goo blog サービス終了のお知らせ 

車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

天鏡閣(てんきょうかく) in 福島県猪苗代町翁沢御殿山

2024年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町翁沢御殿山に建つ、国指定重要文化財「天鏡閣(てんきょうかく)」。明治40年(1907)、『有栖川宮威仁(ありすがわのみや たけひと)親王殿下』が東北を御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊した際に風光の美しさを賞し、当時の県知事:平岡定太郎の勧めもあり、猪苗代湖を望む高台に御別邸を建設することを決定。一つには、諸外国からの使臣や貴賓を招く為の目的もあったと言われ、翌:明治41年4月、雪解けとともに起工、同年8月「翁島御別邸」が竣工しました。

ルネッサンスを基調とした木造2階建ての明治洋風建築。建築面積492㎡、延面積927㎡、総高17.9m。外観は変化に富み、屋根は天然スレート葺で八角搭屋付、東翼部を腰屋根、他を寄棟とし、随所に円形または、半円形のドーマウィンドーが設けられています。

西側に玄関ポーチ、その上部にはバルコニー。南側は東西に非対称的な翼部と中央に八稜形状に突出した入口があり、二階部分にはベランダを設け、外壁は目透し横板張りペンキ塗り。窓は上げ下げ窓です。

明治41年(1908)9月、『皇太子:嘉仁(よしひと)親王殿下(大正天皇)』は翁島御別邸に行啓され、ここに5日間滞在されました。その際に別荘から見える猪苗代湖の湖面の美しさを称え、李白の句「明湖落天鏡」に由来して「天鏡閣」と命名。

玄関ホールから奥へまっすぐに通じている中央廊下を境に、南側には食堂・客間・球戯室の順で主要室が、北側には事務室・宿直室・仕人室・厨房などサービス関係の室が並んでいます。暖炉・鏡・帽子掛・シャンデリアは建築当初のものです。

威仁親王薨去後の大正11年(1922)、天鏡閣の近くに威仁親王妃慰子(やすこ)様の静養のため、和風別邸(現:福島県迎賓館)が『高松宮宣仁(のぶひと)親王』によって建てられましたが、慰子妃も翌年に薨去。建物は有栖川宮家の祭祀を継承した高松宮家の所有となり、後に『皇太子裕仁親王・同妃良子女王』両殿下が新婚旅行的な静養(御結婚は大正13年)としてご訪問されます。

第二次世界大戦後の昭和27年(1952)に、天鏡閣は高松宮家から福島県に払い下げられました。昭和36年(1961)初秋、『昭和天皇・香淳皇后』両殿下は、磐梯吾妻スカイライン・裏磐梯御視察に御来県。その際に天鏡閣にご宿泊され、【 なつかしき  猪苗代湖を眺めつつ  若き日を思ふ 秋のまひるに 】とお詠みになられました。

この地での滞在は思い出深かったのでしょうか、近隣で行われた昭和45年(1970)の全国植樹祭の折にも再訪され、当時乗った馬車が展示されていたのをご覧になり、同行された香淳皇后に「あの時の馬車だよ」と昔話をする御姿も記録に残されているそうです。

建物は県職員研修所などとして利用していましたが、建物の老朽化に伴い昭和46年(1971)春に使用を取りやめ。昭和54年(1979)2月、天鏡閣本館、別館、表門が国の重要文化財に指定されたことを機に、翌昭和55年から2年の歳月をかけ昭和57年9月に修復工事が完成。天鏡閣修復後の昭和59年(1984)には、大婚60年を記念して昭和天皇・香淳皇后両陛下の御再訪がありました。

同年7月には『有栖川宮威仁親王』の銅像が、東京築地の海軍軍医学校前から敷地内に移設、再建されました。

別荘から見える猪苗代湖の湖面を鏡に例えたことから命名されたと言われる「天鏡閣」。落成から100年を超え、まばらだった周囲の樹木は建物以上の高さまで成長し、今は館内から湖面を見ることはできません。

訪問日:2015年6月27日


小平潟(こびらがた)天満宮 in 福島県猪苗代町中小松西浜  

2024年11月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町中小松西浜、猪苗代湖の北岸、天神浜の松林の中に鎮座される「小平潟(こびらがた)天満宮」。御祭神は『菅原道真公』。太宰府天満宮、北野天満宮と並んで日本三大天神とする説があります。

