tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

今井町で学ぶもてなしの心(第4回古社寺を歩こう会)PARTⅠ.

2009年09月20日 | 古社寺を歩こう会
おかげさまで第4回古社寺を歩こう会「今井に学ぶもてなしの心」は、9/12(土)、盛会裡に終了した。お世話いただいた今井の皆さん、有り難うございました。

今井町(奈良県橿原市)内の文化財の数々をご案内いただき、町の成り立ちやこれまでの歴史、住民の暮らし、現在の町並み保存や町おこしの活動まで、いろんなことを学ばせていただいた。このツアーの様子を、午前と午後の部に分け、今日と明日の2回にわたり時間順に紹介させていただきたい(午後の部はこちら)。

当日は午前9時半、今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」で受け付け開始。参加者は計37人(うち子供さんが1人。男女別では、男性22人、女性15人)であった。うち17人は当ブログ読者の皆さん、20人は会社の同僚など県内在住者。中には葉山町(神奈川県)から駆けつけて下さった「南都」さんや、京都にお住まいの「ヨシノ」さん「アスカ」さん姉妹、今井に関する卒論を執筆中のF嬢もおられた。午前10時から、西川禎俊氏(今井町町並み保存会会長)などの挨拶と、若林稔氏(同副会長)によるオリエンテーションが始まった。


若林さん(保存会副会長)のオリエンテーション

《「今井町」は、江戸時代からの町家・町並みのたたずまいを、今も生活の中で残している。国指定の重要文化財が9件、県指定と市指定の文化財がそれぞれ3件と6件あり、文化財の多さも全国有数であるが、何より特筆されるのが、今でも、600軒余りの町家の大半が江戸時代の姿を残し、その中で日々の生活を営みながら町を守ろうという姿勢であろう》(財団法人南都経済センター「観光まちづくりレポート」『センター月報』09年6月号)とあるが、全く同感である。
http://www.nantoeri.or.jp/pdf/c006/0906kankou.pdf


岩井芳春氏(茶人の扮装の方=第1班リーダー)の説明

《古くは興福寺一乗院の荘園であった。畿内一向一揆終焉後の天文2年(1533年)、今井に一向宗の道場がたてられたが、興福寺一乗院の国民越智氏によって幾度も破却される。永禄年間に顕如により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部卿)が門徒や在郷武士・牢人とともに称念寺を中心とする寺内町をつくった。 中世の今井庄環濠集落を母体として発展し、東西南北の他、新町・今町の6町が成立した》(Wikipedia「今井町」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E7%94%BA


南町生活広場の一角に復元された旧南口門

華甍で2班(ブログ読者グループと会社の同僚グループ)に分かれた。第1班のリーダーは岩井芳春氏(保存会常任理事)、第2班のリーダーは井上芳光氏(同会厚生部長)だった。私は読者グループ(第1班)に入ったので、写真はこのグループの行動が中心になっている。華甍を出てまず向かったのが復原整備された「旧南口門」(南町生活広場)だ。《東方に80tの耐震性防火水槽を埋設し、西方に「旧南口門」「番屋」「土居」「環濠」を多少の位置変更はありますが復元整備をし、生活広場としています。門は、古絵図、その他資料をもとに、一間薬医門、切妻造、本瓦葺とし、築地塀を付属、土居、環濠も旧のイメージを踏襲しました。江戸時代、9ヶ所の門がありましたが、今回1ヶ所のみ整備し、活用しています》(橿原市の観光サイト)。写真手前の砂利は、かつての環濠をかたどったもの。
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/spot/imai/koukyou.html

最初にお邪魔したお家が、重要文化財・豊田家住宅。《「都市住宅の始まりを伝える江戸初期の町家」伝統的な都市住宅の先駆けと評価される豪商の住まい。江戸初期に建てられた塗り屋造りの町家は、農家の名残も見せつつ、町家らしい特徴も現れ、力を持ち始めた町衆の心意気が伝わってきます。「町家の成り立ちを知らせる貴重な文化財と町並み」日本の伝統的住宅は16~17世紀、寺社建築の様式を採り入れながら農家から町家へと発展する中で形作られたと言われています。豊田家は、町家として全国でも五指に入る古さとされ、国の重要文化財として保存されています》(パナソニック電工のHP)
http://www.sumu2.com/bunka/2009_0624/index.html


