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田中利典師の「ルネサンス!山の宗教(4)自然と『共生』は『共死』伴う。山の神に祈らずして保全はない」(産経新聞)

2023年09月21日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、産経新聞夕刊「新関西笑談」に掲載された「ルネサンス!山の宗教(4)」(師のブログ 2013.8.18 付に全編掲載されたものを分割)である。この年、師は「紀伊半島の美しい森林づくり協議会」理事長に就任されたので、森林の話が登場する。
※トップ写真は、大峯山・山上ヶ岳で師が撮られたご来光(9/15 林南院開創50周年記念登拝)

印象的だったのが、「植林の山に神はいない」という師の言葉だった。人工林ばかりの山になり、山の生態系が破壊された。昨年は放置ゴミ(不法投棄)を求めて、熊が出没したというニュースが流れていた。広葉樹が減ったので、餌となるドングリも減っているのだ。なお私が紹介された「新関西笑談(4)」は、「細部まで凝ったツアーは大好評」という話だった。では師の全文を紹介する。

ルネサンス!山の宗教(4)2010.10.28
自然と「共生」は「共死」伴う 山の神に祈らずして保全はない。
金峯山寺執行長 田中利典さん 


--執行長は吉野・大峰を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産登録(平成16年)へと導かれました。どのような思いがあったのですか
田中 山の聖地性と自然の豊かさを守りたいがために登録の運動を進めました。しかし、登録後、山に入ると、今まで見られなかったようなところでも多くの登山者に出会うようになった。山を守りたいという一心で登録に導いたのに、それによって反対に自然が荒らさるのではないかという危惧(きぐ)が生まれました。

--少し後悔されたのですか
田中 山が荒れることを心配しながらその年は歩き、最後に拝み返しという場所で、山並みに向かって勤行したときのことです。「お前が手を挙げて世界遺産登録されたことによって多くの人が入山し自然が荒れたとしても、それを自分のせいとして考えるのは大きな思い上がりだ。人間は自然の一部で、荒れるというのなら自然は人間とともに死んでやる」。そんなことを大峰の神々に言われた気がしたのです。

--山伏らしい神秘的な体験のようにも聞こえますが、どういう意味なのでしょう
田中 人間は「自然との共生」と簡単に言うけれど、「共生」は「共死」を伴うのです。一緒に死ぬということを前提に考えないと、本当の共生はできない。だからこそ自然を守っていかないといけないと強く思いました。

--各方面に引っ張りだこの中、8月には「紀伊半島の美しい森林づくり協議会」の理事長にも就任されました
田中 山伏が声をあげたからって森林の間伐は進むとは思わないが、共生は共死を伴うという危機感があります。行政だけでなく民間の動きも大事。山が荒れると川が荒れ国土が荒れることを考えると、国だけに任せておけません。間伐は行われるが、間伐材を山から出してそれを生かす循環システムはまだ構築されていない。間伐材で紙や燃料を作るなどのシステムを成功させ吉野から全国に広げたいのです。

--間伐されないままの暗い森も多いようですね
田中 間伐も大切ですが、根底にはこんなことがあります。山伏は山を曼荼羅(まんだら)世界として崇(あが)め、かつて一般の人々も山に聖なるものを見いだす感覚がありました。それが、山は商売道具とされ、目に余る勢いで植林された。そんな経済、物質至上主義が山を荒らした。昔は山の神に祈りながら作業をしたもので、こういう精神なしでは本当の山の保全はありません。

--本来の山はどんな姿だったのでしょう
田中 植林の山に神はいないと思います。自然林に風が渡り、日が差し、鳥が鳴き、下草が生えているところにこそ神々しさを感じる。日本人はそういう感覚を必ず持っている。吉野の桜も枯れている木が多く、他から桜を持ってきて植えたのが一因らしい。これは桜を神木としてでなく物として考えたため。現代社会は神仏よりも金が中心になってしまったのです。

--山の再生にはやはり野性的な山伏の力が必要ですね
田中 近代の災いに気づいて山を再生させ、美しい国土を取り戻すことを提唱するのが、現代の山伏の役目だと思います。(聞き手 岩口利一)
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