tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

地方創生の旗手(日経グローカル)

2016年02月19日 | マスコミに紹介されました!
このたび、地域創造のための専門情報誌「日経グローカル」誌(2016.2.15号)の「地方創生の旗手」欄に、私へのインタビュー記事が紹介されました! NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」での活動について取材を受けたものです。地方創生の「奇種」なら、まさにその通りですが、「旗手」とは汗顔の至りです。インタビュアーは旧知の西久保智美さん(コミュニティライター・五條市在住)で、2月4日(木)「ホテル杉の湯」(吉野郡川上村)のロビーで、吉野杉の美林を眺めながらお話しました。

大した資料も用意せず、思いつくまま2時間ほどダベった話を、こんなにきれいにまとめて下さいました。自分で読んで「おお、これはなかなか筋の通った話だ」と納得したほど、きちんと書いていただき、さすがはプロです。以下、記事全文を紹介させていただきます。

インタビュー 地方創生の旗手
NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 専務理事 鉄田 憲男 氏
検定上級者がガイド 上質の奈良観光届ける


3つの世界遺産をはじめ、社寺や歴史の宝庫である奈良。通り一遍の案内では物足りない人たちに、一歩踏み込んだ奈良の魅力を伝える団体がある。ご当地検定「奈良まほろばソムリエ」の最上級合格者らでつくるNPO法人・奈良まほろばソムリエの会(奈良市)だ。現地のガイドや奈良、東京での講演会だけでなく、旅行会社とのコラボで「古事記ツアー」を企画すると、満員御礼の人気ぶり。会員の個性を生かして活躍する場づくりと、奈良観光が抱える課題について鉄田憲男専務理事に聞いた。

――前身の任意団体「奈良まほろばソムリエ友の会」を結成したのは2011年4月。まもなく5周年を迎える。

私自身、もともと奈良が好きで、奈良の本もよく読んでいた。きちんと整理して勉強したいと思っていた時に、奈良でもご当地検定の「奈良まほろばソムリエ検定」が始まり、4年目の10年1月に最上級資格「奈良まほろばソムリエ」に合格した。

その翌年、主催者の奈良商工会議所が、最上級の合格者を集めた会を開いてくれたのをきっかけに、参加者同士で盛り上がり、自主的交流の場をつくろうと、11年4月に会を発足させた。勉強をしたら、アウトプットもしたい。自分だけが知って満足するのではなく、誰かの役に立ちたいと活動の場を求めている人が多かった。

――NPO法人に移行した理由は。
任意団体として友の会をつくったが、これでは「親睦会」で終わってしまうと危機感を感じた。責任を持って活動していく以上は、法人組織でないと、と総会で諮り、すぐさまNPO法人の設立準備を始めた。社会貢献活動をする団体になることで、方向性もはっきりするし、会計の面もきっちりする。組織として動かしていくには必要なことだった。

――会の活動としてはどのようなことをしているのか。
ガイドや講演・講座など6つのグループに分かれ、それぞれ担当の理事を中心に活動している。例えば、ガイドグループでは、先輩のガイド案内に同行して勉強したり、研修会を開催したり、実践につなげられるよう研修体制を充実させている。また、講演会の講師をしたい人は、パソコンが苦手な人でも、まずはパワーポイントを学んでもらい、分かりやすい資料作りから研修する。

大学の先生が話すような講演はできないのだから、分かりやすい講演をすることが重要。ガイドだったら、既存のガイドがいる地域ではなく、隠れスポットだったり、市町村を越えたコースだったり、ソムリエの会だからこそできることをするべきだと思っている。



大阪電気通信大学の公開講座。2015.11.16に開催

――奈良まほろばソムリエの会の特徴は。
旅行会社からの依頼で、12年の古事記編さん1300年を記念した「古事記ツアー」をはじめ、テーマに基づいたいろいろなツアーを企画し、ガイドも手がけてきた。ツアーはガイド2人体制で、1人はバスの中、もう1人は現地で説明するようにしている。

以前、勉強しようと、偉い先生が同行するバスツアーに参加したものの、先生の話は現地で30~ 40分程度。もっと話を聞きたいといつも思っていた経験から、ソムリエの会ではバスの中で予習を兼ねて説明してから、現地に案内するようにした。そして、話す内容は事前にマニュアルにして、説明できないものは写真などを使って見える化に取り組むことで、参加者の皆さんには喜ばれている。

