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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

杉山の農家蔵群 in 福島県喜多方市岩月町

2024年11月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市の郊外、岩月町入田付上中戸にある小集落「杉山集落」

かって、木炭と菅(スゲ=菅笠の原料)の産地であった集落には、「杉山の土蔵群」として知られる独自の風格を備えた農家蔵群が、今も往時のままに残されています。

三津谷が地元の登り窯で焼成した煉瓦蔵であるのに対し、こちらは白壁。
顔料を混ぜない白漆喰が美しい貯蔵蔵や、冠婚葬祭や賓客を迎える蔵座敷が建ち並び、ちょっとした別世界の雰囲気。

しかも蔵座敷の内部は漆で塗り飾られているとの事ですが、現在も人様が住んでおられる故に非公開になっています。

杉山の土蔵は土屋根の上に茅葺き屋根を乗せた「兜屋根」と呼ばれる「二重屋根」が多いのが特徴。大事な本体(土蔵)を守るように二重に作られた屋根に護られて、どのお蔵も剥がれの無い綺麗な壁面を見せています。

ご存知の方も多いと思いますが、漆喰には、防火(不燃性)というだけでなく、湿度を調節し、臭いを消し、微生物の繁殖を抑制するなどの効果があり、収穫した農作物を貯蔵する為には最適の素材。

明治時代、稲作から収入の高い菅(スゲ)に転作し、菅笠など菅製品の加工・販売によって財を成した杉山集落。人々は競うように蔵を建てたと言います。その昔、農家にとっても商家にとっても「蔵」とは裕福の証。立派な蔵を立てる事が甲斐性とされた時代ならではの集落土蔵群。

短い滞在時間でしたが、素晴らしい物を見せて頂きました。集落の入り口に立つお地蔵様に手を合わせ、一期一会の出会いに感謝。

訪問日:2015年6月20日




タイムアウトの蔵の里 in 福島県喜多方市 

2024年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市押切2丁目、蔵づくりの文化を後世に伝えることを目的に設置された「蔵の里」。閉館時間5時、最終入館は午後4時30分で・・只今4時30分😱

外観だけを駆け足でチラ見・・という、何ともお粗末な結果になってしまいました。仕方ありません、街歩きはついつい時間を忘れてしまうものなのです。

大正12年(1923)に建てられた「旧東海林家酒造蔵」。この蔵では、かつての銘酒「白山」が醸造されていましたが、昭和7年(1932)に「夢心酒造」が譲り受け、倉庫として使われてきました。

社会教育の形成・発展に尽くした功績を称えられ、昭和47年(1972)に喜多方市名誉市民第1号となった『蓮沼門三』氏 「愛汗の碑 愛なき人生は暗黒なり 汗なき社会は堕落なり

遠目からの外観だけですが、保存民家二軒も辛うじて垣間見る事が出来ました。江戸初期から明治初期まで、下三宮村の肝煎を務めた「肝煎屋敷 旧手代木家住宅(福島県指定重要文化財)」。異色ある間取りや鉤型に曲げられた造りなど、江戸後期の形態を良くとどめています。

現在地の南角に位置する座敷棟は幕末近くの増築ですが、移築に当たってはこれらも保存し、明治元年の農民一揆打ち壊しによると伝えられる多数の柱傷もそのまま残しているそうです。

「郷頭屋敷:旧外島家住宅(県指定重要文化財)」。木造・寄棟造り・茅葺き・平屋建て「まがり」付き。江戸初期から幕末まで郷頭を務めた外島家の住宅で、主棟および曲り棟の創建は明和8年(1771)の記録が残っています。

蔵の里の道路向かいにある「喜多方市美術館」

時間的にはセーフだったのですが、美術関連に疎い二人には猫に小判😓 煉瓦造りの門にほんの少し心を引かれつつも、日のあるうちに次の目的地に急ぎます。

訪問日:2015年6月20日


蔵の街・喜多方~其の二 in 福島県喜多方市

2024年11月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市一丁目にある、明治末期の蔵を改装して昭和54年に開店した「喫茶くら」。飯豊山の伏流水を使用した炭焼コーヒーの香りが、街歩きで疲れた足に心地よい・・って、変かな?😅