伝承に「天歴2年(948)、近江国比良神社の神主・神良種が摂津国須磨で見つけた菅原道真公の神像を持って旅をし、猪苗代湖畔に辿り着いた。 良種はその地で休み、再び歩き出そうとして立ち上がった。しかし、道真の神像が急に重くなり動かなくなってしまった。よくみるとその地は須磨とよく似た景色であった。そのため良種はこの地を神像の鎮座の地とすることにし、摩耶郡大領上毛野陸奥臣に申し出て天満宮を勧請した。このとき、小出方村という地名だったこの地を摂津国平潟にちなんで小平潟に改めたという。」

社殿は天和2年(1682)に会津藩主『松平正容』によって天満宮がこの地に移された際に造営されたもので、猪苗代町指定重要文化財に指定されています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、福島狛犬さん一対。吽形さんは大輪の牡丹の花を、阿形さんは綺麗な飾手毬に手を置いています。久々に拝見できた福島狛犬さん、やっぱり良いですね。

「皇后陛下御参拝 大正九年八月十五日」

【さみだれに 松遠ざかる すさきかな】戦国時代の連歌師『猪苗代兼載(けんさい)』が小平潟天満宮で詠んだ発句。室町時代中期の天台宗の僧「心敬」に師事。宗祇とも交流し、ともに連歌の最盛期を作り出した人物です。碑は昭和34年(450回忌)に建立。

「秩父宮雍仁親王殿下野営の地 少年団日本聯盟 第一回野営大會の地」

「いなわしろ新八景 天神浜」の碑

参拝日:2015年6月27日


昭和の森~ in 福島県猪苗代町天鏡台

2024年11月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町天鏡台、猪苗代湖に裾野を長く引いた磐梯山の中腹に位置する「昭和の森」。標高720m~850mの緩やかな台地からは「猪苗代湖」が一望できる絶景ビュースポットがあり、春から秋まで楽しめる散策路で自然とふれあうことができます。

昭和45年(1970)5月に開催された第21回全国植樹祭にご臨席された天皇陛下は、この場所にお立ちになり、【 松苗を 天鏡台にうゑをえて  いなはしろ湖を なつかしみ見つ 】とお詠みになられました。

で・・・当然ですが開園時間なるものがあり、現在、7時30分。開園の8時30分までにはまだ1時間もあります😱。

この後の予定を考えると一時間の待ち時間は長すぎます。ふと前方に人影を発見、声をかけてみましたが聞こえなかったのか、そのまま見えなくなりました。再びゲートまで引き返す時に写した数枚の写真・・・

ここにあるのは、もしかしたら昭和45年植樹祭の折に植えられた「赤松」かもしれない・・そんな事をふと思いながら再びゲートに・・・。楽しみにしていた昭和の森はこれで終わり😭

トボトボと・・いや車なのでトボトボは正しくないのですが、帰路に見かけた「東北自然歩道」の標識近くで一時停止。猪苗代湖が見える!そんなささやかな発見でさえとても嬉しく思える程、気落ちしていたのです😔

眼下に望む「猪苗代湖」・・・この眺めに随分と慰められ、再び車にもどり・・

長田不動まで下った道路の角に見かけた「コンパス松」

「この地、磐梯山麓摺上原は、陸軍翁島演習場として多くの若者が軍事訓練励む、古くは蘆名義広・伊達政宗が戦った古戦場でもある。この演習場の原野の中に、枝ぶりをY字に広げる赤松の大木はかって旧二本松の街道沿の松だった。この松は陸軍演習の目標に使われ、また周辺の人々の農作業の休憩場として親しまれ「コンパス松(軍事用語)」または「Y字松」と愛称されていた。戦後、この地は入植者に開放され、今は当時の様相を見る事は出来ないが、この「コンパス松」だけは、幾多の風雪に耐え、この地で演習した多くの兵士達の思い出と共に今世紀迄残っていた」

