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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

如法寺の隠れ三猿:寺社彫刻 in 福島県西会津町野沢

2024年12月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

「霊峰:飯豊山(いいでさん)」の南麓に位置し、阿賀川が悠然と流れる山紫水明の里に門を構え、極楽浄土を願う善男善女の願いを受け止めてきた「鳥追観音堂・如法寺」。

海老虹梁・頭貫・木鼻・手挟み・・・龍の背中に乗った武人、相対するのは麒麟の手綱を曳く人物。どの部分を見ても思わずため息が出る彫刻の数々に、ついつい時間を忘れて見入る二人。

そして・・何と!こちらには『左甚五郎』が刻んだと伝えられる「如法寺の隠れ三猿」と呼ばれる彫刻があるとの事。公式HPには「観音の大慈大悲に祈願してこの三猿を探し得れば牡丹の蕾が花開くように幸運が開き「福マサル」といわれています。」
最初の猿を見つけたのはご亭主殿。松の枝間から獰猛な目を光らせて猿を探す鷹。ここでの鷹は災難を象徴します。

松の葉陰に身を潜め、息を殺してやり過ごそうとする「隠れ猿」

二つ目は私が発見。猿を見失った鷹は辺りを見回し、やがて猿の事など忘れて次の獲物を探します。

無時に逃げおおせ、僅かに安堵の息を漏らす「逃れ猿」

三匹目はかなり難渋しましたが、それでもちゃんと見つける事が出来ました。最初は「まさかみたいだけど、あれじゃないかな?」「あれかな?」「あれだと思う」「本当にそうかな?」「うん!あれしかないよ!」

綺麗な牡丹の手挟み、パッと見では牡丹の蕾と見間違いそうな・・その突端の上に見える小さく柔らかそうな影。

花茎の間から見えるのは、幸せそうに手枕で寝ている「安楽に暮らし猿」

何とか三猿を見つけてひとまず安堵、やっとその他の彫刻をゆっくりと愛でる事が出来ました。まずは定番中の定番ともいえる、迫力満点の獅子に牡丹

百獣の王である「獅子」、百花の王と言われる「牡丹」の取り合わせは寺社彫刻の王道と言っても過言ではありません。わずかに残る獅子の口中と牡丹の朱が得も言われぬ雰囲気を生み出しています。

これも寺社彫刻には必須の龍。龍は水を司るものとして火災除けの呪いも有ります。

龍と言えば虎、共に均衡した力を持つ二頭は、互いに対立し合う英雄の象徴とされています。

場所の関係だったか、日差しの関係だったのか・・多分同じ方向からの画像なので場所的なものが大きく作用したと思われる貫の「獅子」。こちらにもわずかに朱の跡が残されています。

麒麟と言うよりも龍に近いような、それでも間違いなく蹄を持った「麒麟」です。

鳥追観音の由来

奈良時代、天平八年(736)の春、僧行基は会津巡錫(じゅんしゃく)の折、野沢のとある農家に宿されました。行基は、子にも恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲歎に暮れる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音のご尊像をお授けになられました。以来、観音様は自ら鳴子の綱をお引きになり鳥や獣を追い払い、やがて一家は子宝を授かり、豊作に恵まれ、幸福な人生を全うし、観音様の導きにより、西方浄土に安楽往生が叶いました。やがて衆生は、この観音様を「鳥追観音」と尊称し、篤い信仰を集めました。

参拝日:2016年6月19日


如法寺:会津鳥追観音 in 福島県西会津町野沢

2024年12月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

西会津町野沢字如法寺に門を構える、真言宗室生寺派寺院「金剛山:如法寺」。会津ころり三観音の一、会津三十三観音番外別格の結願所であり、『鳥追聖観世音菩薩』を本尊とします。