第1班には西川やす子さん、若林昭子さん、若林和代さん、第2班には
戸村幸子さん、工藤映子さんが付き添って下さった。有り難うございました

《豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。外観は、城郭建築に見られる入母屋の本瓦葺き。壁は軒裏まで漆喰を厚く塗り上げた防火構造です。この時代の民家が京都でも江戸でも板葺、草葺が多かったことを考えると破格の豪壮さといえます。建物の内部も太い柱や高い梁など、町家として最高級の仕上がりとなっています。間取りは、広い土間に接して3室が並び、その奥にまた3室が並行する6間取り。当時の町家では一般的な間取りです》(同)。



《屋敷は広い土間からもわかるように、農家の造りが見られますが、天井裏の小屋組や差し鴨居など町家の特徴がすでに現れているところから、町家の先駆け的な家であることがわかります。農家から町家と変わった日本の伝統的な住まいの様式が随所に現れており、今の住まいの源流を見る思いがします》(同)


向かって右下辺りに、駒つなぎが2つ見える

豊田家の前で「駒つなぎ」のことを説明していただいた(トップ写真とも)。《駒つなぎ:牛馬を繋いだ環。江戸時代、大名貸しや蔵元、掛屋などの家に取り付けてあり、借金に来た武士が馬を繋いだもので、環のうけが大きい程、身分の高い家とされていた。今井町では今西家のものが一番大きい。普通の商家では牛つなぎだけである。牛馬を繋ぐのにも今井では定めが作られた》(『江戸期の民家集落:今井寺内町/今井町町並み保存会編』)。






駒つなぎをデザイン化したもの。画像は、この日参加されたKさん(生駒市菜畑)にいただいた

駒つなぎには、低い位置のもの(人間の膝の高さくらい)と高い位置のもの(胸の高さくらい)がある。通常だと、低い位置が牛つなぎ、高い位置が馬つなぎ、と思うところだが、実は逆で「低い位置が馬つなぎ、高い位置が牛つなぎ」である。馬は首を低くするとおとなしくなる(エサ台の高さなので、おとなしくしてエサを待つ)。牛は逆で、角を突き立てて突進するとき首を低くする。この習性を利用してつなぐ位置を考えたものだというしかも通行の邪魔にならないよう、駒つなぎは道の北側にしか設置できなかったそうだ。



写真向かって右が重要文化財・今西家住宅(公開はしていない)。この住宅は《慶安3年(1650年)に建てられた城郭のような構造の民家で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八つ棟造り」と呼ばれている建物である》《現在の今井町には今西家住宅と同様に外壁を大壁で包んだ古い町並が続いているが、これは寺内町今井の町造りが完成した江戸初期から中期・末期に栄えた今井町の町並の形態が現在まで残されてきたわけである》《この古い町並の外周には環濠跡を現在に残している》(以上、Wikipedia「今西家住宅」)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85

こちらは今井町にあって貴重な和風喫茶「町家茶屋 古伊(ふるい)」。立ち寄る時間はなかったが、nakaさん&にっしゃんのブログ「奈良に住んでみました」によると《江戸時代の中期より、13代にわたって修繕を重ねながら使われてきた古民家だそうです。初代から8代目までは「古手屋(古着商)」を営まれていたそうで、その時の屋号「古手屋伊兵衛」から今の店名となったのだとか。さすがに歴史ある建物だけあって、真っ白い壁や格子窓などからは、町屋そのもののような風情が感じられます。店の外に並べられた酒の甕のようなものや、暖簾などの小道具もいいですね》。
http://small-life.com/archives/08/02/2422.php



《店内に入っても、落ち着いた雰囲気がタップリ。今井町を散策した後にこんなお店で一服できれば言うことナシですね。店内には観光情報誌なども置いてありましたので、そんなものを眺めながらのんびりするのもいいかもしれません。この日、あまりにも寒かったので、私たちは二人とも「ぜんざい(@400円)」を食べました。お値段もそこそこですし、味も悪くなかったですね。このレベルならば、今井町に来た際にはまた立ち寄ってもいいかなと思えるレベルだと思いました。場所もとても分かりやすいですので、今井町へ出かけた際にはぜひどうぞ》。


若林さん(今井町町並み保存会・副会長)。とてもパワフルで、今年69歳とは思えない

ちょうどお腹も空いてきた頃、重要文化財・旧米谷家(こめたにけ)に到着。こちらは《屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定される。また、嘉永2年(1849年)には、内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。内部は無料で一般公開されている》。「旧」がつくのは、現在ここが国有の建物となっているからである。子供さんたちが、祭り太鼓で迎えて下さった。