訪問日:2015年月6日27日


旧翁島駅舎&沼尻軽便鉄道 in 福島県猪苗代町長田東中丸

2024年11月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

猪苗代町長田東中丸、町営:緑の村の一画に瀟洒な姿を見せる「旧:翁島駅(おきなしまえき)」。駅開設当時、所在地が翁島村(おきなじまむら)であったことが駅名の由来です。

明治32年(1899)7月15日、岩越鉄道により開業し、明治41年(1908)に翁島駅舎が建設。大正4年(1915)9月、アメリカより野口英世が一時帰郷した折には、翁島駅で地元住民の歓迎を受けています。現在の建物は、大正11年(1922)5月に3代目として建築。同13年に東宮殿下・妃殿下(昭和天皇・皇后)がご成婚後初めてのご旅行で御休息・御乗降される事を受けて改築され、駅舎内に貴賓室が設けられました。

昭和58年(1983)国鉄合理化による駅舎改築にともない、地元の保存会が駅舎を譲り受け、昭和62年(1987)に「町営:緑の村」に移築・復元。「駅舎亭」というそば店として利用されており、貴賓室も食事のスペースとして利用されているようですが・・・扉は固く閉ざされたまま・・いや、朝一の目的地にここを選んだ時点で、こんな事は想定内・・・・😭😭

駅舎の後方高台には、かつて沼尻鉱山の硫黄を運ぶことを目的に、大正2年から運行開始された「沼尻軽便鉄道」が静態保存されています。

鉱山の好景気とともに湯治客、スキー客や沿線の人々の足として沼尻駅と川桁駅の間16km、昭和44年(1969)までの57年間人々の足として、多くの人々に「マッチ箱」「豆汽車」との名称で、親しまれた「沼尻軽便鉄道」

♪汽車の窓からハンカチ降れば~の歌い出しで始まる『丘灯至夫(おか としお)』作詞の歌謡曲、「高原列車は行く」のモデルとなった鉄道として有名だったそうです。

池尻軽便鉄道から見る駅舎・・流石に午前7時過ぎと言う時間帯の所為か、私たち以外に人の気配もなく、いっそ清々しいくらい静かです。

訪問日:2015年月6日27日

 


河東地区の史跡巡り in 福島県会津若松市河東町

2024年11月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市河東町大字倉橋字藤倉に残る「国指定重要文化財:延命寺地蔵堂(藤倉二階堂)」

「大同2年(807)徳一大師の草創と伝えられ、延命地蔵が祀ってある。屋根が重層になっている為、俗に二階堂と呼ぶ。往古は慧日寺の本寺で、現建造物は室町初期より中期にかけての建立。棟梁は飛騨工水口八右エ門と言われている。別当延命地は寛文年中・及び慶応四年九月戊辰の乱の際、堂一宇の他は本堂・客殿・庫裏等消失し、旧記類は全て烏有に帰した。」現地案内より

三間四面に、裳こしは5間四方で吹き抜け。元は萱葺きの堂宇でしたが、磐越西線の開通により機関車の影響で火災の恐れがあることから、大正2年に瓦葺きに改装。
この堂の余材を、北を流れる大工川に流し、下流に位置する会津若松市高野町平塚の薬師堂が一夜にして建てられたという伝説があり、大工が木を流したことから、その川は大工川と呼ばれています。

句碑【明日知れぬ いのち野菊に しづ〇〇る】

水の張られた田んぼは遥か彼方まで続き、空との境にかすんで見える磐梯山・・ぽつんと白く見えるものは・・・あれは確か、会津村の会津慈母大観音像。

会津若松市河東町倉橋藤倉、おだやかな田園風景の中に建立された「市有形文化財:皆鶴姫の碑」。平家打倒を願う義経は、鬼一法眼の兵法書を学ぶために、法眼の義理の娘である皆鶴姫に近づいて恋仲となり、兵法書をひそかに写し取ることに成功します。しかし平清盛に気づかれ奥州へ。姫は義経の後を慕って藤倉まで来ますが追いつけないと知り、難波池に身を投げてしまいます。