「大同二年(807)、奈良より来たりて仏都会津の祖・徳一大師が「会津西方浄土」として開創。現観音堂は、慶長十六年(1611)の大地震で倒壊後、会津藩家老・岡半兵衛重政により再建。東から入り参拝後、西より出る全国でも珍しい「東西向拝口」で、観音様の導きにより西方浄土への安楽往生を祈願したものとされる。また、慶応四年八月、戊辰戦争で野沢に出陣の会津藩主・松平容保公が戦勝祈願に訪れたことでも知られる。僧行基御作と伝えられる「聖観音」は、衆生を導き寿命を全うさせ、西方浄土の阿弥陀仏の世界へ安楽往生させるという、二世(この世・あの世)の安楽を願い、≪命のふるさと・鳥追観音≫として参拝者が絶えない。」公式HPより

朱塗りと思われる仁王像。宝髻を結い、腰から下に裙をまとって天衣(てんえ)を翻す姿は頼もしく、仁王門の内より阿吽の呼吸で境内一帯を守り続けておられます。

参道正面に「東西向拝口・三方開き」の観音堂

東口から入り、鳥追観音に祈願した後、戻らずに西口から出る。これは「観音様の導きで人生を 全うし、やがて西方浄土へ安楽往生が叶う」という鳥追観音のご誓願を表現しています。

観音堂の随所に施された見事な彫刻の数々、目に焼き付けてカメラに収めて、それでも離れがたくしばしの間、魅入っていた二人。左甚五郎の隠れ三猿・・獅子・鷹、艶やかに咲く牡丹、これらは明日のブログで紹介します。

「県指定天然記念物 樹齢1200年:樹高30m:東北最大の高野槇」

鳥追観音如法寺の道向かいに展示されていた「ロータリー車・ラッセル車」。

「全国で北海道と西会津町のみに展示されている貴重な車両。戦前から1970年代まで北海道、東北、新潟、北陸など豪雪地域に200余り配置されており、線路の除雪作業に大活躍しました。昭和36年(1961)の大豪雪では、36回の出動で、延べ走行距離が3864キロメートルの多数出動をしました。」東北観光サイトより

車体には「新」「長岡操車駅常備」「キ172」「日本国有鉄道」の文字。観音様に詣で、思いがけず、珍しい物を見せて頂きました🙏🙏。

参拝日:2015年6月19日


会津坂下~あちこちウォッチ in 福島県会津坂下町

2024年12月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

下帯姿の参加者が重さ約5トンの大俵を引き合う新春恒例の「大俵引き」。会津坂下町で400年続く奇祭だそうで、マンホールのデザインにも使われています。

会津坂下町柳町のポケットパークに、剣の修行に励んでいた若き日の「堀部安兵衛」像。会津坂下町茶屋町貴徳寺で生まれた『中山安之助』。長じて安兵衛となり、高田馬場での仇討ちの評判が、赤穂藩士:堀部安兵衛の耳に留まり、ぜひと請われて堀部家に婿入り、その後は赤穂四十七士として吉良邸に討ち入りします。

有名人と言えば会津坂下町は「演歌歌手:春日八郎」氏の出身地だそうで「会津坂下駅」には・・・

春日八郎氏の銅像と

電車の停車駅らしく「赤いランプの終列車」歌碑

「春日八郎 ”歌碑” 別れの一本杉」と書かれた幟の矢印に従って車を走らせた先に

会津坂下町船杉、「春日八郎記念庭園」にある「おもいで館」

で、これが歌詞に出てくる「山の懸巣が啼いていた一本杉」

「村はずれの石の地蔵さん」???・・多分、そうじゃない😩。

「別れの一本杉 歌碑」・・彼のヒット曲を検索して分かった事は、「お富さん」って、この人の持ち歌だったと言う事実😲 歌は知ってたけど、知らなかった😅

ちなみにですが、会津坂下町は「猪俣公章(作詞&作曲家)」の出身地としても知られているそうです。「空港」とか「大阪ラプソディ」、ど演歌なら「あばれ太鼓」等々・・カラオケで良く歌ったな🎤 なんて、実はそんなに知らない😅。

