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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 徳島県板野町

2020年10月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

板野郡板野町(いたのちょう)は徳島県の北東部、阿讃山脈の麓に位置する町です。鳴門市、板野郡上板町・藍住町に、さらに県を跨いで香川県東かがわ市に隣接。阿波五街道の一つである讃岐街道の道中にあたり、かつては阿波国と讃岐国を結ぶ政治街道として栄えてきました。また町内には四国八十八箇所のうち、第3番札所~第5番札所の三ヶ寺があり、三番札所:金泉寺には「弁慶の力石」なるものも残されています。町域の北は阿讃山脈、南の平野部は吉野川の下流域にあたる肥沃な土壌で、人参や阿波藍などの多様な作物が収穫され、特に春にんじんは、全国一のシェアを誇っています。「町の木:アセビ」「町の花:桜」を制定。

キャッチフレーズは「にぎわいと文化が行き交うさわやかな郷づくり」

明治22年(1889)、町村制の施行により、板野郡板西村、松坂村、栄村が発足。

1908年、板西村が町制を施行、板野郡板西町が発足。

1955年、板野郡板西町、松坂村、栄村が合併し、板野郡板野町が発足しました。

マンホールには町章を中心に、「町の花:あせび」と「町の木:桜」がデザインされています。

昭和43年10月3日制定の町章は「板野の「野」をひらがなの「の」で形どり、本町産業と文化の飛躍的発展を、さらに、太陽のごとく明るい板野町政と、町民の円満、平和を象徴しています。」HPより

撮影日:2014年3月24日


ご当地マンホール in 徳島県勝浦町

2020年10月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

勝浦郡勝浦町(かつうらちょう)は徳島県の南東部に位置する町です。徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、名東郡佐那河内村に隣接。町のほとんどが、中央部を西から北へ流れる勝浦川の流域にあり、北には徳島市との境界に中津峰山があるなど、周りを山に囲まれている事から勝浦盆地と呼ばれています。最高標高は轆轤(ろくろう)山の972.1mで、最低標高は20m。県内有数のミカンの産地として知られ、また、毎年2月から3月に開催される「ビッグひな祭り」は、町の一大観光イベントとしても広く知られています。「町の木:ミカン」「町の花:コスモス」を制定。

キャッチフレーズは「みかんが香り 笑顔あふれる 元気なまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、勝浦郡棚野村・生比奈村が発足。

1926年、棚野村が町制を施行・改称して勝浦郡横瀬町となる。

1955年、勝浦郡横瀬町、生比奈村が合併、勝浦郡勝浦町が発足しました。

マンホールには「町の木:みかん」と、周囲に「町の花:コスモス」がデザインされています。

勝浦川に架かる「横瀬橋」には、特産のミカンと「町の花:コスモス」のレリーフ。

昭和40年10月制定の町章は「勝浦町特産のみかんと、町の中央を貫流する勝浦川を図案化したもので、横の三本線は勝浦川を表し、真中はみかんの若芽、円形全体がみかんを表しています。」公式HPより

1994年、勝浦町の化石含有層(ボーンベッド)で、初めて「恐竜の化石(イグアノドンの歯)」が発見されたことにちなんで、横瀬橋の親柱は「恐竜」と「町の花:コスモス」。

勝浦町の貯蔵みかんのPRキャラクターとして頑張る13歳の女の子『ちょぞっ娘』。大きな瞳とオレンジ色のボブヘアがチャームポイントで、特技は「阿波踊り」だそうです。

江戸末期から1929年に姿を消すまで、横瀬と徳島市とを結ぶ交通手段として活躍し、林業やミカンの輸送を担い、町の発展に寄与した高瀬舟。坂本川の橋詰には「高瀬舟発着場跡」の記念碑が建立されています。 

撮影日:2014年3月23日


ご当地マンホールin旧宍喰町(海陽町)

2020年10月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧海部郡宍喰町(ししくいちょう)は徳島県の最南端に位置した町です。海部郡海部町・海南町に、また県を跨いで高知県安芸郡東洋町・北川村・馬路村に隣接。町域は太平洋に面しており、面積の90%以上が森林で占められています。町名の宍喰は脚咋(あしくい)の転訛とされ、「葦(あし)をつくって主食とした住民」の意味を持ちます。五世紀頃、大和朝廷から鷲住王がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになりました。「町の木:ウバメガシ」「町の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡宍喰村が発足。

