正面から!

豪快な笑い声が聞こえてきそうな阿形さん・・横顔とのギャップが(^^;)

後姿だけ見たら、ぱっつん切り髪のお姉さんみたいなストレートヘアー。お揃いの尾が何とも素敵で・・(((((^_^;)

気比神社境内には、摂社5社・末社9社の計14社が鎮座されています。まずは境内入り口近くに鎮座される「猿田彦神社」。御祭神は『猿田彦大神』。気比神をこの地に案内したとされる神です。

鳥居の内、参道中ほどより神域を守護されるのは、寛保3年(1743)8月吉日建立の笏谷石の狛犬さん一対。

横顔とのギャップ、土公さんの狛犬さんに負けずとも劣らず(笑)

世間の悩みやしがらみが全部消えてしまいそうなお顔(笑)

仏教の影響による「猿」と「申(さる)」との混同から、庚申(こうしん)の日に祀られるようになったという「猿田彦神」。その為か「蟇股」の彫刻は「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿。

こちらの狛犬さんを写真に写していると、近所に住んでいると言う人から声をかけられました。いわく、「この狛犬は非常に古いもので、しかも物凄く珍しいものである。特に尾に注目してくれ」と言うことで、改めて後姿と、注目すべき「尾」の部分のアップ。平ったいカタツムリみたい(*^^*)

素晴らしい狛犬さん、実はまだまだおいでになりますが、この続きは「気比神宮~Ⅱ~」で。

参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日

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御神名一口メモ

『伊奢沙和気命(いざさわけのみこと)=気比大神』。海・風・食物の神。遣唐船の航海無事を祈願する為、しばしば朝廷により幣帛が奉じられた。


総社穴馬神社 in 福井県大野市和泉

2016年06月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市野尻、九頭竜川沿いに鎮座される「総社穴馬神社」。御祭神は『天照皇大神・伊弉册尊・天兒屋根命・譽田別尊』

御由緒に【氏神として相応の社がありその内八社即ち春日神社(鷲)・神明神社(長野)・立合神社(影路、野尻)・春日神社(大谷)・神明神社(米俵、久沢)・神明神社(伊勢)・白山神社(持穴、箱ヶ瀬、池ヶ島)・神明神社(下半原、上半原、東市布)の資産を以ってこの社殿を建立し、他の五社(久沢一社、荷暮二社、下半原一社、上半原一社)の祭神をも合祀しここに穴馬総社として崇敬し幾久しく郷土を偲び祖先の冥福を祈り併せて我等及びその子孫の安泰を希い願うものである】

九頭竜ダムの建設によって、九頭竜湖の水底に沈んだ和泉村の民家530戸余・・・それに至るまでの経緯は、部外者である私たちには到底知る由も有りません。

古の頃より村内の産土神として崇敬された氏神様たち。今は湖を見下ろす高台に設けられた白いコンクリート製の社殿に鎮座され、過ぎ行く時を見守っておられるようです。

拝殿横の境内周辺には、合祀された神社の社号標がいくつか残されています。木々の緑も、生い茂る草の色も違っているとしても、吹き抜ける風はきっと同じに違いない・・・・そんな事を思いながら、それぞれに手を合わせる🙏🙏🙏

本来であれば厳つい顔に刻まれる狛犬さん。こうして見ているととても優しげで、そしてとても寂しげに見えるのです。由緒から想像される当時の氏子さんたちの捨てがたい故郷への想いが、そんな風に見せているのかもしれません。

参拝日:2012年6月13日


篠座(しのくら)神社 in 福井県大野市

2016年06月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市篠座に鎮座される「篠座(しのくら)神社」

延喜式神名帳に掲載される古社。元亀年間、朝倉氏の兵火により滅亡しましたが、大野城主『金森長近』により再興され、以降、歴代藩主より厚い保護を受けてきました。

御祭神は『大己貴大神(おおなむちのおおかみ)』、相殿に『少彦名命・市杵嶋姫命・豊受姫命・譽田別尊・木花咲耶姫命』を祀ります。

【養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(篠座)に十日ばかり過ごされた。白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた。】神社HPより