義経は、磐梯町の大寺でこれを知り、姫を池のほとりに葬って墓を築いたとされます。皆鶴姫の碑は、寛政5年(1793)に会津藩によって建立されました。

同じく市指定文化財の「暦応(りゃくおう)の碑」。中央の石碑は、高さ、幅とも60cm、正面上部には観音菩薩を意味する梵字と、「暦応五年十二月敬白」の銘。右側の石碑は高さ140cm、幅40cm、正面上部には阿弥陀如来を意味する梵字。左側の石碑は、高さ70cm、幅69cm、正面には阿弥陀如来と勢至菩薩、観音菩薩を意味する3字の梵字が刻まれています。また、碑の左側には『源義経』が奥州平泉に下向する際、鏡山を通過する時に愛馬を繋いだと伝わる「駒繋石」が移転奉納されています。「暦応の碑」は、年号が明確で貴重な事から昭和45年(1970)に会津若松市指定有形文化財に指定されています。

会津若松市河東町広田中島戊にある「磐越西線:広田駅」。鉄骨平屋建ての駅舎は会津らしさを意識した和風の外観。何でもない景色ですが、思い出に残った一コマです。

訪問日:2015年6月27日


十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん) in 福島県会津若松市河東町

2024年11月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市河東町と猪苗代町翁沢船場にかけて、猪苗代湖から流れる阿賀野川水系一級河川・日橋(にっぱし)川の上流に建設された「十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん)」

明治12年(1879)、国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設。隧道・架樋等、延べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路「安積(あさか)疎水」の工事は、僅か3年で完成。灌漑区域面積は約 9,000haと広大で、不毛の当地を一大穀倉地帯に変えました。まさしく「水は黄金の種となる」べく、安積原野にいきわたったのです。

安積疏水の生みの親である、オランダ人長工師「コルネリス・ヨハンネス・ファン・ドールン像」

「ファン ドールン墓碑再建記念碑」内閣総理大臣:大平正芳

「渡邊信任翁頌徳碑  猪苗代湖利用聯盟を考案し、大正十年に安積疏水普通水利組合會議員に、昭和四年には同組合常設委員に選出。水位の調整權を確立し湖面低下を斷行して發電力の増強を實現し工業の振興に目覺しい貢献をなした。」

「皇太子殿下御親植松」と読めましたが確証は無し。

「日橋川中央 西〇〇 東〇〇・・・」こちらも読みとれず😔

「十六橋水門旧管理事務所」

「有栖川熾仁親王御手植松」碑と、左手に昔の「十六橋」の一部

弘法大師(空海)が各地を訪ね歩く途中にこの地を訪れ、16の塚を築いて橋を渡したという逸話が残る「十六橋」。天明6年(1786)、会津藩によって石橋が架けられ、明治12年(1879)、安積疎水事業により、道路兼16の石造りのアーチ式石橋形式を経て、現在の橋になりました。旧橋の遺構は、お手植え松の横に残る石柱のみが現存しています。

訪問日:2016年6月27日


會津藩校:日新館 in 福島県会津若松市河東町

2024年11月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市河東町南高野高塚山。享和3年(1803)に、人材の育成を目的に建設された会津藩の最高学府「會津藩校:日新館」

会津における教育のはじまりは寛文4年(1664)、日本で初めて民間により創設した庶民のための学問所といわれる「稽古堂(けいこどう)」とされています。時代は移り、五代藩主『松平容頌』の時、会津藩家老『田中玄宰』の進言によって新たな藩校の設立が進言され、会津藩御用商人『須田新九郎』の全額寄付と五ヶ年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校「日新館」が完成。

東西約120間、南北およそ60間の敷地に日本最古のプールといわれる水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校「日新館」。当時の会津藩の子弟は10歳になると日新館に入学し15歳までは素読所に属し、礼法、書学、武術などを学び、成績優秀者は講釈所への入学が認められ、更に優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されました。

乾門から見る「大成殿:孔子廟」

乾門大屋根の左右に乗せられているのは「鬼犾頭(きぎんとう」と呼ばれる魔除けの神獣。頭は龍、胴と尾は魚で外に向って建てられ、火災除けの呪いとしても用いられます。

同じく軒瓦の前にうずくまるのは獅子の躰に竜の爪を持つ「鬼龍子(きりゅうし)」。孔子廟に邪気が入り込むのを防ぐモノとされています。

では、藩校に通う前の子供たちはどうしていたか? 某テレビ局の大河ドラマの影響で一躍有名になった什(じゅう)の掟」・・ならぬことはならぬものです」

会津藩内の同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくって「」と呼び、そのうちの年長者が一人「什長」となります。毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
         ならぬことはならぬものです