1924年、宍喰村が町制を施行、海部郡宍喰町が発足。

2006年、海部郡海部町、海南町と合併し、海部郡海陽町となりました。

マンホールには0号真空弁の文字と、宍喰浦竹ヶ島にある「竹ヶ島神社:夏の祭礼」の、海中に入る暴れ神輿がデザインされています。

同じデザインで「点検口」の文字がある、中型・小型のマンホール。

同じデザインで「区間弁」の文字がある、中型・小型のマンホール。

昭和51年(1971)11月1日制定の町章は「宍喰町の「宍」を図案化し、鈴ヶ峯の「鈴」を表しています。」合併協議会資料より

マンホールのデザインに使われた神輿は、山上の本殿よりご神体が移されたのち、「チョウサジャ、チョウサジャ」の掛け声とともに、この石段を一気に駆け下りるのだそうです。

この石段を一気で・・・・😱

撮影日:2018年6月18日

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マンホール撮影の途次に立ち寄った「道の駅・宍喰温泉」。記念スタンプは温泉を楽しむ女性ですが、宍喰温泉はボイラーの故障で2008年に閉鎖されたそうです。

建物の入口には、宍喰町出身のプロゴルファー・尾崎将司の100勝達成を記念した石碑があり、「すこやかに さわやかに おおらかに」と刻まれています。

宍喰から室戸方面に向かって車を走らせているとき、何組かのお遍路さんとすれ違いました。 この日は朝から冷たい雨が降り続き、ヒーター嫌いの私が我慢できなかったほどの気温・・・うつむき加減に黙々と歩く姿に、頭を下げずにはいられませんでした。


ご当地マンホール in 徳島県旧海部町(海陽町)

2020年10月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧海部郡海部町(かいふちょう)は徳島県の南東、太平洋沿いに位置した町です。海部郡海南町・宍喰町に隣接。町域には古来より人が居住、他地域とも交流していたとみられており、奥浦字新町の「芝遺跡」から出土した3世紀の県外他地域産土器の数は県内最多と言われています。調査面積も少なく推測の域は出ませんが、この3世紀の時期に徳島・高知ルートとして海上ルートが開発されたと考えられます。町域を流れる「海部川」は、全国で最も水がきれいな川36本の1つとして認定。また海部川右岸に合流する「母川(ははがわ)」は、四国のみずべ八十八カ所に選定されています。「町の木:シイ」「町の花:サザンカ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡鞆奥村・川西村が発足。

1923年、鞆奥村が町制を施行、海部郡鞆奥町が発足。

1955年、鞆奥町、川西村が合併、海部郡海部町が発足。

2006年、海南町、宍喰町と合併、海部郡海陽町となりました。

マンホールには町章を中心に、「海部川の蛍」「太平洋とカツオ」「県指定天然記念物:妙見山のヤッコソウ」がデザインされています。

仕切弁には、オオウナギ生息地として天然記念物になった「母川オオウナギ」がデザインされています。

昭和50年(1975)12月制定の町章は「カイフの文字を用いて円形にひとつ家族の町を、また、中央の直線で永遠の発展を、斜線で海部川の清流が大海に注ぐイメージを表したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2013年3月18日&2018年6月18日


ご当地マンホール in 徳島県旧海南町(海陽町)

2020年10月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧海部郡海南町(かいなんちょう)は徳島県南部に位置した町です。海部郡牟岐町・日和佐町・宍喰町・海部町、那賀郡那賀町に。さらに県を跨いで高知県安芸郡馬路村に隣接。海部山地の険しい山々に降り注いだ多量の雨水により海部川が形成。海部流域は同町の広い範囲を占めており、太平洋へと開ける河口に市街地が位置しています。平井字王余魚谷(かれいだに)地区にある「轟九十九滝」は、落差58メートルと徳島県一を誇る本滝をはじめ、数多くの滝があり、日本の滝百選、四国のみずべ八十八カ所に選定されています。また『弘法大師』を本尊とする「八坂山:正覚院」は、四国八十八箇所霊場番外札所、四国別格二十霊場四番札所、阿波七福神霊場・布袋尊札所で、通称・鯖大師本坊、または鯖大師と呼ばれています。「町の木:松」「町の花:サツキ」を制定。