訪問日:2015年6月28日


娘子(じょうし)隊 中野竹子の墓 in 福島県会津坂下町

2024年12月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津坂下町光明寺東甲に門を構える曹洞宗寺院「虚空山:法界寺(ほっかいじ)」。木造『釈迦牟尼仏』を本尊とします。

室町時代・永享10年(1438)、淳宗により創建。天寧寺の末寺として、天寧寺九世:喜恕により開山。慶長元年(1596)に堂宇を建造。この寺の境内に、戊辰戦争で散った中野竹子女史の墓があると聞き、詣でさせて頂きました。

会津藩江戸詰勘定役中野平内の長女、中野竹子らにより自発的に組織された女性だけの郷里防衛隊「娘子(じょうし)隊」。慶應4年(1868)8月25日、戊辰戦争において若松の町外れ越後街道の涙橋のあたりで、長州、大垣の兵と遭遇した娘子隊。薙刀を振るい新政府軍と勇敢に戦った中野竹子は銃弾に倒れ、首級を奪われる事を恐れた妹:優子(16歳)の手によって介錯。その首は遺品とともに法界寺に埋葬されたと伝えられています。中央に「中野女子之墓」。右手に「嗚呼壮烈」碑。

「小竹女史之墓」「小竹」は、竹子女史の号。

出陣に際し、薙刀に結び付けていたという辞世の句【  武士の 猛き心に比ぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも 】

竹子女史の父・『中野平内』歌碑

「中野竹子の墓」案内

散(ざん)切りにした頭に白羽二重の鉢巻き。同じ布の襷(たすき)で裾をからげ、義経袴に大小刀を手挟む。その姿は胸が痛いほど雄々しく美しく・・・わが身を賭して守ろうとした会津の魂。その心根を想う時、飯盛山で流した涙に再び胸塞がれ、声にならない嗚咽を抑えるのが精一杯でした。

「慰霊 戊辰役殉難碑」

訪問日:2015年6月28日


瑠璃光山:勝常寺(しょうじょうじ) in 福島県湯川村

2024年12月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

湯川村勝常代舞に門を構える真言宗豊山派寺院「瑠璃光山:勝常寺(しょうじょうじ)」。会津五薬師の中心として会津中央薬師とも称される『薬師如来』を本尊とします。

「大同2年(807)、法相宗の硯学『徳一上人』によって開かれた東北を代表する古刹。創建当初の寺院名は詳らかではないが中世以後、勝常寺としている。創建当初は七堂伽藍と百余りの末寺を持ち、十二の僧坊を備えていたとされる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和寺の末寺であった。伊勢氏侵攻による兵火で堂宇を失うが室町時代に再興される。現在残されている建物は応永5年(1398)に再建の講堂(現・薬師堂)のみで、それ以外は近世以降の建物である。」

国重要文化財の薬師堂は、室町時代初期に蘆名氏家臣・富田祐持によって再建。和様・唐様を併せ持った構造で、桁行5間、梁間5間、寄棟造で、屋根はもと茅葺きでしたが、昭和39年に銅板葺となりました。

第十番札所 勝常観音:御詠歌碑【 幾たびも 歩みを運ぶ勝常寺 生れ会津の 中の御佛】

仁王門内より仏域守護に努めておられる仁王像一対。

信徒の方からの差し入れなのか、それともこのお姿が定番なのか、紙垂の付いた藁蓑に、暖かそうな藁の脚絆を着けておられます。

「拓忠碑」 国の礎となられた方々の慰霊・顕著の碑と思われます。

「土井晩翠ウォーナー碑」 第二次大戦中、米軍の爆撃から寺をまもったウォーナー博士の碑と言う事で、全国に同じような碑が6カ所も立てられています。

しかし、1994年にアメリカが公開した戦争中の機密文書のなかで、「ウォーナー伝説」は戦後GHQの占領政策として作られた「つくり話」であった事が明らかになりました。早い話「戦争中にもかかわらず、アメリカは日本の文化財を守ってやったんだ。日本人は感謝しろ。」代表的な例として「京都は歴史がある街だから爆撃をしなかった」という与太話は「京都は原爆投下目標都市であったため、通常の爆撃は禁止されていた」という事実。また同様に「奈良・鎌倉は小都市であったため爆撃順位が遅かった」という事実。それを免れたのは、日本が全面降伏をし、多くの人が処刑台の露と消えたから、それだけの理由です。それが明らかになった今でも、このような碑が後生大事に建てられている事に対し、日本人として非常に屈辱に思います・・こんな惨めな与太話さえも信じ込まされ、有難がる・・戦争に負けると言う事はそういう事なのだと・・思います。