明治末期に建てられた煉瓦造りの店蔵「倉田洋品店」。店蔵としては最古のレンガ蔵で、喜多方産のレンガが使用されています。屋根の傾斜に沿って斜めに見えている白い部分、実はあれ、煉瓦壁に入れられた倉田洋品店の切り文字。最高にユニークな看板だと思いませんか。

明治時代に建てられた味噌蔵で熟成された、「会津マルコシ手作りみそ」が人気の「中の越後屋醤油店」。看板の「味噌・醤油」は分かるのですが「三五八」って・・・・何??で、調べたら三五八漬というお漬物の漬床の名前。塩、米麹、米をそれぞれ容量で3:5:8の割合で使うことに由来するそうです

会津伝統工芸のひとつ「会津型」。その染紙型の伝統と技術を守る活動をされているのが、ここ「染織工房れんが」

で、この日の夜、とある場所で思いがけなく会津型に遭遇。これで浴衣なんか作って粋に着こなせたら素敵でしょうね😊 ちなみに男湯は黒紺地で流水に鯉と桜花。あの柄を着こなせる人って・・いるのかしら?

流石は蔵の街・喜多方。予想を裏切らない観光地のノリの良さが好きです(笑)

株式会社「大喜」さん。蔵風なのか昔からの店蔵なのか不明ですが、目を惹きます。

そのお向かいに建っていた、煉瓦造りの素敵なお屋敷

西町の交差点を渡って真っ直ぐに、喜多方市字南町にある「井上合名金忠・座敷蔵」。江戸~明治期に建てられた店蔵で、向かって左角に「醸造研究所」の看板が掛けられています。

新金忠さんの隣「豆〇」さんで、「味噌ソフトクリーム」なるものを頂きました。甘さの奥の味噌のコク・・私にはちょっと微妙だったかな😅

創業享保2年(1717)の「小原酒造」さん。クラシック音楽を流し醪を発酵させて作るお酒、「蔵粋(くらしっく)」を醸造、販売しています。

とっときの笑顔の福助さんにお出迎えされました😍

蔵の様子も見学させて頂けます。・・おや?、ご亭主の姿が消えたと思ったらいつの間にか荷物を増やしてますよ😅。でも、箱入り娘ならぬ、蔵入り純米酒のお味は、家路につくまでのお預けです。

小原酒造さんに隣接する「旧大森(唐橋)家住宅」。建物は市開催の様々な催しやイベントなどに利用されているようです。

喜多方市梅竹に建つ「喜多方蔵品美術館」。煉瓦蔵をイメージしてつくられており、建物の一部には地元喜多方で焼いた煉瓦が使われており、豪商豪農が大切にしてきた約700点の美術品が展示されています。

喜多方市の紹介・・もう少し続きます

訪問日:2015年6月20日


若喜商店:レンガ蔵 in 福島県喜多方市

2024年11月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市字三丁目、四つ角の一角を占めるのは、江戸時代から続く醤油・味噌醸造元「若喜商店」。初代、若松屋喜祖衛門が宝暦五年(1755)から商売を始め、代々「喜一郎」を襲名して味噌醤油を製造しています。

昭和6年(1931)築、設計は地元出身の『本間嘉平』氏。木造2階建で、屋根はコンクリートスラブ陸屋根。外壁をタイル張りとしたモダニズムの意匠でまとめており、八角の小窓や張出し窓を設ける事で建物に変化を付けています。

店舗の背後に続き、脇道に面して建つ煉瓦造3階建の「道具蔵」は、明治37年(1904)築の煉瓦蔵。喜多方で操業した煉瓦工場で製造された煉瓦を用い、民間で初めて建設されたもので、当地に煉瓦建築を普及させた田中又一の施工と言われます。

煉瓦蔵の東に接続して建つ座敷蔵。木骨煉瓦造、2階建で、東面には2階をバルコニー風に造った玄関ポーチが付属されています。座敷蔵の一階は縞柿(しまがき)という大変珍しい材木で造られており、二階は欅を中心としたで造作。2001年10月12日、店舗、道具蔵と共に登録有形文化財に指定されています。