先日は小説『天河伝説殺人事件』(内田康夫著)になぞらえ、奈良市内発で吉野山~天川村への日帰りツアーを実施した。小説に出てくる能にちなんで謡い手を加え、3人体制でツアーを楽しんでもらう工夫をした。こういう取り組みができるのもソムリエの会ならではだろう。

――活動を通じて、奈良の観光の現状をどうみる。
平城遷都1300年祭をきっかけに、県民におもてなしの精神が生まれつつあると思う。奈良県の人は心おだやかで親切でやさしい人が多いが、それを表に出すことが苦手。これを自分なりに努力し、表に出せるようになるといい。

奈良県は地域に伝わる民俗行事の宝庫と思っている。十津川に行けば、すごい盆踊りがあり、曽爾に行けば、獅子舞があり、五條には狂言があり、多種多様の行事がごろごろとある。いわゆる横文字のイベントや、たくさんの人が来るような大きなイベントではなく、既存の民俗行事を掘り起こして、人に来てもらうようになれば、人口減少が進む地域も、もっと元気になる。

10月に東吉野村で行われる「小川祭り」も村民だけでなく、村外に出た住民が帰ってきて祭りに関わったりする様子を見て、いいなと思った。地域の人たちは地域で守ってきた祭り・行事ができなくなることを恥ずかしいと思うところもあるだろうが、声をかけてくれたら、ソムリエの会の保存継承グループでもお手伝いしたい。



「卑弥呼の大和」ツアーをガイド。2016.2.17実施

――外国人観光客も増加の一途をたどっている。取り組むべきことは。
奈良市界隈は、外国人観光客であふれている。中国人は、東大寺に行って鹿に鹿せんべいをあげたら奈良観光はおしまいと思っているが、それはきちんと奈良の観光をPRできていないから。特に県中南部の魅力をしっかり宣伝することが重要だ。

また、中国人はマナーが悪いと毛嫌いする人もいるが、日本人も昔、ハワイへ団体旅行などで大勢の人で押しかけ、タバコのポイ捨てや、味噌汁がないと文句を言ったり、写真を勝手に撮ったりとマナーが悪かった時期がある。でもハワイの人は温かく受け入れてくれ、今の交流がある。

あきらめるのではなく、理解してもらえるように話しかけてほしい。観光関係に関わってなくても、一般の県民が動き出すきっかけとして、自分ができることから始めてほしいし、ソムリエの会としても取り組んでいきたいと思う。

てつだ・のりお 1953年和歌山県九度山町生まれ。南都銀行在職中の2011年、「奈良まほろばソムリエ友の会」を立ち上げ、事務局長に就任。13年NPO法人 奈良まほろばソムリエの会に移行、専務理事。14年には同会監修の「奈良『地理・地名・地図』の謎」(実業之日本社)を刊行した。

記者の眼
インターネットで奈良の観光について検索すると必ず上位に出る鉄田さんの「tetsudaブログ“どっぷり!奈良漬”」。2005年から始まったブログは、歴史や文化だけでなく、宿泊施設や飲食など便利な情報から、観光戦略や地域の取り組みなど、奈良の「いま」を読み解くことができる。情報の整理・分類、マニュアルづくり、見える化。銀行員として培ってきたノウハウが、宣伝下手といわれる奈良の観光をつくり変えていく(コミュニティライター 西久保 智美)


ずいぶんとお褒めいただき、恐縮です。観光ガイドや講演講師の養成については、よく他団体からも質問を受けます。当会には企業出身者が多いので、論理的・合理的思考の持ち主に恵まれています。見よう見まねで教えるのではなく、例えば講師の育成(担当=啓発グループ)だと、パソコン(PowerPoint)講座→講師養成講座→研究発表練習会→研究発表会→外部の講演会に派遣、とステップを踏みながら養成していく仕組みです。

おかげさまで、クラブツーリズム奈良旅行センター(近鉄奈良駅ビル5階)と奈良まほろば館(東京日本橋三越前)では常設の講座を持ち、奈良佐保短期大学にも講師を派遣し、この4月からは京都シニア大学奈良校(奈良商工会議所ビル内)でも毎週木曜日に授業を受け持つことになっています。

当会は今年で5周年を迎えましたが、活動はまだまだ緒についたばかり。これからも300人の仲間とともに、奈良を盛り上げてまいります!