旧キャッチフレーズは「たくましく 和の輪で育つ海南町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡浅川村・川東村・川上村が発足。

1955年、浅川村、川東村、川上村が合併して海部郡海南町が発足。

2006年、海部町・宍喰町と合併して海陽町となりました。

マンホールには「王餘魚谷の轟本滝」と「町の木:松」、周囲に「町の花:サツキ」と町章がデザインされています。

昭和53年(1978)7月15日制定の町章は「「カイ」を図案化し、無限に伸発展する町勢を簡明に表現しています。」合併協議会資料より

海南町浅川の伊勢田地区にある伊勢田橋には、色鮮やかな「太平洋の荒波とカツオ」のモチーフ。

撮影日:2013年3月18日&2018年6月18日


ご当地マンホール in 徳島県海陽町

2020年10月01日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

海部郡海陽町(かいようちょう)は徳島県の最南端に位置する町です。2006年3月31日に、海部郡海南町、海部町、宍喰町が合併して発足しました。南東の海岸線は太平洋を臨み、北は那賀郡牟岐町・美波町・那賀町に、東は海部郡牟岐町に、西は高知県安芸郡東洋町・北川村・馬路村に隣接。北部・西部にあたる山地は1,000メートルにおよぶ緑豊かな山々がそびえています。これらの山々を水源として、地域の中央には北から南に海部川が、南部では西から東に宍喰川が太平洋に流れ込んでいます。海部川下流の左岸流域沿いに細長く開けた平野部は、海部川の沖積作用によって形成され、その広さは郡内一を誇っています。「町の木:松」「町の花:サツキ」「町の生物:ホタル」を制定。

キャッチフレーズは「つながろう! 広げよう! 元気になる「和」」

マンホールはノンスリップタイプで、上部に「ししくい」。中央に大きく海陽町章がデザインされています。

町章を中心に「カツオ」「ホタル」「妙見山のヤッコソウ」がデザインされたもので、旧海部町のデザインがそのまま転用されています。

2006年3月31日制定の町章は「海陽町の「豊かな自然・交流の郷・やすらぎとハーモニーの奏でる町」を連想させ、さらにこれからの町の発展と町民の躍動を感じさせるデザインをイメージしました。海陽町の「K」をベースにグリーン・ブルー・レッドを「自然・海・太陽」に見立てて作成しました。」公式HPより

撮影日:2013年3月18日&2018年6月18日


ご当地マンホール in 徳島県牟岐町

2020年09月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

海部郡牟岐町(むぎちょう)徳島県南東の海岸沿いに位置する町です。海部郡美波町・海陽町に隣接。町の中央には牟岐川が流れており、その流域沿いに街があります。太平洋に面した断崖絶壁沿いに位置しているため、かつては土佐街道の難所でしたが、現在は改善され、徳島県と高知県を結ぶ通過点となっています。沖合には徳島県内最大の無人島「大島」や人の住む「出羽島」などがあります。また大島付近には、高さ10mほどに成長した世界最大級のコブハマサンゴがあり、千年サンゴとして親しまれています。「町の木:ニッポンタチバナ」「町の花:ハマユウ」「町の鳥:メジロ」を制定。

キャッチフレーズは黒潮のまち 牟岐」

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡牟岐村が発足。

1915年、牟岐村が町制を施行、海部郡牟岐町となりました。

下水道関連の蓋は見つけられませんでしたが、仕切弁・消火栓には「町の花:はまゆう」がデザインされています。

昭和40年(1965)11月制定の町章は「頭文字の「牟」を円形に図案化したものです。」

漁業が盛んな町らしく、路上のタイル絵には特産物の「サザエ」や「アワビ」がデザインされています。

マンホールや上水道関連の蓋には採用されませんでしたが、「町の鳥 :メジロ」のレリーフ。

【阿波の牟岐町南に向いて 春を待たずに花が咲く ~ 沖の大島姫神様は 通う船路の守り神】
牟岐町中村の連絡船乗船場で見つけた、『野口雨情』作詞の「牟岐みなと節」歌碑。野口雨情のご当地ソングっ、驚くほどたくさん存在しているんですね😊