入口から垣間見せて頂ける座敷の様子

主屋南東に建つ南北棟の木造二階建、切妻造桟瓦葺の建物は「若喜商店醸造場」。東側に立つ煉瓦造煙突が特色ある景観を形成しています。

醸造場南に接する東西棟の土蔵造二階建、切妻造桟瓦葺の「作業蔵」。漆喰仕上鉢巻付で軒まで塗込み、腰を板張としています。醸造場と共に明治31年(1898)~明治45年(1912)の建築とされ、2021年10月14日に登録有形文化財に指定されています。

若喜商店に隣接した、和雑貨と駄菓子の「若喜・昭和館」。店内全部が過去にタイムスリップしたような、とにかく何もかもが懐かしい!!他に言葉を探せません😀

訪問日:2015年6月20日


蔵の街・喜多方~其の一 in 福島県喜多方市

2024年11月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

市内に4200棟以上の蔵がある喜多方市。早い話、どこを歩いても蔵造りの建物が目に入ってくる・・いわば町全体が蔵の博物館といっても過言ではない・・ああ、まさしく「喜多方は蔵の街」

喜多方市谷地田にある「田原屋菓子店」10円!まんじゅうが有名と言う事で立ち寄ってみました。昭和35年に建てられた店蔵は2003年に改修。こんなに素敵なお店で一個10円!でお饅頭が買えるなんて!!土産話としても最高じゃないですか。食べきれる量をと言う事で・・・大幅に妥協して20個😍

喜多方市字三丁目、通称レトロ通りにある「文具・書籍の松本屋」さん。昭和初期に建てられた店蔵は、特別に用事が無くても立ち寄りたくなる素敵な佇まい。

明治12年創業の「笹屋旅館」さん。古い歴史ある建物をこの地へ移築したと紹介されていましたが、それ以上の仔細は不明。

享保元年(1716)創業の薬種問屋「冠木(かぶき)薬店」。店舗の右手には明治初年築の店蔵等が並び、建築的にも歴史的にも相当の店構えを見せています。

店舗の前には、人々に医療と農耕の術を教えたという「神農氏」。いかにも由緒ある薬局に相応しい像ですが、実際に見たのはこちらのお店が初めて😲

薬局の店頭に行けば必ず出会えた「コロちゃん&ケロちゃん」。コーワ―の風邪薬と言えばこのカエルのキャラクターを思い出します😊

健康と長寿の願いを込めて誕生した像の「サトちゃん」。「佐藤製薬」のキャラクターで、これも薬局には必須。と・・いつの間にか蔵造りの建物から脱線してしまいました😅

喜多方市字二丁目にある「島慶園」。土蔵造2階建、切妻造桟瓦葺で、正面に下屋を付設。白漆喰仕上げで、2階窓まわりを黒漆喰で仕上げた昭和4年築の建物は、2010年9月10日に登録有形文化財に指定されています。

関柴町上高額北町にある、創業百年の「山中煎餅本舗」。一枚一枚手焼きする「たまり煎餅」が一押しと言う事で、店内では 七輪の炭火を使った手焼き体験もできます。

こんな風に瓶に入れて売られていると、ついつい、アレとかコレとか買ってみたくなる・・けど、自粛😓

喜多方市字一丁目にある「合資会社:吉の川酒造店」

その美しい佇まいに惹かれて、門の外からそっと覗き見させて頂きました🙏

まだまだ終わらない蔵の街歩き、明日に続きます。

訪問日:2015年6月20日


喜多方ラーメン in 福島県喜多方市

2024年11月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

「喜多方ラーメン」とは、福島県喜多方市発祥のご当地ラーメンの名称で・・等と大見得を切れるほど極めた訳では有りませんが😅 福島県の旅を決めた時、食べる事に興味を示さない私が、珍しく「ここでは絶対にあれ!を食べる」と決めていた「あれ!」が、ここ喜多方市のご当地グルメ:喜多方ラーメン。

「札幌ラーメン」「博多ラーメン」と並んで日本三大ラーメンの一つに数えられる「喜多方ラーメン」。ちなみに札幌も博多もノーサンキューな私。喜多方の何が嬉しいって、醤油味の透明なスープが基本で、あっさりした味わいであるという点。特に嬉しかったのは試食コーナーが用意されていた事。食べ物だけは実際に食べて見ないと、食べられるかどうか分かりません😓