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邪馬台国ツアー、楽しく閉幕!

2016年02月18日 | 奈良にこだわる
昨日(2/17)、日本旅行の「古代ロマン 卑弥呼の大和」(おとなび~邪馬台国 畿内説~) という日帰りバスツアーをメインガイドとして案内した。サブガイドは古墳マダム(古墳ガール改め)の道崎美幸さん。前回(2/10)のメインガイド・雑賀耕三郎さんの具合が悪くなり突然、私が入ることになった。芝居のアンダースタディ(代役)ではないが、私も万一に備えて同時並行で勉強していた。それが現実になるとは…。

幸い私は前回のツアーにサポーターとして同乗していたので、雑賀さんのガイド内容は把握していた。配布資料も雑賀さんが用意して下さっていた。雑賀さんのレベルには及びもつかないが、私なりの楽しいガイドをしようと覚悟を決め、本番に臨んだ。

出発は9:00、新大阪駅正面口バス乗り場。ここから香芝サービスエリアでのトイレ休憩をはさみ、唐古・鍵遺跡をめざす。この車中、雑賀さんは「魏志倭人伝」の読み下し文を朗読されていたが、私は高校の日本史教科書である『もういちど読む 山川日本史』(山川出版社刊)の「邪馬台国」のくだりのコピーを配布し、それを読み、解説した。前回のツアーで私は結構、初級者レベルの質問を受けた。難しい話についていけなかった人たちがいたのだ。雑賀さんのガイドは「中~上級者向け」だったが、私は「初~中級者向け」の解説を心がけた。それでまずは高校の教科書から入ったのだ。引用すると、

卑弥呼を女王とする邪馬台国は、後漢末に楽浪郡の南に設けられた帯方郡(たいほうぐん)を経由して魏(ぎ)と通交した。邪馬台国は30カ国ほどを勢力下におく連合国家で、九州北部に外交と諸国の監督のための特別の役人を派遣していた。卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた。このように魏が倭を重んじたのは、魏が呉・蜀や高句麗と対立していたためとみられる。

卑弥呼は呪力をもつ司祭者で、「男弟」がこれをたすけて国をおさめ、多くの奴卑がしたがい、宮廷はつねに兵にまもられていた。倭人の国々には大人(たいじん)と下戸(げこ)といわれる身分が成立し、法の秩序がととのい、租税がおさめられ、市(いち)があって諸地域間の交易がおこなわれていた。卑弥呼が死んだあと男王がついだが、国中はしたがわず、壱与(いよ)[台与(とよ)]という女王をたててはじめておさまったという。

邪馬台国の位置については、古くから九州説と大和説がある。もし邪馬台国が九州にあったとすれば、銅鉾(どうほこ)・銅戈(どうか)分布圏を中心とする地域的な連合国家であり、大和にあったとすれば、銅鐸分布圏の勢力がすでに西日本を支配していたことになろう。


さすが山川、簡にして要を得た記述である。最後の3行については少し補足したが、これでお客さんは頭の整理が出来たことだろう。そのあとの車中では、桜井市出身の考古学の鬼・森本六爾(ろくじ)の話をした。

最初の到着地「唐古・鍵遺跡」では、寒風が吹きまくっていた。これは早めに切り上げなければ…。この日は工事が休みの日で柵があり、楼閣建物には近づけない。で、遺跡内の解説板を使って遠くから解説し、また五重の濠も見てもらった。あの寒さでは、これが精一杯だ。

次は纒向石塚古墳(国指定史跡)をめざした。途中、森本六爾夫妻の顕彰碑(大泉バス停前)も、車窓から見ていただいた。石塚古墳では全員、墳丘に登っていただき、その上から「前方部」の痕跡や、用意した弧文板の画像(雑賀さんからお借りしたもの。現物は桜井市埋蔵文化財センターにあった)を見ていただいた。卑弥呼の居館(辻地区の建物群)跡では、復元建物の写真(前回、桜井市埋蔵文化財センターで撮影した)と案内板に出ていた図面を重ね合わせながら、解説。

とにかく寒いし今にも雨(または雪)が降りそうなので、午前の部は早めに切り上げたが、結果的に、これは大正解だった。三輪茶屋(三輪そうめん山本)でのランチのあと、午後一番は、同店と同じ建物内の資料コーナーで、まずは同社元常務・幕田隆司さんの解説を聞く。前回より詳しく、ノリに乗った解説で、お客さんは大喜び。前回は展示を見てからの解説だったが、先に話をしてもらったことが奏効した。現物を見るお客さんの目つきが違う。