撮影日:2018年6月18日


ご当地マンホール in 徳島県旧日和佐町(美波町)

2020年09月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧海部郡日和佐町(ひわさちょう)は徳島県の南東部に位置した町です。海部郡由岐町・赤河内村(あかがわちそん)に隣接。町域の北から西は海部山脈を背にし、東から南は太平洋に面して大きく開けています。耕地は日和佐川・赤松川・北河内谷川・奥潟川などの流域に沿って帯状に点在し、日和佐川河口には臨海平地が開け、市街地を構成。地方港の指定を受けた「日和佐港」が町の中心部をなしています。海岸線は、風光明媚なリアス式海岸で千羽海崖やアカウミガメの産卵地:大浜海岸などを有し、室戸阿南海岸国定公園の中心に位置し、1967年に「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」として国の天然記念物に指定されました。「町の木:クスノキ」「町の花:桜」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡赤河内村 ・日和佐村が発足。

1907年、日和佐村が町制を施行、海部郡日和佐町(第1次)が発足。

1956年、赤河内村が日和佐町を編入・町制を施行し、海部郡赤河内町が発足。即日改称、海部郡日和佐町(第2次)が発足。

2006年、海部郡由岐町と合併、海部郡美波町となりました。

マンホールには、海に向かって泳ぎ出す「ウミガメ」と町章がデザインされています。(展示マンホールは美波町庁舎内。)

昭和10年7月23日制定の町章は「上半分は「日」・下半分は「三(佐)」を表し、薬王寺に因み、旭日昇天海辺の街の発展性を表したものです」合併協議会資料より

 

撮影日:2013年3月17日

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旧海部郡由岐町(ゆきちょう)は徳島県の南東部に位置した町です。阿南市、日和佐町に、また紀伊水道を隔てて和歌山と隣接。町域は海岸線に細長いリアス式海岸でその入り江に八集落が点在。平坦地は少なく、ほとんどが山地で、太平洋に面した漁業の盛んな町で、特産品としてアワビ、サザエ、イセエビなどの魚介類、その加工品であるかまぼこなどが知られています。明治期、アメリカ船が志和岐沖で座礁した時には、村民総出で救出。それを聞いたアメリカ大統領から、銀メダルや賞状、250ドルを送られたという逸話も残されています。「町の木:うばめがし」「町の花:ツバキ」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡三岐田村・阿部村が発足。

1922年、三岐田村が町制を施行、海部郡三岐田町が発足。

1955年、海部郡三岐田町、阿部村が合併、海部郡由岐町が発足。

2006年、海部郡日和佐町と合併、海部郡美波町となりました。

昭和40年5月28日制定の町章は「ひらがなの「ゆき」を図案化したもので、全体的には平 和の象徴「はと」と、本町の飛躍的発展を表現し、部分的には 「船」「いかり」「波」をかたどり、港内に浮かぶ泊船を表し、港町 を強調しています。」合併協議会資料より

(※)旧海部郡由岐町は未訪問のため、マンホール画像はありません。


ご当地マンホール in 徳島県美波町

2020年09月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

海部郡美波町(みなみちょう)は徳島県の南東、海岸沿いに位置する町です。2006年3月31日、海部郡日和佐町と由岐町が合併して発足しました。北は阿南市、那賀郡那賀町、西は海部郡海陽町・牟岐町に隣接。南東は太平洋に望み、海岸部は、海亀が産卵をする砂浜、陸けい島、離島、海食崖、海食窪、海食洞、多様な岩礁など、非常に変化に富んだ海岸線を形成し、「室戸阿南海岸国定公園」に指定されています。また2007年7月、徳島県内では初めて美波町内の商店からレジ袋の有料化を実施し、同年10月には海部郡3町が実施。同協議会は2007年11月、農林水産省による農林水産祭 むらづくり部門の最優秀賞の天皇杯を受賞しました。 「町の木:ウバメガシ」「町の花:桜」「町の鳥:イワツバメ」を制定。