慶応4年(1968)、戊辰戦争により校舎は灰燼に帰しましたが、藩校に関する図面などの資料が残っていた事から、総工費34億円を費やし、昭和62年(1987)3月、完全復元がなされ會津藩校日新館」としてて開館。館内の見学は無論、座禅や弓道、赤ベコや起き上がり小法師などの絵付け体験なども出来ます。

最後の画像は日新館散策の折に見かけた茅葺屋根の建物ですが、どこにも案内が出てきません。敷地の手前に「立入厳禁」の看板があり、仔細を確かめる事は出来ませんでした。

訪問日:2015年6月27日

 


諸陵山八葉寺(はちようじ) in 福島県会津若松市河東町

2024年11月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市河東町広野冬木沢に門を構える、真言宗豊山派寺院「諸陵山:八葉寺(はちようじ)」。会津総菩提所、会津高野山などの別名をもち、『阿弥陀如来』を本尊とします。

「空也上人が会津に来られる以前、会津では、誰かが無くなると、遺体を野辺に放置する風葬のような方法で弔っていたと伝えます。会津に来られた空也上人は、近在に打ち捨てられた遺骸を鄭重にとむらい、念仏をとなえ、会津盆地の野辺である冬木沢に埋葬されました。それは空也上人以後も続き、この地への丁寧な埋葬はすっかり定着しました。やがて、祖先は皆、あの世とこの世の境界であるこの冬木沢に鎮まっておられるとの信仰が自然に起こりました。会津総菩提所、祖霊集会の霊場と称される所以です。」公式HPより

康保元年(964)に空也上人によって建立されたと伝えられる「阿弥陀堂」。方三間、入母屋造の茅葺、唐様建築で、江戸時代の文禄年間に再建。昭和25年(1950)に国重要文化財に指定されています。

「此地ヲ俗ニ会津ノ高野ト唱へ、毎年七月朔日ヨリ十一日マテ遠近ノ男女相集リ、死者ノ為ニ遺歯ヲ堂中ニ納メ、奥院ニ香花・茶湯ヲ奠シ盂蘭盆会アリ、此時諸村ヨリ市子アツマリ、亡者ノ為ニ過去将来ノ事ヲ語ル、参詣多シ」。盆を迎え、ご先祖が各家庭にお戻りになる前、あらかじめ冬木沢に御魂をお迎えに行く「冬木沢詣り」が定着していったといわれます。毎年5日の午前10時からは、空也光陵会による「空也念仏踊り(県指定文化財)」が空也堂前において奉納されます。

「閼伽井屋」の周囲に建立された沢山の五輪塔。いずれもかなりの年月を経たものと思われますが、仔細は不明。

閼伽井屋の中に湧く「空也清水」

「阿弥陀堂と供養塔」

「八脚門」

参拝日:2015年6月27日


歴史的建築物を訪ねて~其の五 in 福島県会津若松市

2024年11月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市中央町にある、 「旧会津実業信用組合(市歴史的景観指定建造物)」。西洋石造り風の総2階の建物は昭和3年(1928)の建築。

デザイン化された外壁や柱型、2階正面の半円形の屋根、信用組合のマークなど、親しみやすい外観を呈しています。

明治、大正期の漆蔵などの数棟の土蔵、昭和5年(1930)建築のモダンな店舗からなる「鈴善漆器店(市歴史的景観指定建造物)」。木造2階建て、寄棟、桟瓦葺き、平入、縦長の窓や軒下の意匠など当時の様式を残しており、一部は「会津塗伝承蔵」として会津塗りの歴史、会津職人の技術と”こころ”を後世に伝える資料館になっています。