ここで「そうだ、午前で時間を浮かせた分、午後の市埋蔵文化財センターでたっぷり時間を取り、学芸員さんにじっくり解説していただこう。学芸員の武田雄志さんは纒向の発掘を担当された方なので、きっと良い話をしていただけるはず」と思いついた。自分に力が足りなければ他人様の力をお借りする、これは私のモットー(?)だ。埋文センターなら暖房も効いているので、1時間取っても大丈夫だろう。ソファーもたくさんある。

桜井市埋蔵文化財センター学芸員の武田雄志さん

三輪そうめん山本の次は徒歩で箸墓。ここは道崎さんが手堅く解説。水を抜いた池面に葺石が転がっているところも見ていただいた。ここも寒いので、短めに切り上げた。三輪そうめん山本に戻ってバスに乗り一路、桜井市埋蔵文化財センターへ。「1時間ほど取れます」と申しあげ、武田さんには相当詳しく解説していただいた。午前の部で私が触れなかったところも、痒いところに手が届くような解説、さすがは纒向遺跡を発掘調査し「桃の種」を掘り当てた人だけのことはある。バスの中で紹介した地図つきパンフレット『纒向へ行こう!』200円などの冊子類は、飛ぶような売れ行きだった。

最後の立ち寄り地、黒塚古墳も時間通りに到着。1階で道崎さんに解説していただいたあと、2階ではたっぷり時間を取って三角縁神獣鏡を見ていただいた。そこから黒塚古墳の墳丘へ。大和三山などの場所を指すと、皆さんとても関心を持って見ておられた。

バスは予定時刻の16:00より10分早く黒塚古墳駐車場を出発、新大阪へお帰りいただいた。道崎さんと私はここでバスを離れ、JR柳本駅に向かった。このあと私は上本町の「大阪奈良県人会」で講話することになっていたのだ。ここから直行したおかげで、何とか間に合い、重責を果たすことができた。


バスツアーのお客さんからは「よく分かった」「楽しかった」というお褒めの言葉をいただき、まぁこれは素直に受け取らせていただきたい。

雑賀さんとの突然のガイド交代で、一時はとても不安だったが、何とか我流で切り抜けることができた。私の流儀は「とにかく分かりやすく」で、そのためには十分な資料を準備する。今回は纒向遺跡の地図のカラーコピーも全員に配布したので、遺跡の全貌がよくお分かりいただけたことと思う。

今回もシニア層が中心のツアーだったが、前回より女性の比率が高かったし、マニアックな方は少なかった。考えてみれば本当のマニアは、団体ツアーではなく個人で来られるのだ。それで私の「初~中級者向け」というねらいがうまくフィットした。

さてこのツアー、残すところあと1回(2/25)、これは雑賀さん(メイン)と私(サブ)のコンビでやることになりそうで、これは楽しみだ。雑賀さん、よろしくお願いいたします!
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纒向遺跡は、こんなにスゴい!

2016年02月17日 | 奈良にこだわる
いよいよ今日(2/17)は、JR・日本旅行による「邪馬台国畿内説ツアー」!私がメインガイド、サブガイドは古墳ガールの道崎美幸さんである。今回も金沢、広島、岡山方面などからのご参加者で、満員御礼のヒット企画となった。邪馬台国畿内説の根城となるのは、纒向(まきむく)遺跡である。学校ではどのように教えているか、学習百科事典『ポプラディア』によると、
※写真はすべて2月10日撮影。ガイドは雑賀耕三郎さん。トップ写真は纒向石塚古墳前

奈良県桜井市にある弥生時代から古墳時代の遺跡。集落跡や、箸墓古墳や纒向石塚古墳などがふくまれる。全長96mの纒向石塚古墳は遺跡内で最古級の前方後円墳として知られ、土器の形式などから古墳時代初期、大和政権初期につくられたと推定されている。遺跡には、ほかの地方からもちこまれた土器も多く、各地から人や物が集まる重要な地だったことがうかがえる。

諸説あるが、「古墳時代」とは箸墓古墳が築造されて以降の時代をいう。纒向石塚古墳は「纒向型前方後円墳」といって、箸墓以降の(正式な)前方後円墳より前の時代の古墳となる。ともあれ、桜井市纒向学研究センターのHP「纒向遺跡ってどんな遺跡?」に詳しい情報が出ている。