今井町子供太鼓の皆さんがお迎え

ここで今回のツアーの目玉「大和今井の茶粥」をいただいた。保存会の方は、わざわざこの昼食のためにカラーのリーフレットまで作って下さっていた。そこには《大和は遣唐使によって日本で最初に茶が入り、高貴な薬として利用されたのが始まりで、茶粥はその後、米食文化の中で、質素倹約の心意気もあって根づいていきました。古来からの伝統食で、特に大和では、ごく最近まで1日1膳は食していました。飽食の時代の今だからこそ、そして大和の今井でこそ見直してみたい食の1つとしてとことんこだわった形で復元しましたとある》。



リーフレットには、食材や食器の一覧も書かれている。全文を引用すると《茶葉~遣唐使によって渡来し、日本で最初に茶の木が植えられた大和高原の無農薬、自然栽培茶を使用 米~明日香村稲渕の千枚田で獲れた棚田米 水~吉野天川村洞川(どろがわ)のごろごろ水 漬物~下市町広橋の梅干し、今井町河合酒造の奈良漬 デザート~大峰山洞川の吉野葛で作った葛餅》。あと、吉野葛を使ったごま豆腐もいただいた。ごろごろ水は、大村眞司氏(保存会文化部長)がわざわざ洞川まで汲みに行って下さったそうだ。大村氏は大村酒店のご主人で、お店の外観は景観に配慮した立派な造りである(華甍近くの今井町2丁目4-18)。



《食器~赤膚焼。赤膚山元窯の登り窯で今井の駒つなぎ、軒瓦(のきがわら)を特別に意匠して制作した茶碗・皿・箸置 膳~柿渋染めランチョンマット。今井町河合酒造の柿渋、柿は大和の名産で古くから柿渋が清酒清澄剤、血圧を下げる薬、木地食器等木製品に塗布するなど、生活に取り入れられていました。ランチョンマットは『大和今井の茶粥』と和紙に墨書してその上から柿渋を塗布し、若者たちが夜なべをして裏打ちをしました 箸~吉野の割り箸(吉野杉の端材を活用している。生産は日本一) 杓(しゃく)~硬くて丈夫な栗の木を匠の手でくりぬいた一品》。すべて地産地消にこだわった、素晴らしいおもてなしである。さすが「もてなしのまちづくりモデル地区」に選ばれただけのことはある。


旧米谷家では、米田美知代さん(保存会理事)、今井慶子さん(同常任理事)
はじめ、約15人ものスタッフの方にお世話いただいた。全員写せなくて失礼!

「これはうまい。昔食べていた茶粥と全く同じ味や」という声が聞こえる。何しろ、文化財の住宅に保存されている竈(かまど)を使い、薪で炊いていただいたお粥である(文化庁許可済み)。お粥もおかずもデザート(茶碗の左上にチラリと見える)も、とても美味しかった。利休箸(両端が尖っている割り箸)と手描きの箸袋は、持って帰らせていただいた。私はこの記事を書いているうちに無性に茶粥が食べたくなり、昼食に茶粥を炊いた。炊飯器ではあるがミネラル水を使い、それに王隠堂農園(五條市西吉野町)の有機梅干と、八木小倉屋の「七福かけ」(黒ごまや黒豆など7種類をブレンドした健康ふりかけ)を添え、この日の気分を再現した(つもりになった)。
http://www.yagioguraya.co.jp/cgi-bin/yagioguraya/siteup.cgi?&category=2&page=0&view=&cart=detail&no=13



奈良テレビ放送のニュース取材も入り、昼食会は終始賑やかに進められた。食事の後は、竈(かまど)や中庭などを見学させていただいた。続きは、また明日に書かせていただくことにする。
※若林さんのホームページはこちら。この「歩こう会」のように、グループで今井を訪ねたい方は、若林さんにご相談いただきたい。
http://homepage3.nifty.com/syodou-yamakitiman/

今回参加された銀とき子さん(福井県出身。ご結婚後、奈良県在住)が一足先に「独語力。」というご自身のブログでこのツアーを紹介されているので、ぜひお読みいただきたい。銀さんはとてもきれいな方で、着物で今井町を回られ、ムードを大いに盛り上げていただいた。
※「今井町で感動のおもてなし」(独語力。)
http://cherry.blog.eonet.jp/tokiko/2009/09/post-d9a8-1.html
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これはうまい!無鉄砲つけ麺「無心」