どれを見てもため息の出る美しさ。日本漆器のあの艶やかさは正に至宝と呼ぶにふさわしく、それだけに迂闊に手に出来ないためらいを感じさせます。

2021年7月16日、文化庁による文化審議会にて、鈴善の建物は「建物登録有形文化財(建造物)」に登録されました。

茶道具・絵画の「會佳堂」、まるでレゴで組み立てたお城のような佇まいに、思わず見入ってしまいました😲

会津若松市大町にある、重厚な土蔵商店建築「鈴木屋利兵衛(市歴史的景観指定建造物)」。珍しく江戸後期の建物なのは、戊辰の戦いにおいて薩長軍の屯所となったからでしょうか。なまこ漆喰と上部の黒漆喰の店構え、珍しいレンガ造りの卯建(防火壁)がより一層の歴史的な雰囲気を漂わせています。

会津若松市中央にある、天保12年(1842)築の 「竹藤(たけとう)(市歴史的景観指定建造物)」。戊辰の戦火を免れて残った貴重な木造商店建築で、店舗のはめ込み戸と2階の竹すだれから当時の商店建築の店構えをうかがう事が出来ます。

竹藤さんから徒歩二分、南蛮文化を取り入れた異色の創案菓子店「會津葵」。外見の素朴さに思わず立ち止まり、ああ、やっぱり会津の町並みって良いねと頷き合う二人。そして出て来た時には大きな袋・・・私はここで何を買ったんだろう? 珍しく買った品物の画像が無くて思い出せません😩。

会津若松市相生町・・「会州一蔵」まで帰ってきました。一時間半前にお友達と「さようなら」をした「カフェ&雑貨 瑞祥館」がある建物です。何度も本気で泣き、本気でこぶしを握った会津若松市の旧跡巡り。歴史的建築物の数々・・いつの日かもう一度・・・いつの日か必ず・・と願った事が昨日のように思い出されます。

訪問日:2015年6月30日

 


歴史的建築物を訪ねて~其の四 in 福島県会津若松市

2024年10月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市相生町にある「カフェ雑貨:瑞祥館」。ご当地マンホールを通じて知り合った会津若松市にお住いの大切なお友達と、今日ここで今から会うのです。

HPとメールのやり取りでしか知らなかった方、今日初めて生の声を聞いた女性が、今現実に私の前に座り、まるで旧知の間柄のようにおしゃべりを楽しんでいる。そして「いつか・・また是非会いましょう」という言葉が現実的でない事を百も承知で、話の合間ごとに何度も繰り返すのです。

戊辰の役の刀傷が残る店内で、お店の方にお願いして写していただいた三人一緒の写真。見返すたびに甘酸っぱいような記憶と共に、彼女の優しい笑顔が浮かんできます。

楽しい時間は本当にあっと言う間、俊足ランナーでも勝てっこない速さで過ぎていき、私たちは再び会津若松市内に残る建築物を訪ねて歩きだします。

「会州一酒造」を後にして歩きだした二人の前に心惹かれる佇まいは「真言宗寺院豊山派寺院「自在院」『大日如来』を本尊とします。

お寺さんなれば、会津藩士の墓もある筈。せめて手を合わせ、隊士たちの後生を祈りましょう。

形ばかりの参拝を終え、会津若松市博労町の最初は、昭和2年(1927)築の「旧若松庶民金庫」。木造2階建、タイル張りのファサードや開口部の上げ下げ窓に特徴のある洋館風の建物は、市歴史的景観指定建造物です。

同じく、市歴史的景観指定建造物の「神禧堂薬館」は明治36年(1903)築。土蔵二階建て、切妻、平入の白漆喰仕上げ。一階部分には一間の下屋が張り出しています。元禄年間の創業当時は、仙台屋と称する会津藩御用の「正阿弥細工仕入所(刀の鍔などの販売所)」でしたが、後に薬の販売が主流となりました。

1993年に改修工事を行い、二階を「金看板資料館」とし、当時の看板と関連資料、生活用具など会津の町方文化を紹介しています。

続いて明治25年(1892)築の「松本家住宅及び土蔵(市歴史的景観指定建造物)」

造り酒屋として建てられた仕込み蔵をはじめとし、座敷蔵や住宅等の数棟の家並みが旧甲賀町通りにひっそりと佇んでいます。

会津若松市内に残る歴史的建築物、明日に続きます。

訪問日:2015年6月30日