まぁ・・・こんな偏食家の私が、「あれを食べたい」等とのたまう事自体が、実は非常にまれな事なのです😊。 試食に満足してお昼は「喜多方ラーメン」と決定。 さて、蔵のまち観光案内所のすぐ近くにある、喜多方ラーメンのミュージアム&コミュニティースペースへ。表の鳥居が目印と紹介されていますが・・本当に鳥居が💦。

「喜多方ラーメン神社」の鳥居額まで架けられて・・・鳥居の先には下げ緒が片側にだけ・・何と秀逸でウィットに富んだ鳥居。見れば見る程、痒い所に手が届くひねりが効いて、こういうセンスの良さは、無条件に観光客(私たち)を喜ばせてくれます😍

中に入ると朱塗りの鳥居、その奥にはきちんと整えられらた祠。

御神体は「どんぶり様」😅 紙垂と一緒に下げられているのはラーメンの麺。壁には「麺結びで 縁結び」の御朱印。

そうして・・・御神体のどんぶり様とは別にこんな素敵なコーナーも。「どんぶりに入って記念撮影」

どんぶり様にも入らせて頂いた事だし、そろそろご亭主殿のお腹の虫も騒ぎ始めたようです。しかも歩く道々にこういうものを見ると、尚更お腹の虫が騒ぐらしいです。

今回選んだお店は「たんぽぽ亭」。帝国ホテル伊勢長や銀座浜作といった日本料理の名店で料理人を務めてきた御主人が、和食の技を生かしたラーメンを作っていらっしゃるとの事。日本料理としてのラーメンを味合わせて頂けるとの評判で、こちらに決めさせて頂きました。

麺は「平打ち熟成多加水麺」と呼ばれ、幅は約4mmの太麺。独特の縮れがあり、食感は私好みで柔らかい。具はチャーシューを主として、ねぎ、メンマ、ナルト。ちなみに私が食べる具材はナルトだけ😅 チャーシュー、ねぎ、メンマ、ついでに添え物のキャベツの千切りも無論ご亭主殿行き。

しっかりと満足して、おつゆも残さず完食。私にしてはかなり珍しい事です😊  ところが「喜多方ラーメン食べ比べ」マップなんてものがあるくらい、お店によって味わいが違うので、基本的一杯のラーメンを分け合うのがコツだと聞かされたのは、その後の事

街歩きの途中で教えて頂いた事ですが・・食べ歩きしたいのなら、二人で一人前を注文して半分ずつ食べる。お店の人も心得ているから、お椀も用意してくれますよ。そうすれば最低でも二か所の味を楽しめるでしょう😊・・・って早く言ってよ・・!😭!・・・・・もう、麺の一本、スープの一滴も入りません😭😭。

訪問日:2015年6月20日


北塩原村あちこちウォッチ in 福島県北塩原村

2024年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村の紹介、スタートは「日本赤十字社 平時災害救護発祥の地」碑。日本赤十字社の前身である博愛社病院が設立されて1年半後の明治21年(1888)7月、磐梯山の噴火に際し、大正皇后陛下の思し召しを受け医師三名を猪苗代へ急派したのが始まりです。元々は、戦時救護を目的として設立されていましたが、磐梯山噴火災害の救護は、世界の赤十字で初めて「平時の災害に対する救護活動」を実践した先駆的事例として、国際的な注目を集めました。

変わったところで、毘沙門沼を回遊する鯉の中に一匹だけ、白い体の左脇腹に赤いハートマークのある鯉がいるとか。もちろん、そんなに都合よく見られるはずも無く、ゆえに「伝説」なのです。

この五色沼💗ハート鯉に巡り合うと幸せになれる!。そして若い二人は結ばれると言われています。

裏磐梯 ホテル五色荘敷地内に建立されていた「津金 松女」像 碑文「我が人生に 色濃きなり」

北塩原村桧原南黄連沢山にある「道の駅裏磐梯」

「裏磐梯ビューパーク」から見る「檜原湖と裏磐梯」。観光案内には画像と一緒にそんな記事があったけど、実際に自分の目で見ると、想像以上の感動を覚えます。

聳える木々の向こうに、荒々しい地肌を見せる裏磐梯・・この景色をしっかりと目に焼き付けておこう。

459号線の急カーブ下り坂のトンネル・・ハッキリ言って、カーブは苦手。急がついたらもっと苦手😱 なのに何故か写真が残っている?😓・・・おそるべし貧乏性の好奇心(だって次は無い)

