tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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三里古墳

2008年12月25日 | 奈良検定
三里(みさと)古墳(平群町三里 近鉄平群駅から北東約300m)は、平群谷にある古墳である。奈良検定公式テキスト(P106)によると

《直径20メートルほどの円墳もしくは全長35メートルほどの前方後円墳》《玄室の奥壁下に石棚と呼ばれる板石による特殊施設が確認された》《石棚の類例は奈良県下では岡峯古墳と槇ヶ峯古墳など少なく、和歌山県紀ノ川流域に多く見られることから、紀氏との関係が指摘されている》。

この「石棚」が特徴なのだが、テキストには写真がないので、どういうものか想像できない。行ってみると、こういう格好の棚だった(写真は、いずれも07.12.10撮影)。



六興出版の『大和の古墳を語る』によれば《なぜ、このようなものが付けられるようになったのか疑問が多いが、遺体を埋葬した時に副葬品を置いた例がよく報告されている》(伊藤勇輔氏)ということだ。こういう一文が、公式テキストに欠けているのである。


矢田丘陵を望む


生駒山を望む

平群谷は、矢田丘陵と生駒山系に挟まれていて、三里古墳の近くには、長屋王墓と
后の吉備内親王墓がある。ご存じ長屋王は、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂 「女房の馬にムチまろ」と覚える)に謀反の罪を着せられ、自殺に追い込まれた。
※長屋王墓(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/22ab88737ac4e676381741f025a96edc


長屋王墓


吉備内親王墓

三里古墳の周辺はよく整備されているが『大和の古墳を語る』によると、《調査は橿原考古学研究所で行ったのだが、三里古墳の確認や発掘作業、保存整備に関して、「平群史跡を守る会」の活躍があったことを書いておく必要があろう。地域に密着して古文化を訪ね機関誌を発行するなどユニークな活動は特筆に値する》とある。

会のHPを見ると、なんと1970(昭和45)年から活動を開始されていて、《昭和50年(1975) 三里古墳の発掘調査に参加・協力》という記述もある。烏土塚(うどづか)古墳(平群谷で最大の前方後円墳 石棺東側面の「斜格子文の線刻」で著名)などの整備もされている。こういう地元の方の地道な活動が、史跡を支えているのである。誠に有り難いことだ。
※平群史跡を守る会オフィシャルサイト
http://www.m-network.com/heguri/index.html
コメント (5)
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