纒向遺跡
桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。

この遺跡は広大な面積を有する事や、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳・南飛塚(みなみとびづか)古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています。

遺跡の発掘調査は1971年以降、桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所によって現在までに180次を超える調査が継続的に行われ、2013年には一部が国史跡に指定されたものの、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。


そして「卑弥呼の居跡か」と話題になった辻地区の建物群については、

辻地区の建物群跡地。右手奥はJR巻向駅

辻地区の建物群(桜井市大字辻)
辻地区において検出された掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。

このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑(どこう)が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。


纒向遺跡の代表的な古墳は、まずは纒向石塚古墳である。ここは私が案内する。

纒向石塚古墳(国指定史跡)(桜井市大字太田)
標高69m前後の扇状地上に立地する纒向石塚古墳は、1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目された古墳です。埴輪や葺石はなく、全長約94m、後円部径約64m、前方部長約30mと、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちますが、第二次大戦中には高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されています。

墳丘の構造は纒向遺跡第87次(纒向石塚古墳第8次)調査で後円部西側の一部に段築が残っている事が確認され、本来は後円部3段、前方部には段築が無かったものと想定されています。また、纒向遺跡第55次(纒向石塚古墳第4次)調査では前方部の形状と前方部前面の区画溝のほか、周濠へ水を引き込む導水溝どうすいみぞの存在も確認されています。

この古墳からは墳丘盛土内や幅約20mの周濠から出土した多くの土器群のほか、鋤すき・鍬・建築部材・鶏形木製品・弧文円板(こもんえんばん)などの木製品が出土しており、遺物は比較的豊富にあるものの、築造時期については現在、庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中頃)で埋葬を布留0式期(3世紀後半)とする説の2者があります。


そして卑弥呼の墓説もある箸墓古墳。こちらは道崎さんがガイドする。


箸墓古墳前

箸墓古墳(桜井市大字箸中)
纒向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳で、後円部径は155m、前方部長125mで、墳丘は葺石(ふきいし)を持ち、後円部は円形壇を含めて5段、前方部前面が4段の段築(だんちく)で構成されますが、前方部側面にも複数の段築の存在が想定されています。

この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定され、立ち入りが制限されていますが、墳丘周辺では纒向遺跡第81次調査で前方部北裾の調査が行われ、墳丘裾とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠(しゅうごう)状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が検出されています。さらに、後円部東南裾部における纒向遺跡第109次調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されています。

この古墳からの出土品には、布留1式期(4世紀初め)と現存最古の木製輪鐙(もくせいわあぶみ)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などがあります。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された宮山型特殊器台(みややまがたとくしゅきだい)や都月型円筒埴輪(とつきがたえんとうはにわ)・特殊壷(とくしゅつぼ)、前方部墳頂付近において採集された二重口縁壷などがあり、築造時期は布留0式期の3世紀中頃から後半と考えられています。


「卑弥呼の家」と書かれた表札とか「卑弥呼の墓」という墓誌が出てくれば完璧だが、残念ながら、そこまでは発掘されていない。いわば「状況証拠」だけの推定である。

しかし「推定無罪」は刑事裁判の話。地元ガイド(桜井市観光ボランティアガイドの会)は、邪馬台国ツアーのガイドはしないと聞いているが、ウチ(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」)は違う。「邪馬台国は纒向!」を全面に打ち出して、明日は楽しくガイドをさせていただくつもりである。機会があれば、またこんなツアーを企画したいものだ。
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唐古・鍵遺跡は、弥生遺跡の白眉!

2016年02月16日 | 奈良にこだわる
唐古・鍵遺跡のことは皆さん、日本史の授業で教わったことと思う。学習用の百科事典『ポプラディア』によると、
※写真は雑賀耕三郎さん(メインガイド)。2/10のバスツアーで撮影

奈良県田原本町にある弥生時代の代表的な遺跡。奈良盆地中央にあり、範囲は東西約400m、南北約500mにおよぶ。1937(昭和12)年の調査さでは人や動物の絵がえがかれた弥生土器とともに、多くの木製農具が出土し、弥生時代の農耕文化のようすが明らかになった。1991(平成3)年には、2階建て以上の望楼と思われる建物をえがいた土器が発見されて話題になった。国の史跡に指定されている。