北塩原村塩井に残る「史蹟 大塩の塩井」。右に史跡表示板。左には「大塩川火山砂防工事の移転物件に該当した為、村重要文化財の指定を解除、原形に配慮しながら史跡表示板と共に1995年8月現在地に移転」の案内板。

「人皇五二代嵯峨天皇弘仁三年 壬辰(西暦八一二年)僧空海老婆の家に止宿し塩の乏しきを憐れみ護摩を修する事十七日、忽然として岩中より塩湯湧出せると伝えられる。もと大澤と称せしも大塩の名是より起れりと、後世に至り西行法師行脚の折二種の歌を今に伝う。
海士(あま)もなく 浦ならずして陸奥の 山賊(かつ)のくむ大塩のさと  浦遠き この山里にいつよりか たえず今まで 塩やみちのく」

「若松領大塩村ノ図」によれば、現在の温泉神社の参道下付近に「潮井」があり、そこから大塩川沿いに木樋を通し、集落の広い範囲に塩泉を供給していた様子が描かれています。木樋には所々溜枡があり、塩泉を汲んで、木樋沿いの小屋で釜を焚き製塩していたと推定 。具体的な記録が残されるのは江戸時代からで、会津藩の主導で塩作りが行われ、小物成(こものなり)=(税)として納めていました。

国道459号の脇を流れる大塩川の対岸。緑に覆われた一画に見えた岩。地図には「神楽岩」とあります。

ズームにすると洞穴のように見える・・

後に調べた所、竣功年度は不明ですが、延長15.0mの「神楽岩隧道」と判明。国道459号が通る以前、この隧道がある細い道が当時の主要地方道だったそうで、現在は北塩原村の村道として管理されています。

北塩原村北山上ノ台 国道459号沿いにあるポケットパーク「会津一望の丘」。山の斜面途中にあり、喜多方市方面を一望できます。

まるでとって付けたような一本の木。カメラでの悪戯にはお誂え向きだと思いませんか😄

訪問日:2015年6月20日


五色沼湖沼群:毘沙門沼 in 福島県北塩原村檜原剣ヶ峯

2024年11月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村檜原剣ヶ峯、磐梯朝日国立公園に位置する「裏磐梯」にある「五色沼湖沼群」。明治21年(1888)、磐梯山頂北側、小磐梯を含む部分が水蒸気爆発によって山体崩壊を起こし、岩なだれが川をせき止め、このエリアに数百もの湖沼が形成されました。

一般的に「五色沼」と呼ばれていますが、正式には「五色沼湖沼群」。毘沙門沼・赤沼・みどろ沼・竜沼・弁天沼・るり沼・青沼・柳沼など、大小30ほどの様々な色合いを持つ湖沼の総称。それらの五色沼湖沼群を巡るハイキングコースは全長4kmと言う事ですが・・流石に身の程をわきまえて😅、私たちのいく先は五色沼でも最も有名な「毘沙門沼」。

背景に雄大な磐梯山が望める毘沙門沼。最大水深13メートル、面積10万平方メートルと、五色沼湖沼群の中では1番大きく、更に沼の底に沈殿している珪酸アルミニウムのため、晴天の時に見せるエメラルドグリーンは、形容する言葉が見つけられない程、ただひたすらに美しい。