参拝日:2015年6月28日


塩川地内~あちこちウォッチ in 福島県喜多方市塩川町

2024年12月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市塩川町と会津若松市河東町とに跨る一休水系阿賀野川水系の日橋川に架かる「切立橋(きったてばし)」

東京電燈(現・東京電力)猪苗代第四発電所建設に伴い、国鉄磐越西線広田駅 - 猪苗代第四発電所間に資材輸送用の専用軌道である広田専用軌道が施設。その際、日橋川に架かる日橋川橋梁として大正10年(1921)に架設・供用された、全長48.150mのアーチ橋です。明治23年(1890)にドイツで製造され、大正15年(1926)に、九州鉄道から移設されました。

日橋川に架かる「おいかわ橋」の煉瓦造りの欄干。上の建物は喜多方と言う事でやっぱり蔵なのかしら?

喜多方市塩川町石橋にある「塩川駅」

入り口近くにあった、十円硬貨を象ったモニュメント。「じぶんの”まち”」。下に細い差込口。その下に「やさしい心の人のあつまり」一番下に「塩川10円基金の会」と刻まれています。

塩川町:町章の鏝絵が施された蔵造りのバス停

明治22年(1889)4月1日 、町村制の施行によって、新江木村、新井田谷地村、源太屋敷村、小符根村、三吉村の区域をもって発足した姥堂(うばどう)村

その地名は「姥堂駅」の駅名にその名を残すのみとなりました。

姥堂の名に縁のお堂かと一瞬ぬか喜びした「古峰神社」の石祠😓

 

 

訪問日:2015年6月27日

 

 

 

 

 


高郷地内~あちこちウォッチ in 福島県喜多方市高郷町

2024年12月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市高郷町上郷野際戊にある、JR東日本磐越西線「荻野駅」・・・から見た線路😅

線路しか写していないのに、この駅が何だ?と聞かれれそうですが、実は目的は駅舎の床。何と床一面に福島県の地図が描かれているのです。ちなみに私たち、この床を見る為だけにここに来ました😆

ご当地マンホールのデザインにもなったボート。喜多方市高畑地区は「ボートのまち宣言都市」なんだそうです。

喜多方市高郷町塩坪橋付近、阿賀川にかかる塩坪橋から峯橋の間のおよそ2㎞を中心に分布する「天然記念物塩坪化石層」

約1000万年前の砂岩層で、クジラやサメ、アシカなど海にすむ哺乳動物の他、巻貝や二枚貝などの化石が大量に埋れています。昭和55年(1980)に「アイヅタカサトカイギュウ」が発見され、世界中から注目を浴びるようになりました。

塩坪橋から見る歩道橋

「高郷村塩坪橋の歴史」に橋の歴史が簡単に紹介されています。「明治26年まで舟渡し」「明治26年から舟橋」「大正14年:木製吊り橋(賃取り橋)初代塩坪橋」「昭和10年まで木製吊り橋2代塩坪橋」「昭和37年 鋼橋(トラス橋+鉄桁)3代塩坪橋」昭和60年 歩道橋」

塩坪橋から改めて見る歩道橋。ずっと奥に見えるのは東北電力(株)の「新郷ダム」

折角の綺麗なダムなのに、もう少し近くまで行けばよかったと・・お決まりの「先に立たない後悔」😔

喜多方市高郷町西羽賀十二林に鎮座される羽賀神社」

喜多方市高郷町西羽賀西羽賀に門を構える「浄土真宗:明照寺」

隣り合わせの境内、どちらも下から見上げての参拝とさせて頂きました🙏🙏

訪問日:2015年6月19日

 


