tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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記紀の建国伝承と吉野・川上

2011年03月15日 | 記紀・万葉
3/13(日)「今、記紀万葉が語ること」と題するフォーラムが開かれた。毎日新聞奈良版(3/14付)によると《伝え合う「古代人の心」 記紀・万葉フォーラム プレ古事記1300年 800人参加 専門家そろい討論》《橿原市北八木町の県橿原文化会館で13日、古事記完成1300年記念プレ・イヤーフォーラム「今、記紀万葉が語ること」(主催・奈良県、後援・毎日新聞社)が開催された。約800人が参加し、専門家の講演やパネルディスカッション、島根県の石見神楽の披露を楽しんだ》。

《古事記は来年、編さんから1300年で、県は日本書紀完成1300年の20年まで「記紀・万葉プロジェクト」として、イベントや記紀にちなんだ観光ルートの開発も進める。フォーラムはその先駆けで、荒井正吾知事は「何年も楽しんでもらえるようにしていきたい。今日がそのキックオフです」とあいさつした》。

《中西進・県立万葉文化館長と千田稔・県立図書情報館長が基調講演。中西館長は「古事記と日本書紀、万葉集は関連し合っており、古代人の心のドラマをそれぞれが伝えようとしている」と話した。千田館長は「戦前は神話を歴史であるかのように扱う間違いを犯した。しかし、古事記は日本最初の文学。神話は日本独自の物語ではなく、アジアの物語が交じり合ったもの。古事記を読むことは広い国際社会に出て行くこと」と語った》。

古事記と日本書紀 (図解雑学)
武光誠著
ナツメ社

《パネルディスカッションでは、菅谷文則・県立橿原考古学研究所長も加わり「記紀・万葉集と奈良」の題で意見を交わした。菅谷所長は「記紀には女性に関する神話がたくさん出てくる。女性を重要視していることも、研究の大きなポイント」と指摘。中西館長は「香久山についてもう少し評価しなければならない。古来、国見の山とされており、新しい奈良の国興(くにおこ)しで香久山は大きな役割を果たすと思う」と話した》。

さらに奈良新聞(3/14付)には《千田館長は主に奈良市が注目を浴びた昨年の平城遷都1300年祭に触れながら「記紀の舞台は中和から南和にかけてが舞台であり、いよいよ中南和がクローズアップされる。中南和は大極殿のような目立つものが何もないため、記紀万葉の場所としてイメージを膨らませることが大事。何もないことをメリットに転換することで日本の観光スタイルが1つのステップを迎える」と語った》。

朝日新聞奈良版(3/14付)は、千田氏の「日本の神話は、東アジアのグローバル化の流れの中で生まれたもの」という話を紹介した、また来場者のコメントとして、橿原市の《亀田幸英さん(61)は「講演を聴き、今まで読んだことのなかった古事記の面白さを知った。奈良はまだまだ奥深い」と話した》。

中西進氏、千田稔氏に菅谷文則氏とは、超豪華キャストである。雑用がなければ、ぜひとも駆けつけたいところだった。千田氏の「日本の神話は、東アジアのグローバル化の流れの中で生まれた」「古事記を読むことは広い国際社会に出て行くこと」というお話は、意表を突いた着眼点だった。これは勉強になる。

図解古事記・日本書紀 (歴史がおもしろいシリーズ!)
多田元監修
西東社

古事記の伝承については、以前、菅谷文則氏の講演を拝聴したことがある。「記紀の建国伝承と吉野・川上」という演題で、森と水の源流館が主催する「朱雀(南)に学ぶ自然との共生」というシンポジウムの基調講演だった(10.8.25)。当日の講演録を同館から頂戴したので、引用させていただく。

《「吉野は日本が変革するとき、動乱するときは必ずちょこっと目立ったりするのだ」と、吉野の人がよく言っておられました。最初は、日本建国の時に、神武天皇が吉野で力をつけた》《次に壬申の乱(672)というものがありましたが、やはり吉野か始まった。3つ目は、鎌倉時代になるときに、静御前や義経が、吉野の、今は宇陀市大宇陀区の竜門の郷に逃げたということです。それから後醍醐天皇が南北朝の首都を吉野に置いたことです》《それから幕末には天誅組が出てきました。そして最後に、飲み屋や証券会社でよく流行った「吉野ダラー」という単語》。


写真はいずれも、シンポジウム「朱雀(南)に学ぶ自然との共生」の基調講演の模様(10.8.25撮影)

