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熊野那智大社、主祭神は熊野夫須美大神(イザナミノミコト)/熊野霊場をゆく(4)

2022年06月08日 | 記紀・万葉
熊野三山の最後は、熊野那智大社だった(2022.5.13参拝)。那智の滝がご神体と思っていたが、滝は飛瀧(ひろう)神社(熊野那智大社の摂社)のご神体だった。同大社の公式HPには、
※トップ写真は、熊野那智大社の拝殿


飛瀧神社の鳥居ごしに那智の滝を拝む

(御由緒1.)熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社です。古来当社はご祭神「熊野夫須美(ふすみ) 大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。



那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。



(御由緒2.)当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)の御東征を起源としています。西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴神(おおなむちのかみ)の現れたる御神体としてお祀りされました。

神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により、無事大和の橿原の地へお入りになられ、紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて休んでいるといわれています。

その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御瀧本にお祀りしていましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹へ改めて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。これが熊野那智大社の始まりとされています。那智御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀り申し上げています。

熊野那智大社主祭神の熊野夫須美大神は、イザナミノミコトともいわれる。女神を祀る神社なので、社殿もやさしい感じに建てられている。



こちらの社殿の裏手に、青岸渡寺(西国三十三所観音霊場 第一番札所)がある。那智勝浦観光サイトによると、

西国三十三所観音霊場の第一番札所である那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)は、熊野那智大社とともに熊野信仰の中心地として厚い信仰を集めています。仁徳天皇の時代(313~399)にインドから那智に渡来した裸形上人(らぎょうしょうにん)が、那智の滝で観世音菩薩を感じ得て、現在の場所に庵を造ったのが始まりとされています。御本尊は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんせおんぼさつ)。


雨脚が激しくなって、青岸渡寺の写真は撮れなかった。この2枚は那智勝浦観光サイトから拝借

現在の本堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しています。また、本堂内にある鰐口(わにぐち)は、秀吉が寄進したもので、秀吉の願文が刻まれています。明治の神仏分離まで、隣接する熊野那智大社と一体をなし、那智の滝を中心にした神仏習合の名残を見る事ができます。本堂後方には、那智の滝との調和が美しい朱色の三重の塔が立っており、フォトスポットとなっています。



有名な「那智の火祭り」(那智の扇祭り)、今年(2022.7.13~14)はやや参加者数を制限しつつ催行されるそうで、詳しくはこちらに出ている。

雨に阻まれながらも、これで熊野三山はすべてお参りした。最後に新宮駅前の「徐福公園」にお参りしたので、明日(6/9)にでも紹介することにしたい。

※6/10追記 奈良まほろばソムリエの会会員で当ブログご愛読者の徳南毅楽さんが、ご自作の漢詩と水墨画を送って下さいましたので、以下に貼っておきます。なお「青岸渡寺」の自画自賛詩は、6/22(水)~28(火)、奈良県文化会館で開催される「奈良墨游水墨画展」に出品されます。 
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