拝殿左手に鎮座される「秋生神社」。昭和30年の「笹生(さそう)川ダム」建設に伴い、笹生川沿いにある上秋生(かみあきゅう)の「白山神社」、下秋生の「八幡神社」を合祀し、「篠座神社」境内に創設されました。

境内の右手奥には、「篠座目薬」として古くから眼病平癒にご利益があると伝えられる「御霊水」と天女ヶ池があり、池の中島には「境内社:磐座神社」が祀られています。

天女ヶ池の先に祀られる社は「篠座弁財天」。御祭神は『市杵島姫命』

拝殿内には木彫りと思われる異国風味の狛犬さんが、何ともいえぬ表情で出迎えてくれました。

こちらの「神馬舎」は絵馬殿も兼ねているのでしょうか?御神馬を取り囲むように四方の壁にずらっと並んだ奉納絵馬は、まさに「絵馬」の名の通り、殆どが馬の絵。

その御神馬をお守りされているのは、小さいながらも思わず「オッ!」と思わせる狛犬さん一対。形としては神殿狛犬にも似ていますが、それにしても良い出来です。

参拝を終え車中から見上げた先、ちょうど神社の後方に美しい姿の「飯降(いふり)山」が見えました。春分・秋分の日には、鳥居・社殿の延長線上である山頂に日が沈むと言い、その神秘な姿を「御岳(おたけ)さん」と呼び、神の山と伝えられています。

参拝日:2017年9月30日


越前大野城(えちぜんおおのじょう) in 福井県大野市

2016年06月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきた大野。天正3年、『織田信長』より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡内の三万石を与えられた『金森長近』は、最初の居城であった戌山城の近く亀山に、四年の歳月をかけて越前大野城を築きました。

また、築城と共に城下の整備にも着手し、京都に似た碁盤目状の城下町を形成。今もその面影を残す大野の町並は「北陸の小京都」とも呼ばれ、400年以上の歴史を持つ「七間朝市」と共に、多くの人たちが訪れる観光名所として知られています。

大野城への登城には「西登り口、南登り口、北登り口」の3ヶ所があります。観光案内所で頂いた説明では、「南登り口は景観も良く登りやすい、大野城まで徒歩約20分」とあったので、ここからお城を目指すことにしました。観光用に建てられた「城門」をくぐり、長い坂道を歩くのですが、生憎の小雨に祟られ、歩き難い事、この上ない(^^;)

登山道の途中に、安政年間に大野藩が建造した洋式帆船大野丸の碑。蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した「大野丸」でしたが、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁、沈没したとあります。

息を切らしつつ辿り着いた休憩所、出迎えてくれたのは、大野藩七代藩主『土井利忠(どい としただ)公』像。彼の業績はネットでググっていただければ詳細がありますが、困窮した藩の財政を官民一体となって成し遂げ、後の世までも「名君」と呼ばれた人物です。

やっと城門に到着!ですが、実はこれも模擬城門(^^;) まぁそれでも雰囲気だけはお城の入り口まで来た!と思えるのですから、やはり「形」を整えると言うのは凄い事なのです(笑)

更に長い坂道を上った先がちょっとした広場になっており、目指す天守も目の前です。天守台の右手に見える石段は、駕籠に乗ったまま登城できることから、「駕籠道」と呼ばれています。

現在山頂に建つ天守は、昭和43年に往時の絵図や、創建当時の同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものだそうです。もとは望楼付きの大天守に小天守、天狗櫓が付属された、複合連結式の天守だったそうで、現天守は、史実に基づいた復元再建ではないとのこと。とこれは説明版の受け売りで、実は何がどう違うのかよくわかっていません(^^;)

これが小天守と呼ばれる「天狗櫓」、こうして外から見る分には、お城はやっぱりそれなりに魅力があり、ここまで来た苦労が報われると言うもの(笑)、でも内部は当然、近代的建築の博物館。正直その手の内容にはあまり興味が無いので入城はせず、周囲の散策だけに時間を費やしました。

当時の姿を今に留めるものは山頂の石垣と堀などごく僅か。その石垣に設けられた急な石段は「武者登り」。階段を上った先が枡形になっており、容易に敵の侵入を許さない構造になっています。