神武天皇は、宮崎県の日向(ひゅうが)または大分・福岡の日向(ひむかい)の出身。瀬戸内海を渡って一旦は大阪に入ったが戦争になり、退却。和歌山市を経て新宮市のあたりに上陸。そこから八咫烏(やたがらす)の案内で東吉野村のあたりにたどり着いた。そのルートが2本想定される。それは十津川筋ルート(新宮~十津川~大塔~五条~吉野川を遡って東吉野)と、川上筋ルート(新宮~下北山~上北山~川上~東吉野)である。

《神武天皇が熊野からこちらに来た伝説には何か「科学的根拠」はないのか、「歴史的根拠」はないのか、と考えました。熊野に上陸して吉野まで来るというのは、現代風にみたら、まさに役行者の修行のコースです。修験道は今日の天台宗の思想でいきますと、熊野の本宮大社を1番にしまして75番を数えて、吉野川の柳の渡し、今の上市のあたりまでを靡(なびき)と呼んでいます。真言宗は75番から南へ行く。だから、吉野山に登って大峰山へ行って弥山に行く。この75靡ルートはちょうど神武天皇のルートなのであります》。

神武天皇は、谷筋(沢筋)ではなく、より安全な尾根筋(稜線)を歩いたと考えられる。《本宮大社のあたりから山に入って、どちらにも争われる上北山村、下北山村の北山筋、十津川の間。これはちょうど村境なのですが、山の頂上にある。川上村のほうへ来まして、現在の大峰山を過ぎて川上村高原(たかはら)くらいから下りてきて、白屋のほうへ渡ったのではないかなと思うのです》。



神武天皇は《現在の東吉野村と、現在の宇陀市以外、どこでも戦争をしていないのです。それでなぜか日本国家を統治されたようでありまして、最後は橿原へ来て、即位したとしています》。橿原へ来る途中《三輪神社のふもとにべっぴんさんがいたので、あれを嫁さんにしようと思って嫁さんにした。それでめでたし、めでたし、と日本国をつくったというのが日本建国神話なのです。その日本建国神話の一番大事な土地は吉野と宇陀なのです》。

《この神話が、熊野と吉野を結んでいるという、実際の交通路があったということだと思うのです》《吉野の人の記憶に残るところがモデルになって神武天皇の道が出てきた。そういうのがあったという記憶がありまして、南から北へ歩いていくと十津川に出る。川上村の南は上北山。上北山の南は下北山。その南はもう和歌山に入る》。

《紀ノ川を東に遡ると吉野川になります。今度は吉野川の東には、東吉野村の高見山、高見峠がある。さらに東には櫛田川が流れて、もっと東に伊勢神宮が位置しています。だから紀伊半島の右と左、西と東に、古代人たちはポイントがあると考えていたわけです。これが紀伊半島の東西線。南北線はいま申しましたように、本宮からずっと修験の道であります。だからちょうど十字固めのような宗教の伝説があって、それが『日本書紀』やその他に反映している》。



《ともかく、日本国家の起源説話は紀伊半島の南北を貫く線と東西に貫く線。それが交わるところがどうも奈良県の川上村か吉野町のそのややこしい、吉野か川上かといっているあたり、宮滝あたりになるわけであります。まさに神武天皇、壬申の乱の発祥の地ぐらいが南北と東西。その南北を後にうまく宗教として活用したのが、私がやっております修験道であります》。

《日本の建国神話は、決してこの大和盆地ではなく、紀伊半島の南部を中心にできあがっております。みなさんもぜひ、川上村へ行かれたらいいと思います。そこで温泉にも入っていただければいいと思います。本日は、どうもご清聴有難うございました》。

ちゃんと最後には、川上村のPRまで入れられた。ちなみに今「ホテル杉の湯」(川上村迫695)は工事中で、11年(23年)4月5日には、リニューアルオープンする予定である。ちゃんと「2345」と数を合わせているところが面白い。4/5以降は、ぜひお訪ねいただきたい。

「県は“古事記1300年”というけど、何だか難しいなぁ」と思っていたが、具体的な地名が出てくるとイメージがスッと沸いてくる。神武東征説話の熊野から吉野までというルートに根拠があった(修験道の道だった)とは、初めて聞いたが面白い話だった。それで興味を覚え、上記2冊の入門書を本屋で買い求めた。いずれも読みやすそうな本なので、早いうちに読み終えることにしたい。

これからも県下では、このテーマの講演会やイベントが続々と行われるようだ。ぜひこまめに足を運び、来年の「古事記編纂1300年」に備えたいものだ。

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