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波宝神社(五條市西吉野町)の日食壁画(産経新聞「なら再発見」第26回)

2013年04月27日 | なら再発見(産経新聞)
こんな壁画があるとは、ついぞ知らなかった。奈良は奥が深い。今朝(4/27付)の産経新聞「なら再発見」の見出しは「五條・西吉野町 波宝(はほう)神社の日食壁画」、執筆されたのはNPO法人奈良まほろばソムリエの会の藤村清彦さん(大阪市在住)である。以下、全文を紹介する。

 昨年5月は金環日食で日本中が沸いたが、五條市西吉野町夜中(よなか)に、日食伝承と、それを表現した珍しい壁画があるのをご存じだろうか。銀峯山(ぎんぷせん 614㍍)の頂上にまつられ、「岳(だけ)さん」として親しまれる波宝(はほう)神社本殿の壁画だ。
 南西に面した春日造の二棟の本殿は、板壁でつながっており、正面からはひとつの建物に見える。壁画は正面の壁に描かれている。
 金泥で輝く太陽が表現され、太陽に重ねて銀泥で月も描かれているが、相当はがれている。太陽の上には、祭神である住吉三神を表すとされる3羽の鶴が舞う。



 壁画は、神功(じんぐう)皇后(一説には弘法大師とも)がこの地を訪れたとき、真昼に空が暗くなり、地の神に祈ったところ晴れたので、地名が「夜中」になったとの伝承に基づく。
 かつては神宮寺があり、幕末に建物が天誅(てんちゅう)組の本陣に使われ、明治元年の神仏分離以降は小学校の校舎に転用されたという。
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 山腹の湯塩で古民家を活用した「旬の野菜レストラン 農悠舎王隠堂(のうゆうしゃおういんどう)」を切り盛りする王隠堂裕子さんに、地場の食材を使ったおいしい料理をいただきながら、土地の歴史を尋ねた。


丹生川沿いにのどかな集落がみえる五條市西吉野町周辺

 古代には栃原(とちはら)岳から金、銀峯山から銀、櫃(ひつぎ)ケ岳から銅が、多く採れたそうで、吉野三霊峰というそうだ。
 「至る所で水銀も採れたようで、湯塩や湯川、湯谷の地名の『湯』は、鉱物を表す言葉と、舅(しゅうと)からよく聞かされました」と嫁いだ頃を振り返る。
 北の京都御所と南の熊野本宮を結ぶ線上にあり、東の吉野山と西の高野山を結ぶ山岳信仰の道も交差し、交通の要衝だった。
 王隠堂さんの家は、天台系修験道の聖護院一行の宿でもあった。
 「以前は尾根伝いに街道があり、要所を最短距離で結んでいました。姑(しゅうとめ)は実家のある吉野山蔵王堂へ尾根道を通って4時間で帰ったといいます」と話してくれた。
 周辺の歴史は鉱山と山岳信仰(修験道)の結びつきを抜きには語れないが、鉱物採掘活動の実態や、関わったとされる修験者の役割は謎に包まれている。
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 すぐ隣の石窯焼きピザの美味しい「cafe&農家民宿 こもれび」は、対照的に南欧風建築だ。金剛山や葛城山、生駒山まで見渡せ、雄大な眺望が満喫できる。深い歴史を秘めた柿と梅の里、西吉野の新たな動きから目が離せない。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)


 実録 天誅組の変
 舟久保藍
 淡交社

日食を象徴する「夜中」という地名が残っているのも、興味深いことだ。神宮寺には、あの天誅組が本陣を構えたとは…。舟久保藍著『実録 天誅組の変』(淡交社刊)によると、中山忠光や伴林光平はこの本陣に詰め、砦は樺ノ木(かばのき)峠と広橋峠に構えた、と出ている。

農悠舎王隠堂には、以前お邪魔し、当ブログで王隠堂邸のこだわり野菜料理として紹介したことがある。とれたての有機野菜や自家製漬物などを配したランチには、舌鼓を打った。建物も、すごい。地名の「湯塩」が鉱物を表す言葉とは、初めて知った。


「旬の野菜レストラン 農悠舎王隠堂」のランチ(2009年8月撮影)

神功皇后伝説、修験道に鉱山、そこに天誅組と奥深い歴史が投影し、しかも美味しい食事が味わえ、宿泊もできる西吉野に、ぜひお訪ねいただきたい。藤村さん、目からウロコのお話の数々、有難うございました!
※2015.2.12追記 この日食壁画発見の経緯は、HP「いこまかんなびの杜」に「西吉野の波宝神社と日食画」として掲載されています。ぜひ、ご一読ください。

コメント (10)
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