2009年09月19日 | グルメガイド
今日(9/19)のランチに、念願の「無心」に行ってきた。いわずと知れた名店「無鉄砲」のつけ麺専門店である。これまで20人待ちの行列をずっと見てきたが、今日の午後1時過ぎに通りかかると、並んでいたのはわずか3人だったので、急いで並んだのである。このお店を当ブログで紹介したのは8/11のことだったが、今も毎日30~50人のアクセスをいただく。全くこの人気ぶりには、驚くばかりである。
※8月24日OPEN!無鉄砲のつけ麺店「無心」(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/212d0e0eb4da9b830c161e066246b33b 

食券を買って並び始めると、すぐ店員さんがメニューの確認に来られた。食券の内容と、麺が「冷やもり」(Cool)か「あつもり」(Hot)かを聞いて厨房に伝えるのだ。麺が太いのでゆで上がるのに時間がかかります、と貼り紙にあったが、この仕組みだと、座ってすぐに麺が出てくるのでとても合理的だ。



待ち時間3分以内で店内へ。座って3分程度で料理が運ばれてきた。私が選んだのは、あつもりの豚骨つけ麺(並)850円と中ライス150円で、ジャスト千円だった。つけ麺にしろラーメンにしろ、私にはスープが辛く感じられるので、どこでもたいてい「ラーメンライス」にするのである。これは関西人特有の食習慣のようであるが(ちなみに隣に座った学生風の男性も、この食べ方だった)。

まずは麺を2/3ほどスープに漬けて、ひと口。これはうまい。無鉄砲ラーメンの(濃厚で美味しい)豚骨スープを、もっと濃厚に、塩気も強くしたような具合なのだ。このダシを取るのは大変なご苦労だったろう。分厚いチャーシュー短冊も、わりとたくさん入っている。底からほんのりユズとネギが香る(ネギやユズを抜いてもらうこともできる)。麺は関西風にやや柔らかめにされているようだが、私には十分硬い。麺をドボンとつけ汁に漬けると辛いので、私はいつも2/3だけ漬けることにしている。

途中からテーブルの紅ショウガを足すと、豚の匂いがライトになって、これも良い。ピリ辛の高菜はご飯に載せてもイケる。店員さんはマメに「つけ汁が冷めましたら、温め直します」と声をかけていた(「あつもり」にすると、この手間が省ける)。



麺が終わったので、つけ汁に透明なダシを足してもらった。ダシは豚、鶏、魚のうちから選べるのである。私は迷わず「魚ダシ」を選んだが、これは正解だった。豚骨と魚介のダブルスープは、狩猟と漁労で命をつないでいたご先祖の記憶を呼び覚ますのだろうか、脳髄にジーンと染み渡る旨さである(ちなみに私は自宅でも、うまかっちゃんの粉末スープに、ジャコと鰹節でとったスープを加えて食べたりするが、こうすると味はグンと良くなる)。残ったご飯にスープを合わせていただくと、あー極楽、極楽。

「ごちそうさま」と声をかけて店を出たところで、若い女性の店員さんに呼び止められた。「味はいかがでしたか」と聞かれたので「とても美味しかったです。ブログを書いているので、今日のことも書いておきます」と言うと、思い当たることがあったのか「社長を呼んできます」とのこと。ほどなく出てこられた赤迫重之さん(有限会社無鉄砲 代表取締役)は、HPでおなじみのお顔だった。当ブログの記事もご覧になっていた。「さすがの味でした。近所に住んでいますので、また来ます」とお伝えしておいた。
http://www.muteppou.com/

それにしても、近所に良い店ができたものだ。ラーメン類は寒い季節が本番なので行列は続くだろうが、今日のようにうまく間隙を突き、時々は顔を出したいものである。皆さんも、少し時間帯をズラしてチャレンジしていただきたい。あー美味しかった、美味しかった。

※【所在地】奈良市中町323-1(ラーメン・ポパイ跡地。第二阪奈・中町インターから北へ少し)
【TEL&FAX】0742-51-7272
【営業時間】 昼の部:11:00-15:00(売切れ次第終了)夜の部:18:00-21:00(売切れ次第終了)
【定休日】月曜日(暫定)
http://r.tabelog.com/nara/A2901/A290102/29004440/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手造りハム・ソーセージ工房 ばあく