とある。私は明日(2月17日)、この遺跡を巡るバスツアーをガイドすることになり今、おさらいをしているところだが、知れば知るほど興味深い遺跡である。石野博信氏は「唐古・鍵遺跡から纒向へ」を提唱されている。昨日、当ブログで紹介した森本六爾(もりもと・ろくじ)は、ここで見つけた土器片から弥生時代が稲作社会であったことをいち早く見抜いた。彼の死の翌年には発掘調査の結果、ここから大量の木製農耕具が出土してそれを証明した。県立橿原考古学研究所のHPによると、

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)[田原本町唐古・鍵周辺]
位置
国道24号線を南に下り、天理市から田原本町に入って約0.5km、視界は東に広がり、屋根に渦巻き飾りをもつ復元楼閣がみえる。そこが唐古・鍵遺跡の中心部である。



濠をめぐらした集落
奈良盆地の中央部、初瀬川と寺川の間の安定した土地に占地した広大な集落跡である。最盛期には、東西・南北ともに約400mを測る居住地は、何重もの大規模な濠に守られていた。内濠は幅10m・深さ2mを測り、外方には幅5m・深さ1.5mの濠が幾条もつづく。城砦と見まがう姿の集落の総面積は約40㌶。これに墓地等の関連遺跡の推定範囲(北の清水風遺跡から東北の法貴寺遺跡)を含めれば、面積は100㌶近い。

その規模は佐賀県吉野ヶ里遺跡や、中国史書にみる北部九州の弥生時代の国の中心集落である一支国の原の辻遺跡(長崎県壱岐)、奴国の須玖(すぐ)遺跡群(福岡県春日市)、伊都国の三雲(みくも)遺跡群(福岡県前原市)などに並ぶ。弥生時代社会における唐古・鍵遺跡の力の程がうかがわれよう。


弥生時代の標識遺跡
本遺跡が弥生時代遺跡の白眉(はくび)とされる最大の理由は、弥生時代の社会が水稲耕作に基づいた社会であることを実証した遺跡であるからだ。1937年の末(すえ)永(なが)雅(まさ)雄(お)博士による唐古池の発掘は、弥生土器・炭化米とともに多数の木製農耕具を検出することに成功した。

1925年に宮城県枡形囲(ますがたかこい)遺跡の弥生土器に籾(もみ)跡があることを山内(やまのうち)清男(すがお)博士が注意して以来、列島における初期水稲農耕の具体的な姿がついに明らかにされたのである。そして6年後の1943年には、静岡県登(と)呂(ろ)遺跡で水田と集落が確認され、弥生時代の農耕集落の全体像が知られることになった。

母なる村
唐古・鍵遺跡は、周辺にある小・中規模の集落遺跡に対しての母村とよばれ、地域社会の中心集落と目されている。その理由は、遺跡の規模が大きいことに加えて、出土遺物が極めて多様であるからだ。出土遺物の多様さは、集落内で様々な手工業がおこなわれていた証左であり、かつ集落・地域間の交易が活発であったことを示している。

唐古・鍵遺跡の手工業は、土器・石器・木器などの生活用具の生産から、銅鐸などの青銅器の鋳造までと幅広い。特に銅鐸の鋳造に関しては、第3次調査(1977年)で石製と土製の二種類の鋳型が発見されている。以前より銅鐸の鋳造法については、石製鋳型から土製鋳型による鋳造へ変化したものと推定されていたが、その両方の鋳型が唐古・鍵遺跡から現実に出土したことで、弥生時代のハイテクともいえる鋳造技術の革新が、中期末から後期初めにおこなわれたことが明確になった。

手工業による製品は周辺集落にも供給され、中には他地域との交易品になったものもあったらしい。その見返りに、他地域からもたらされたと思われる遺物がある。新潟糸魚川に産するヒスイを用いた勾玉(まがたま)に代表される装身具や、吉備・東海・近江地域・河内地域の土器(内容物は不明)、さらには鯛やアカニシ(貝)などの海産物も出土している。こうした遠距離の交流が、弥生時代社会の中で唐古・鍵遺跡の地位をより高めたのであろう。唐古・鍵遺跡は奈良盆地のなかだけでなく、他地域との関係においても、弥生時代の発展を考える上で重要な遺跡である。