キャッチフレーズは「“にぎやかそ” にぎやかな過疎の町 美波町」

雨水用のマンホールには、日和佐のロゴマークでもあった「ウミガメ」がデザインされています。

「うみがめのくる町 ひわさ」の文字とウミガメがデザインされたマンホール、自治体章が美波町に替わっています。

2006年3月31日制定の町章は「「ミ」を流線型にデザイン化し、3枚重ねることによってリズム感を生み出すととも に、奥行きや空間感を強め、造形性を感じる。 また太陽を表した右上の円との対比も効果的であり、豊かな自然と活力をシンボ ライズしている。」公式HPより

美波町の特産品伊勢エビをモチーフにしたキャラクター『えびー太くん』。バイオの力で巨大化した伊勢エビが西暦3732年5月5日(美波にGOGOの語呂合わせ)の美波町からタイムスリップしてきました。お友達の『カレッタくん』は海がめの産卵地美波町をPRする為、竜宮城からやってきた親善大使です。

顔出しは、美波町のウミガメ戦隊『カメレンジャー』😅ここまで来るとやり過ぎという気も・・・いや、いっそ突き抜けて清々しい。

市の広報用なのか、それとも業者さんの車なのか・・・・多分前者だろうと思うのですがこの遊び心たっぷりの徹底ぶり。はっきり言って、好きです!😍!

撮影日:2014年3月23日&2018年6月18日

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美波町奥河内寺前にある「道の駅・日和佐」では、2013年と、2014年はJ🐣さんも一緒で二度、車中泊をさせて頂きました。 近くには日帰りの薬王寺温泉も有り、適度に静かで適度に町中でとても良い所です。また敷地内には色んな工夫があって、目一杯楽しむことも出来ます。植木の亀で「植亀(ウエルカメ)」・・植木が成長しすぎて微妙😅

場所柄か、お遍路さんの野宿もあり、お仲間にいたっては驚くほど沢山。朝一に産直館で買った「ちらし寿司」はユズ酢が程よくきいて、とっても美味。直感で2パック購入したJ🐣さんに、勝ち組だと自慢された事など、懐かしく思い出されます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏🙏


ご当地マンホール in 徳島県旧羽ノ浦町(阿南市)

2020年09月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧那賀郡那羽ノ浦町(はのうらちょう)は徳島県の中央東部に位置した町です。北及び西は小松島市、南は阿南市、 東は那賀郡那賀川町に隣接。町域は那賀川下流北岸の平野地帯にあり、面積が県下で最も狭隘な町ですが、人口密度は県下4番目に高く、数少ない人口増加自治体です。町域には後醍醐天皇の時代に延喜式の神名帳に搭載された「式内社:和耶神社」や、「四国八十八箇所第十九番立江寺奥の院」等多くの旧跡を擁します。「町の木:泰山木」「町の花:コスモス」を制定。

阿波藩の命令によって天明八年に築かれた「万代堤」。古毛村の与頭庄屋『吉田宅兵衛充隆(3代目)』が私財を投じて工事に着手。以降5代目へと受け継がれ、明治5年(1872)まで十数回にわたって修築、改修され、那珂川の洪水から人々を守ってきました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡羽ノ浦村・大野村が発足。

1918年、羽ノ浦村が町制を施行、那賀郡羽ノ浦町が発足。

1954年、那賀郡大野村明見地区を編入。

2006年、阿南市に編入され、阿南市羽ノ浦町となりました。

マンホールには、町章を中心に「町の花:コスモス」と、周囲に「町の木:泰山木」がデザインされています。

昭和41年9月1日制定の町章は「羽ノ浦町の頭文字「は」を図案化し、住民の融和と団結を太い円形で表し、繁栄に向かって、はばたく姿を象徴している。」合併協議会資料より

那賀川橋北詰から堤防上を約3.5km上ると、那賀川北岸全体を潤す北岸用水の取水塔があります。この用水の取入口の道端に「国営北岸用水碑」。右手後方には祀られるのは「古毛の水神さん」と呼ばれるお社です。

撮影日:2018年6月19日