見る角度、見る場所、見る時間、様々な要因によって、折々に、清らかに妖しく色を変える「毘沙門沼」

無理は厳禁だからねとお互いに約束していたのに、ついつい、ではこの次に見える「赤沼」は? その先の「みどろ沼」は?と、好奇心が先走り・・ 

ところが、毘沙門沼から先の探勝路はこんな感じで、これはほんの序の口。どうやら幸先はあまりよろしくない・・

それでも頑張ってみたものの、やっぱり、世の中そんなに甘くない😥 殊に足に障害を持つ身には、後々の事もちゃんと考えておかなきゃと言う事で

・・・回れ右。

踵を返した瞬間に見せてくれた、神々しいほどの翡翠の碧。それだけで充分すぎる程素敵な経験が出来たと納得できる・・それほどまでに神秘の色。

足元に咲く花に癒されて

見る場所によってこんなにも違ってみえる。それほどにこの「毘沙門沼」は大きいんだと、改めて目の前の風景に魅せられる。

ああ、裏磐梯があんなにハッキリ見える😊 あれほどの災害を引き起こしながら、これほどの美しい世界を作り上げる・・まさに人知を超えた、自然と言う神が創り上げた造形。

同じ場所に居合わせた素敵な恋人さんたちと、写しあいっこをした記念の一枚。

【 水漬きつゝ 新樹の楊 ましろなり 】水原秋桜子

訪問日:2015年6月20日


磐梯山と桧原湖(ひばらこ) in 福島県北塩原村

2024年11月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

北塩原村檜原剣ケ峯、磐梯山の山裾に広がる広大な「桧原湖(ひばらこ)」。小野川湖・秋元湖とともに裏磐梯三湖の一つとされ、磐梯朝日国立公園に属します。

明治21年(1888)7月15日、磐梯山の噴火とともに山体崩壊が発生。これによる岩屑なだれが谷を埋め、南北約18km、東西約1km、最大水深31m、湖岸周37㎞の堰止湖「桧原湖」が生まれました。山体崩壊により477人が犠牲になり、会津・米沢街道の桧原宿を含む桧原村は、水深約15メートルの湖底に沈みました。

磐梯山の火山活動の開始は、西に隣接する猫魔火山の終息後の約90万年前頃と推定されています。何度も噴火を繰り返すため、「病悩山(やもうさん)」などと呼ばれ恐れられていましたが、また一方では、磐梯とは「天にかかる磐(岩)の梯子」を意味し、信仰の山として畏敬されても来たのです。

磐梯山噴火記念館は、磐梯山周辺の自然をより多くの人々に知らせ、また地震火山に対する啓蒙、自然災害による人命の保護、並びに自然環境の保護に寄与することを目的とし、磐梯山噴火百年を記念して1998年4月15日に開館しました。

世界には、1500あまりの火山があり、その中の約7%にあたる110火山が、地球の陸地面積の0.25%しかない日本に存在します。更にこの中の47火山は、常時観測火山に指定。福島県内の「磐梯山・吾妻山・安達太良山」も含まれます。

磐梯山の火山活動をカメラで監視している、火山望遠観測装置用の発電機と、通信用衛星アンテナ。

「水車式発電機」、現地説明を残さなかった為、仔細不明。

被災者供養のために建立された地蔵堂。左に「宮森太左衛門翁紀功碑」。右に「磐梯噴火の湯供養碑」

深い青の桧原湖、白鳥型の足漕ぎボートが並び、桟橋には乗客を待つ遊覧船。その水底に沈んだ集落を知っている人はどれほどいるのだろう。深い青の水底深くに眠るかっての宿場の賑わいが、楽し気な観光客の声と重なって、ほんの少しセンチな気分になりました。

荒々しい地肌をむき出しにした裏磐梯を背景に「磐梯山3Dワールド」。こちらの施設では、1888年の磐梯山大噴火のすさまじい再現光景を立体映像で見る事が出来るそうです。

訪問日:2015年6月20日


野口英世記念館 in 福島県猪苗代町三ツ和前田

2024年11月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

磐梯山の麓、猪苗代湖畔の自然豊かな三ツ和村(現:猪苗代町)で生まれた『野口清作』・・・と言って馴染みのない人も、『野口英世』と言えば、ああ!と頷く筈。

JR東日本:磐越西線猪苗代駅の駅前に建立されている「野口英世三体像レリーフ」

「猪苗代町の生んだ偉人として 今も町民の尊敬を集める野口英世博士 (1876 1928) は 梅毒病原スピロヘータ純培養の成功 (1911) 黄熱病の研究などで世界的にその名が知られ 当時世界の医聖と謳われた方ですが 博士の生涯に深い影響を与えた母堂シカ、少年 野口の英才を見いだし学費を与え勉学の志を助けた小学校訓導小林栄先生、その他大勢の人々の真心を今に伝えるため 博士が好んで書かれた直筆の“忍耐”の文字を彫り込み、三体像のレリーフを結成25周年の記念として建立しました。 また出生地 翁島三城潟には生家が保存され、記念館があります。」現地案内より

猪苗代町三ツ和前田に建つ「野口英世記念館」「後世に科学者野口英世の業績と生涯を伝える」をコンセプトに、ロックフェラー医学研究所とメリー未亡人から寄贈された英世の遺品等を公開して昭和14年(1949)に開館。