当研究所総括研究員 豊岡卓之

【遺跡への交通機関】近鉄橿原線石見駅 東徒歩15分、
【遺物展示施設】橿原考古学研究所附属博物館(橿原市畝傍町50-2)、唐古・鍵考古学ミュージアム(田原本町坂手233-1田原本町青垣生涯学習センター内)


発掘調査は静岡県登呂遺跡より早く、規模は佐賀県吉野ヶ里遺跡に並ぶのだ。うーん、これはすごい。しかも《出土遺物の多様さは、集落内で様々な手工業がおこなわれていた証左であり、かつ集落・地域間の交易が活発であったことを示している》。

唐古・鍵遺跡では現在、史跡公園整備事業が進められている。2017年度完成、2018年度に開園の予定である。開園の暁には、ぜひお訪ねいただきたい。
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考古学の鬼、森本六爾(もりもと・ろくじ)

2016年02月15日 | 奈良にこだわる
森本六爾という人をご存じだろうか。「考古学の鬼」と呼ばれた異才である。私は雑賀耕三郎さんのブログ「奈良・桜井の歴史と社会」で知った。そこには、
※トップ写真は森本六爾夫妻顕彰の碑」。1/18の撮影

唐古・鍵遺跡の発掘では森本六爾が忘れられない。今回のコースでは大泉(おいずみ=桜井市)の交差点付近で「森本六爾夫妻顕彰の碑」を拝見することが出来る。森本六爾(もりもとろくじ 1903年~1936年)、唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から、いまは常識の「弥生時代は稲作の農耕社会」と証明した。松本清張の断碑と桜井の芝房治(故人)さんの森本六爾論に描かれたのは、こちらの森本六爾である。不遇のうち34歳で亡くなっている。

こんな人がいたのである。桜井市のHPには「森本六爾(もりもとろくじ)夫妻顕彰の碑」《大泉バス停すぐ》という記事が出ている。


顕彰碑の裏の碑文。狭くて、このようにしか撮影できない

大泉バス停の南にある石碑は、当地で明治36年(1903)に生まれ昭和11年(1936)に没した考古学者森本六爾(もりもとろくじ)の顕彰碑(けんしょうひ)です。彼は弥生時代が稲作社会であったことをいち早く見抜き、学界に旋風をまき起こしました。それが証明されたのは、六爾が32歳で夭折(ようせつ)した昭和11年(1936)に唐古遺跡(からこいせき)で始まった発掘調査の成果からでした。

「六爾博物館」というHPに、考古学者・斉藤忠氏(元東京大学教授)のこんな言葉が紹介されている。

森本六爾は、日本の考古学上の多くの人物群の中でも、悲劇的な、しかも異彩を放った人物の一人といえる。とかく、明治・大正以来の学風の伝統の根強かった学界に清新な風を吹き送り、つねに考古学の進むべき目標をみつめながら、逆境とたたかい、東京考古学会の旗幟のもとに、『考古学』を刊行し、溌剌とした研究をなした多才の人物でもあった。

私は想う。もし森本が、奈良県の学校の教員生活に甘んじていたならば、地域考古学に活躍しながら、奈良の地に幸福な生涯をつづけていたかも知れないと。また想う。もし、彼が、期待していた東京帝室博物館に就職し生活に安定していたならば、或いは別な学問の世界におかれたかも知れないと。しかし、運命は、異なったきびしい方向に彼を走らせた。

彼の性格も亦、平凡な生活から、苦難に満ちながらもやり甲斐のある人生を選ばしめた。そして経済的にも健康管理の上にも無理があり、本来の志向と異なって、移りゆき転換してゆく人の世の無情にもだえ苦しみながらも、自己のもつ学問を生かし、学者としての短い生涯を終えたのであった。[斉藤忠編『森本六爾集』日本考古学選集(築地書館)]


近代の奈良を作った偉人と言えば、造林王・土倉庄三郎(どくら・しょうざぶろう)、農事改良に生涯を賭けた中村直三(なかむら・なおぞう)、平城宮跡の保存に尽くした棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう)などの名前が出て来るが、森本六爾にもあい通じるものが感じられる。1つの大きな目的に向かって、脇目を振らずに邁進する。人気のNHK「あさが来た」に登場する広岡浅子や五代友厚などとは、相当違うタイプだ。

森本六爾の記念碑は「大泉バス停」のすぐ南側。ぜひいちど、お訪ねいただき、六爾の功績を偲んでいただきたい。
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