2009年09月18日 | グルメガイド
「手造りハム・ソーセージ工房 ばあく」は、金剛山麓(五條市小和町579)にある。こちらの素晴らしい商品を全国に広めていただこうと、9/7(月)、東京からのお客様をこちらに案内させていただいた。

「ばあく」のことは奈良の食文化研究会の『出会い 大和の味』(奈良新聞社刊 1890円)に詳しい。《豚の飼育25年、ハム、ソーセージづくり20年の「ばあく」の泉澤ちゑ子(いずさわ・ちえこ)さんにお話を聞く》。同研究会専務理事の木村隆志氏がこの文章を奈良新聞に発表されたのは3年前のことなので、豚は28年、ハム・ソーセージは23年ということになる。《子供の頃に食べた豚肉は、甘くて香ばしかった。脂が多かったけどプリッとしてとろけるようでおいしかった。あんな豚肉をつくってみたいとの思いで始めたのが、豚の飼育の原点である》。
http://nara-shokubunka.jp/yamato/18-02.html



《生産した豚を豚肉に処理してもらった時に自家消費ではどうしても余って困った。そこで地元の方やPTAの方などへ買い支えで協力してもらったのが“ばあく”前身の始まり。しかし当時、肉をスライスする道具がなくブロックで提供したが、ブロック肉だけでは使い勝手が分からず、冷凍庫にゴロゴロしているだけで「もういらんわ」と利用が低下した。それをきっかけにソーセージやハムづくりにチャレンジ。加工肉製造の少しの知識はあったけど最初は遊びの感覚でつくり始める。添加物は使わず塩だけで試行錯誤の繰り返しでなんとか商品にこぎつけた。これが少しずつ地域に知れるところとなり、分けて欲しいという声が広がり始めたのである》。

17人から出資者を募り、60人の顧客を開拓したが、最初は試行錯誤だったようだ。「味が落ちた」という声を受けて調べてみると、餌に3%配合している国内産小麦のヌカ(ふすま)の品質劣化だった、ということもあったそうだ。

《現状、多くの畜産農家は大型の豚で早く太らせ、早く出荷させる経済性優先の傾向にある。“ばあく”の豚は“ばあく”用に育て、少し脂身を多くして味本意のこだわり。この脂身はプリッとした蕩ける甘さ、それでいてヘルシーで本当に美味しい。味の良い“ばあく”の豚肉も市場の基準ではランク外になっている。しかし昨年からやっと“ばあく”の豚肉の味をわかっていただき、上ランクの価格で売れるようになってきている。「20年養豚を初めてやっとです。」と泉澤さんは顔をほころばせる》。



《現在の“ばあく”の豚は大ヨークシャ、ランドレース、デユロップなど(白豚)に中型バアクシャ(黒豚)をかけ合わせた豚(茶系豚)である。多くの豚の生産者は大型の大ヨークシャを飼育しているという。これは背中のロースの部分が多く取れるので経済効果が高くなる。“ばあく”の豚は中型で肉の歩留まりからは不利であるが、この種の肉はもち豚といって繊維がこまかく、粘りがあって、おいしいからこだわるのである》。

ハム・ソーセージも試行錯誤の末、現在の形になった。《すね肉をベースにウデ、モモ肉を加え塩に2週間漬け込んで熟成させることで安定した食感が得られることを発見。仕上げに燻煙での香りと色づけは、ソーセージで1時間、ハムは8時間、ベーコンでは10時間の燻製。これで2週間の賞味期限を保持。かなり四苦八苦して現在の安定した味になったという。味はやっぱり素材のよさ、食べたあとに残るのは素材である。豚肉、食塩、香辛料だけで添加物一切なしでつくったお母さんの手作りハム・ソーセージ、皆さんに是非食べていただきたい味である》。

この日はハムとソーセージを試食させていただいたが、豚本来の旨みが濃く、ジーンとくるような美味しさである。泉澤さんの一押しはベーコンだそうなので、次回は、ぜひこちらを買い求めることにしたい。これら商品は、直接電話注文して送ってもらうことができるし、「すみれ家」のHPから買うこともできる。
http://www.sunday-brunch.com/shopbrand/017/X/



ばあくの「ゲストハウス」では、食事がいただける(すべて要予約)。メニューはばあく会席2100円、ピクニック弁当1575円、ばあくコース3150円など(以前ここで黒米のキーマカレーをいただき、とても美味しかったのだが、このメニューはもうなくなっていた、残念)。