眼下に見える大野の町並み、小雨の中にけぶる山並みは幻想的で美しく。言葉もなくその景色に見とれていると、目白押しのスケジュールの存在を忘れてしまいそうになります。

天守の直ぐ近くに、山の緑を映しこんだ「お福池」。名前の由縁は『金森長近』の正室・『お福』からだそうですが、こんな山の上なのに枯れない池があるというのは驚きです。

大野市は四方を山々に囲まれた盆地に位置します。幾つかの気象条件がそろった時に見ることができると言う「天空の城」。ちなみに時期は11月頃 時間は夜明け~午前9時頃、前日の湿度が高く、前日の日中と翌日朝方の気温差が大きいこと 風が弱いこと等々・・この条件が揃ったとき雲海が現れ、まるで城が浮かんでいるように見えるんだそうです。そんな条件をクリアするのは絶対に無理なので、観光案内所で頂いたポスターで我慢(笑)

  

大野城はその後、土井氏が定着するまで何度も城主が入れ替わり、安永4年(1775)には城を焼失しています。その後の寛政7年(1795)に天守を除いて再建が成され、明治までは大野藩の藩庁が置かれていました。やがて迎えた明治維新後、城の部材は入札により商人などに払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされました。

「勝山頂上 海抜249m 1983年10月23日」 「越前大野城(おおのじょう)」は2017年、「続日本100名城」(138番)に選定されました。

訪問日:2012年6月13日


柳廼社(やなぎのやしろ) in 福井県大野市

2016年06月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市亀山、亀山の登り口に鎮座される「柳廼社(やなぎのやしろ)」。御祭神は名君と謳われた幕末の藩主『土井利忠公』。社名は利忠公の雅号である「柳涯(りゅうがい)」に由来します。

参道鳥居の左手に、明治22年(1889)建築の裁判所を移築した「大野市民俗資料館」。明治から昭和にかけての生活用品が展示されていますが、とりあえず周辺だけを見て満足(笑)

「柳廼社」の創建は明治15年、元は柳町通りに鎮座されていましたが、のちに現在地に移されました。

拝殿の明るさに比較して薄暗く見える本殿ですが、これは一重に参拝した年の違いと、その日のお天気のせい。でもこんなに違って見えるんですね・・(^^;)

拝殿前より神域を守護されるのは、低く構えの姿勢で参拝者を見る狛犬さん一対。お顔も全体の形も角ばっていて、ちょっと異質な感じ。それがまたご亭主殿には魅力的だったようで、嬉しそうにお顔を撫でています。

顎のあたりを撫でられてこんな姿勢を取る仔・・・うちにも居るね~と笑いあった事が悲しく懐かしい。

境内には、『土井利忠公』を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されています。『内山良休翁』は地場産業奨励に尽力し、「藩店:大野屋」を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図りました。『中村矩倫翁』は、藩政改革の際に政務の一切を委任され、士風刷新に尽力。『寛斎先生(内山隆佐)』は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力したとあります。

拝殿の左に鎮座されるのは創建当初の「柳廼社」の古い拝殿。隣には朱の鳥居の稲荷社も鎮座されます。

この奥に見える道は大野城址への上り口へと続いています。当初「大野城址」は予定していなかったのですが、ここまで来て登り口を見てしまったら、もう行くしかないでしょう😁。

参拝日:2012年6月13日


大野城下:御清水巡りの町歩き~其の三 in 福井県大野市

2016年06月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

楽しい買い物タイムも終わり、そろそろもと来た方向に向かう事にしましょうか。城下町ならではの旧跡は「武家屋敷旧内山家」。幕末期、大野藩の財政再建に大きな功績を残した家老『内山良休・隆佐』兄弟を輩出した屋敷です。

明治34年(1901)4月、この場所に福井県立福井中学校大野分校が開校。明治38年に「福井県立大野中学校」となり、昭和23年の学制改革により高等学校として発足。1993年の学舎移転に伴い、92年間の歴史を記念した「大野中学校・大野高等学校跡の碑」が建立されました。