山都駅界隈~散歩 in 福島県喜多方市山都町

2024年12月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市山都町西原に位置するJR東日本:磐越西線「山都駅」。何か催しがあったのか、それとも単に休憩されているだけなのか・・何か・・微妙に居心地悪い😥

マンホール収集の目安として、庁舎・代表駅などは一応押さえておく事にしており、マンホール以外に何か見つけられれば、それはラッキーな偶然。で見つけたのが、角巻の中に幼子を抱いた「北の親子像」。彫刻家:鈴木政夫氏、1989年の製作。右手には「財団法人修養団創立者 蓮沼門三先生生誕の町」の柱。喜多方市の「蔵の里」でちらっと登場しました。

駅近くで見かけた建物、いわゆる看板建築の類だと思うのですが、二階部分に四つ並んだ窓がとてもお洒落です。

次の目的地に向かう途中に車の中から偶然見かけた鉄橋の上を行く電車😲。急いでシャッターを押して捉えた一枚。

一ノ戸川にかかる長さ445m、高さ24mのJR磐越西線の鉄橋「一の戸橋梁」。明治43年(1910)の完成当時は東洋一の規模を誇った石造りの鉄橋で、経済産業省の近代化産業遺産にも選ばれています。

車から降りて写せばよかったのですが、その時はそんなに大層な代物とは思いもつかず😱・・・ただ、すごく絵になる鉄橋だなと思ってシャッターを切ったというのが本当の所。

山都支所に向かう道すがらに見かけた神社。朱塗りの鳥居は稲成のお社でしょうか?

多分、この神社の境内にあったと思われる「飯豊山の碑」・・9年の歳月は流石に長いと、改めて思い知ります。

訪問日:2015年6月19日


旧国鉄日中線:熱塩駅 in 福島県喜多方市熱塩加納町

2024年11月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市熱塩加納町熱塩字前田丁に残る「旧国鉄日中(にっちゅう)線 熱塩(あつしお)駅」

昭和13年(1938)、耶麻郡喜多方町:喜多方駅と耶麻郡熱塩村:熱塩駅を結んで開通した日中線。喜多方・会津村松・上三宮・会津加納・熱塩の5駅を結ぶ11・6キロメートルの路線で、終点熱塩駅の奥にある「日中温泉」が路線名称の由来とされます。

昭和58年(1983)の末期には列車は1日に三往復、乗降客も少なくなり、昭和55年(1980)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行により第1次特定地方交通線に指定。昭和59年(1984)4月1日に全線廃止となり、開通から46年にわたる役目を終えました。

駅舎はひどく荒廃していましたが、廃止から1年後の昭和60年(1985)に整備され「日中線記念館」として公開。館内には日中線に関する資料等が展示されています。

さらに2009年には、経済産業省の「近代化産業遺産群 続33(東北開発)」の一つとして、近代化産業遺産に認定。待合室のベンチや切符棚、運行当時の写真などさまざまな品が展示されており、思った以上に興味深い内容でした。

当時の場所に今もそのまま残されている「踏切」

最終駅だっ熱塩駅には、車体をUターンさせる為の「転車台」が設置されていました。

また構内にはラッセル車や客車も静態保存されており、鉄道ファンにはワクワクする景色を作り出しています。

ラッセル車の前にある二つの丸いもの、実はあれ、国鉄時代には「A寒地仕様」と呼ばれた酷寒地向けのワイパーなんです!!。降りかかる雪を高速で回転して振り飛ばす・・・・。雪国育ちでない二人には、驚きの発見でした。

改札を潜る時の何とも切ないような、ドキドキするような気持ち。それは電車を待つ時の状況によって様々に形を変え、懐かしい過去を思い起こさせます。

誰が作ったものか・・ホームの片隅に設けられたブランコ😊 私たち以外の見学者さんはお一人だけだったのですが、懐かしそうにブランコに揺られていました。

お互いに記念の写真を写しあい、軽く挨拶を交わして別れてゆく・・廃線となった熱塩駅にはこれ以上ないほどの似合いの一時。

「日中線記念館の桜」。季節には桜祭りなども開催されるとか。その時期にはこの駅舎一帯も華やかに人で溢れるのでしょうね。

駐車場の一画にあった「天神清水」。汽車の旅で降り立った人たちは、この冷たい湧き水で喉の渇きを潤したのでしょうか?