ばあくは、山麓線(県道30号線)から細い道を上がったところにある(交差点のところに看板があるが、素通りしないようご注意)。
※写真入りの地図はこちら
http://www.syokuran.com/kairoufo/mapfo/mbaaku.html
※Googleマップ
http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/29/5957548.html

ばあくのHPには《農業は『人の命』を支える大切な仕事(食料を生産する)だと自負しています。そのために小規模ですが、「食べ物リサイクル」「環境リサイクル」で、人に優しい・地球に優しい農業を続けています》とある。このような生産者の気持ちが伝わってくる美味しい豚肉である。ぜひお試しいただきたい。
http://baaku.okoshi-yasu.net/
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cu-Cal in 奈良(クーカル奈良) あるいはA級グルメの祭典

2009年09月16日 | グルメガイド
いよいよ 11/3(火・祝)~11/23(月・祝)、奈良公園周辺で「Cu-Cal in 奈良」(通称:クーカル奈良)という食の祭典が行われる。「奈良フードフェスティバル」のメイン・イベントである。

《全国の有名シェフが日替わりで登場する予約制のレストランがオープン。奈良の食材を使ったシェフ達のオリジナルメニューを美味しく召し上がって頂けます。また、予約なしでも気軽に楽しめるカジュアルレストランや、県内の野菜・果物などを販売するマルシェなども展開。県内のレストランや飲食店でも、奈良の食材を使った特別メニューを用意しています。奈良の食の秋を存分にお楽しみ下さい》(「県民だより」9月号)というものである。奈良の優れた食材を有名シェフがどのように料理されるか、とても楽しみである。



昨日になって、クーカル奈良のHPに詳細情報がアップされた。《2006年より軽井沢で4回、今年初めての山中湖で開催され、大反響を頂いている食のイベントがいよいよ奈良で開催されます。なんといっても目玉はシェフの目の前で味わえる「シェフズステージ」「シェフズダイニング」。本日9月15日より予約受付を開始します。他にもまちなかレストラン、カジュアルレストラン、マルシェ等の魅力的なイベントが満載。詳細は順次公開して参ります》。
http://www.cucal.net/2009/?area=nara&m=top


地場産野菜の数々(8/26撮影)

なお「シェフズステージ」(奈良市春日野町の「奈良公園浮雲園地」内で開催)とは《メイン会場に設置されたオープンキッチンを舞台に、関東、関西から12名の人気シェフが日替わりで見事な料理を繰り広げます。奈良県の食材をシェフ達がどんな料理に仕立て上げるのか。乞うご期待!※12時、13時半からの2ステージ。予約制》。
※予約サイトはこちら
http://www.cucal.net/2009/?area=nara&m=ct&cevent=narastage

「シェフズダイニング」(奈良市春日野町の「夢しるべ風しるべ」のイタリア料理店「リストランテ イ・ルンガ」内で開催)とは《古い武家屋敷を改造したレストラン会場では、東西の料理人が日替わりで登場。奈良の食材を使った特別コース料理を堪能して頂きます。普段予約も取りにくい超人気店の味を、ここ奈良で味わえるチャンスです。※ランチ/ディナーとも席数限定の完全予約制》。
※予約サイトはこちら
http://www.cucal.net/2009/?area=nara&m=ct&cevent=naradining


「シェフズダイニング」の会場(「リストランテ イ・ルンガ」が入られる前に撮影したもの)

予約はすでに昨日から始まっている。シェフズステージ(ランチ)で、5千円程度、シェフズダイニング(ランチおよびディナー)で1万円~2万円程度と高めだが、日本を代表する超人気店・超一流シェフの味が奈良で楽しめるとあれば、納得の価格である。

完全予約制で席数が限られていて、すぐ満席になる可能性があるので、予約はお早めに。同僚から「どこがお薦め?」と聞かれたが「僕はB級グルメ専門なので、他の人に聞いて」と答えておいた。全く、目移りする超有名店揃いである。関係者によれば「普段はなかなか予約が取れない超一流店ばかり。お好みのジャンルとスケジュールに合わせて、早めに予約されてはいかが?」とのことだった。