さぁ、いよいよ最後の御清水です。水の町として知られた大野には、湧水地が街のいたるところにあります。なかでも泉町の御清水は環境庁名水百選にも選ばれた味わい豊かな水で、古くはお殿様のご用水として使われていたことから「殿様清水」とも呼ばれています。

2012年と2018年の訪問では、こちらで美味しいお水をたっぷりと頂いて帰りました。おかげで帰宅してからの珈琲タイムが待ち遠しいほど・・・本当に感謝です。

「殿様清水」の直ぐ近くに、「羽二重伝習所跡」の小さな碑があります。【明治時代、福井を中心に輸出用羽二重織物の 生産が盛んになり本町においても生産が開始されました。 大野の機業場の一つである斎藤機業場は 明治25年に創業。 創業者の『斎藤顕氏』は明治27年に機業敷地内に 羽二重伝習所を設け、京都などの先進地から 新しい織機を導入し技術者を招いて 織物技術の普及、向上に努めました。 この伝習所が大野で輸出用羽二重の生産が 盛んになるきっかけとなったと言われています。】説明版より

また敷地内には「芹川用水」と刻まれた碑も建立。南部の湧き水を集めて流れる水路は、義景清水付近で2手に分かれ、一方は新堀から赤根川に、もう一方は本町と柳町の間を通って水落町に至ります。

武家屋敷地の東を流れる芹川用水、その排水路はいまも江戸時代のものが使われているそうです。

マンホールカードを頂く為に立ち寄った「本願清水イトヨの里」、観光目的ではないので「イトヨ」が生息している場所も未確認のままです(^^;) もう少し真面目に周囲の散策をするんだったと、後になって後悔。まぁ・・いつもの事です。

訪問日:2012年6月13日&2018年10月15日

 


大野城下:御清水巡りの町歩き~其の二 in 福井県大野市

2016年06月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野の名物?と言えば、なんと言っても七間通りで開催される「七間朝市」

毎年春分の日~大晦日までの朝7時~11時頃、農家のおばちゃん達が丹精込めて育てた農産物や、お手製のスイーツ、手仕事の工芸品などが並べられ、賑やかなやり取りがそこかしこで聞かれます。

大野市の観光キャラクター『うぐピー・うめピー』も顔出しになって朝市の賑わいに花を添えています。

とあるお宅の中二階の壁に、ご亭主どの大好物の「鍾馗さん」を見つけて、思わず興奮(笑) 北陸地方の旅で「鍾馗さん」に出合ったのはもしかして今回が初めてかもしれません。

ちなみに「鍾馗さん」が睨みを利かせる屋敷の前には、「越前之国 大野藩札両替所跡(明治五年十一月)」「越前之国 郵便発祥之地(明治四年四月二十日)」の碑が建てられています。

独特の香ばしい香りに誘われてふらっと立ち寄った先は「山元醤油味噌」。90年間、昔ながらの木桶で熟成させて作る醤油は、かすかな甘みさえ感じられ、手作り醤油ならではの深い旨味が脳内を刺激します(笑)

つい今しがたまで、J🐣さんとお醤油を吟味していたと思ってたのに、不意に姿を消したご亭主殿。きょろきょろと辺りを見回し、探していたら、とあるお店の中に。明治時代後期より、清酒「花垣」醸造元として100年をこえる歴史を歩んできた「南部酒造」さん、さすがと思わせる佇まいに、ご亭主殿、思わず足が吸い寄せられたようです。

その「南部酒造さん」の角に、醸造用にくみ上げている地下水を手軽に飲めるように開放した「七間清水」があります。とりあえずこちらでも一口、柔らかい味わいは、少し歩きつかれて渇いたのどを優しく潤してくれました。

あっちにふらり、こっちにふらり、なるべく荷物にならないように買い物は控えようねといっていたのに、いつの間にか両手一杯の荷物(^^;)

それでも旅の楽しさは、ご当地の美味しいものに出会うこと、待つ人へのお土産選び、何だかんだと賑やかに笑いながら歩いていた私達の足を止めたのは・・・・ヽ(゚ロ゚;) 

・・・・なんだか、見てはいけないものを見てしまった・・そんな感じです。

「御清水巡りの町歩き」~其の三に続きます

訪問日:2012年6月13日&2017年9月30日