訪問日:2015年6月21日


三津谷煉瓦蔵と三津谷登り窯 in 福島県喜多方市岩月町

2024年11月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

喜多方市岩月町宮津勝耕作、郊外の三津谷集落ある「若菜家」の煉瓦蔵群で一際目を惹く佇まいが、4万2500個もの煉瓦を使った三階蔵。大正5年(1916)の建造です。

四棟の煉瓦蔵はそれぞれにアーチ型の窓や入口などデザイン性に優れており、これらを設計建築したのは、東京で修行をし当時の最先端の技術を学んだ、喜多方市出身の煉瓦師『田中又一』。 三津谷の登り窯で焼かれた美しい総煉瓦造りの蔵は、それぞれ細かいデザインが違い、田中又一の設計技術の高さを物語っています。

敷地の通り沿いに南北棟で建つ平屋建、瓦葺の煉瓦座敷蔵、通り側に半円アーチ窓を二基設けています。若菜家煉瓦蔵は「喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として、経済産業省の近代化産業遺産にも登録されています。

道路に面した一画に建つ煉瓦蔵

そしてやっぱり!「ラーメンと蔵の街:喜多方」😆

『樋口市郎』が生み出した喜多方煉瓦は、表面に釉薬(うわぐすり)をかけて焼成した釉薬煉瓦(ゆうやくれんが)。冬の寒さが厳しい会津の凍害を防止する目的で、釉薬をかけたもので、薪を燃料とした登り窯で焼かれるために、酸化や還元、窯の温度、施釉の濃淡、窯の冷える速度などの違いで出来上がりの色が微妙に変化し、それが喜多方独特の風合いを生み出しているのです。

レンガを、土木工事ではなく、建物にも使うことを推奨したのは明治14年(1881)に岩月村に生まれた『田中又一』。12歳で煉瓦師に憧れ、東京へ出て清水組のお抱え煉瓦師のもとでレンガ積みを学び、明治33年、喜多方に帰郷。明治35年、故郷の喜多方で木造骨組の外側にレンガを積んだ岩月尋常小学校を建築。これが喜多方のレンガ造建物の主流となる煉瓦が木部とかみ合う「喜多方式木骨煉瓦造」の始まりとされています。

本来は鉱山のトンネル、鉄道の橋脚用に焼かれた煉瓦ですが、それを住宅や蔵などに転用。その美しさの秘密は、独特の釉薬煉瓦にあります。喜多方市岩月町宮津火付沢にある「三津谷登り窯」。明治23年に製瓦業として創業した古い歴史を誇る登り窯で、その後、煉瓦の焼成にも使われ、喜多方の煉瓦産業を支えた窯となりました。

当初は7室(段)でしたが、現存する窯は大正時代に築窯された十連房からなる大型登り窯。1回に約1万個のレンガが焼成できる登り窯で、煉瓦と瓦を焼く登り窯としては、日本で唯一稼動できるものです。

窯を築いたのは新潟県亀田出身の安田瓦職人『樋口市郎』。若喜商店冠木家に住み込みで働きながら、原料の粘土と燃料の赤松が大量に得られる火付沢(三津谷)を見出し、瓦を焼く登り窯を築き、凍害対策として灰汁を釉薬に使用した瓦を生産。瓦で培った技術を煉瓦に転用し、オリジナルの釉薬煉瓦(ゆうやくれんが)を焼成する「樋口煉瓦工場」を創業しました。

三津谷登り窯は、「喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として、経済産業省の「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群」にも登録されています😊。

訪問日:2015年6月20日