(11/13 追記)旧知の料理研究家・白水智子さんがクーカル奈良に行かれ、その様子をご自分のブログにアップされているので、ぜひ参考にしていただきたい。
※Fujiya1935
http://blog.goo.ne.jp/ozen1_2006/e/e61055ffe65fc68bd4899bb1b05444dc
※神戸北野ホテル
http://blog.goo.ne.jp/ozen1_2006/e/e3beb15e5d135e8a6d537cbfba7e5a83
※木乃婦
http://blog.goo.ne.jp/ozen1_2006/e/28f5326368a1915b0a5c307d9891c105


昨年7/27、大阪市内ホテルで撮影

クーカル奈良の期間中、県内のレストランでも期間限定のメニューが提供される。「naranto(ナラント)」秋号には、大和郡山市のLe BENKEI(ル・ベンケイ)、近鉄奈良駅前のLe CLAIR(ル・クレール)、生駒市のAQUA PIANO(アクアピアーノ)、富雄駅前のakordu(レストランテ アコルドゥ)、ならまちのBon appetit めしあがれ(ボナペティめしあがれ)の名前が上がっていた。

クーカル奈良は今年から3年間、開催される予定である。奈良には美味しい食材が多いのにあまり知られていなくて残念だ、と思っていた私にとって、このイベントはまさに福音である。ぜひ多くの方に来ていただいて「奈良にうまいものあり」を実感していただきたいし、奈良の食材を全国でお使いいただきたいものだ。
※トップ写真は、「シェフズステージ」が開催される奈良公園浮雲園地。08.6.24撮影
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「奈良を大いに学ぶ」講義録(5)平城京PARTⅠ.

2009年09月15日 | 奈良にこだわる
9/2(水)と9/4(金)は、奈良大学文学部史学科教授・寺崎保広氏による「平城京とその時代」であった。詳しい資料に基づき、広範な内容を丁寧にご説明いただいたので、概要を以下に記す。メモが追いつかなかったところは、Wikipediaなどで補足した。

Ⅰ.奈良時代の歴史…天皇の継承を中心に
1.元明天皇と平城遷都
(1)元明即位まで…女帝の役割
奈良時代の歴史は、ほぼこの時代をカバーする正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』により知ることができる、と寺崎氏は言う。『続日本紀』についてネットで検索してみると、ある個人HPに《続日本紀の記事は、基本的に信頼できるという認識が研究者の間で一般化しているように思われる。その様子は、古事記や日本書紀に向けられる懐疑的な態度とは対照的であり、あまりの落差に違和感を覚える人もいるほどである》。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~menme/mmj05.html

《奈良朝にもなれば、多数の木簡や正倉院文書なども残されており、それらによって断片的な史実を確認できることは確かである。しかし、続日本紀以外に言及のない記述も、決して少なくないのである。当時の歴史を物語るためには、このような続日本紀のみが伝える記事を利用せざるを得ないのが現状であろう。そして、その記事は、基本的に信頼されているのである》等々とある。


ほぼ覆い屋が取れた大極殿(9/17撮影)。トップ写真は6/24に撮影したもの

701年、「大宝」という年号ができた。これが日本における年号(元号)の始まりである。《大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、年号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年‐650年)、白雉(650年‐654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、『大宝』の改元により年号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在にいたるまで続いている》(Wikipedia「大宝」)。

この時代には多くの女帝が即位した(推古天皇は39歳で即位。日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主)。順に挙げると

1.推古天皇(第33代、在位592年~628年)(第29代欽明天皇の皇女、第30代敏達天皇の皇后)
2.皇極天皇(第35代、在位642年~645年)(敏達天皇の男系の曾孫、第34代舒明天皇の皇后)
3.斉明天皇(第37代、在位655年~661年)(皇極天皇の重祚)
4.持統天皇(第41代、在位686年~697年)(第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后)
5.元明天皇(第43代、在位707年~715年)(天智天皇の皇女、皇太子草壁皇子(天武天皇皇子)の妃)
6.元正天皇(第44代、在位715年~724年)(草壁皇子の娘、生涯独身)
7.孝謙天皇(第46代、在位749年~758年)(第45代聖武天皇の皇女、生涯独身)
8.称徳天皇(第48代、在位764年~770年)(孝謙天皇の重祚)
(参考)
9.明正天皇(第109代、在位1629年~1643年)(第108代後水尾天皇の皇女、生涯独身)。
10.後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年)(第115代桜町天皇の皇女、生涯独身)