その後2013年、新たに公益財団法人として開館。野口英世が16歳まですごしていた生家を、場所も大きさも当時のまま保存、公開しています。

『野口清作』、明治9年(1876)11月7日。『野口 佐代助・野口 シカ』の長男として誕生。

生家には、清作が1歳半の時に落ちてやけどを負った囲炉裏や、上京時に床柱に刻んだ決意文が当時のままに保存されています。

明治29 年(1896)、19歳の英世が医術開業試験受験のため上京する時、生家の床柱に刻んだ「志を得ざれば再び此地を踏まず」。翌年医学開業試験に合格し、医師の資格を得ます。

シカさんが洗い物をしていた小川。

明治33年(1900) 友人知人らに数々の金銭的不義理を重ね、単身渡米。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得、蛇毒の研究というテーマを与えられた英世。その論文は同大学の理事からも評価され、その後、幾つかの経緯を経て、明治37年(1904)ロックフェラー医学研究所に移籍。

明治44年(1911)、アメリカ人女性『メリー・ダージス』と結婚。横顔の女性像は、英世が描いたメリー夫人の肖像画。

「忍耐は苦し、されどその実は甘し」。英世が好んで使った「忍耐」の書

「孝養」、母を想ってだろうか・・だったら良いなと思ってしまう。

次々と目を引き心を奪われる沢山の展示品・・その中で一際心に深く突き刺さり、染み込んだのは朗読に併せて映し出された「かな文字」が並んだ二枚の手紙。母シカさんが英世に宛てた手紙がスクリーン一杯に写しされた時、思わず漏れた自身の嗚咽を抑えきれませんでした。

「はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ  いしよ(一生)のたのみてありまする」「にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてわおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。」「ついたちにわ しをたち(塩断)ちをしております   ゐ少(栄昌)さまについたちにわ おか(拝)んてもろておりまする なにおわすれても これわすれません 」「さしん(写真)おみるト  いただ(戴)いておりまする 」「はやくきてくたされ   いつくるトおせてくたされ   これのへんち(返事)ちまちてをりまする   ねてもねむられません」

明治45年(1912)、シカさんは幼い頃に覚えた字を思い出しながら、アメリカにいる英世に帰国を切望する手紙を出しました。母に思いを馳せるも、既に予定されていた講演や研究を取りやめる事は出来ず、やっと帰国が叶ったのはこの手紙を受け取ってから三年後の大正4年(1915)9月。実に十五年ぶりに故郷の地に降り立ち、母との再会を果たした英世。そうして、シカさんが願かけをしていた「中田観音」へも共に参拝する事も出来ました

約2か月間の滞在中、各地で講演会や歓迎会が催され大変忙しい日々を過ごした英世ですが、東京や関西の講演会の時には、母や恩師と一緒に旅行をしました。シカさんは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語ったそうです。

大正4年(1915)11月4日に英世は、横浜からニューヨークへ戻り、大正7年(1918)、黄熱病研究のためエクアドルに出張。その年の11月、シカさんは英世との楽しい日々を後生として永眠。感傷かもしれませんが最後の二か月で親として最高の幸せな時間を過ごせたシカさんの事を想うと、不思議なほど温かい涙が流れてきます。偉大な功績を残した野口英世。人の親である私から見れば、これ以上ないくらい薄情者で日本一の親不孝者。そして・・・世界一の孝行息子だったと、この写真を見返す度に心底から思うのです。

敷地内に今も残る「シカさんが植えた桑の木」

英世はその後も精力的に研究に没頭し・・昭和3年(1928)、西アフリカのアクラで黄熱病の研究中に罹患し殉職。51歳の若さでした。

昭和3年(1928)年「勲二等旭日重光章」受賞

野口英世が亡くなった翌年、生家の庭に二つの記念碑が建てられました。一つは大正4年(1915)に英世が帰国した時、母校翁島小学校に贈った文字「忍耐」と猪苗代町長に贈った英語およびフランス語の文字を彫った碑。もう一つは「野口英世誕生地碑」。碑の下には、アメリカのメリー夫人から送られてきた英世の遺髪が納められています🙏

訪問日:2015年6月27日