《一般的には記紀の記述を尊重し、過去に存在した女性天皇は全員が男系の女性天皇であり、また女性天皇が皇族男子以外と結婚して誕生した子が践祚したことは一度としてないとされている。歴史学界では、女性天皇は男系男子天皇と男系男子天皇の間をつなぐ「女帝中継ぎ論」が通説である》(Wikipedia「女性天皇」)。

元明(げんめい)天皇は《奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝》《天智天皇の第四皇女で、鸕野讚良(うののさらら)皇女(持統天皇)は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である》(Wikipedia「元明天皇」)。

元明天皇の娘が元正(げんしょう)天皇である。元正天皇の《父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)》《日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある(ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、男系の血統は維持されている)》《弟・文武天皇の子である首(おびと)皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、母・元明天皇から譲位を受け即位》(Wikipedia「元正天皇」)。



(2)藤原不比等…黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)
「黒作懸佩刀」(現物はすでに正倉院から失われている)についての記述が「東大寺献物帳」に載っている。この小太刀は、もとは草壁皇子の持ち物だったが、亡くなる前に藤原不比等に下賜し、不比等はそれを文武天皇の即位時に献上した。さらに文武天皇が25歳で亡くなる時、再び不比等に与え、不比等が死去した時に聖武天皇に奉られ、正倉院御物となった。父の形見を子が受け継ぎ、それを更に孫が受け継いだ(草壁→文武→聖武)ということであるが、その間を外戚の大臣(不比等)が仲介しているというところに、不比等の影響力が感じられ、興味深い。

2.天平の20年
(1)聖武天皇の即位
聖武天皇は《文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子》《文武天皇の第一皇子として生まれたが7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥りその後は長く皇子に会う事はなかった(物心がついた天皇が病気が平癒した宮子と対面したのは天皇が37歳のときのことであった)。このため、文武天皇の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年(714年)には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも、病弱であったことと皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ文武天皇の妹である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳の時に元正天皇より皇位を譲られて即位することになる》(Wikipedia「聖武天皇」)。

(2)長屋王の変と光明皇后実現
《聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた》(同)。長屋王は遵法精神に富んだ人物だったという。

《ところが天平元年(729年)に長屋王の変が起き長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている》(同)。

(3)天平9年…天然痘の猛威
《しかし天平9年(737年)に疫病(天然痘)が流行して藤原四兄弟をはじめとして政府高官の殆どが死亡するという惨事に見舞われて、急遽長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。更に天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている》(同)。



(4)聖武彷徨から東大寺造営へ
《天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。また度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切っていた。天平16年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため新たに墾田永年私財法を制定した。これにより、律令制の根幹の一部が崩れた。天平17年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺だという説がある》(同)。

3.聖武天皇の後継者問題
(1)異例の女性皇太子…皇嗣定まらず
《天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)に東大寺大仏開眼供養を行う》《天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御》(同)。

(2)聖武の遺言と藤原仲麻呂
孝謙天皇の《父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である》《淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇。この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいない》(Wikipedia「孝謙天皇」)。

《聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子もなかった。将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設。長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大した。これに反抗した橘奈良麻呂は討たれる》(同)。



(3)仲麻呂の乱から道鏡擁立
《天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して淳仁天皇となる。孝謙上皇は代始改元を拒み、舎人親王(淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するなど淳仁天皇との軋轢を繰り返した。引き続き権力を握った仲麻呂(恵美押勝に改名)は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた》(同)。

《天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した》(同)。

《光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた》(同)。

770年、称徳天皇は死去。《称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された》(同)。

(4)平安時代へ…天武皇統の断絶
桓武天皇は《白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年(737年)に産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。皇后藤原乙牟漏により安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。初名は山部王。父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた》(同)。

《しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸(おさべ)親王とその母であった皇后井上(いがみ)内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)1月2日に立太子。天応元年(781年)4月15日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った》(同)。桓武天皇(天智系)は、長く天武系の天皇が支配していた平城京を嫌ったとも言われている。

《はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した》《最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった》(同)。

なお講義には出てこなかったが《2001年(平成13年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において明仁は、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ共催に関するコメントの中で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行った。この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかったものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった》(同)。

以上、天皇の継承を軸に、奈良時代の歴史を詳しく、また分かりやすく講義していただいた。とりわけ日本の女帝10人(重祚を含む)のうち8人までがこの時代の天皇だったことには今更ながら驚かされる。

PARTⅡ.では、この時代の宮や人々の暮らし、平安京へ遷都した後の奈良が登場する。お楽しみに。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする