tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

大和の地名(5)御所、巨勢、古瀬

2008年12月14日 | 奈良にこだわる
「大和の地名」シリーズ第5弾は、御所市(ごせし)の「御所」と、巨勢寺(こせでら 御所市古瀬)の「巨勢」、巨勢寺(塔跡)所在地の「古瀬(こせ)」を取り上げる。11/23に巨勢寺跡を訪ねた際の画像をご覧いただきながら、話を進めたい。

東京堂出版の『奈良の地名由来辞典』を引くと、「御所」の項には《葛城川の川瀬(ごせ)に立地する。五所とも書く》《コセは曽我川流域の古瀬(巨勢)と同義の地名で、「川」「堤」の用字はこれを避け、「川内」が「高知」となるように嘉字を用いたか》。「巨勢山」の項には《コセの好字地名である》《巨勢は曽我川(発源地)の流域を意味する形状地名》とある。


吉野口駅(近鉄・JR)と葛駅(近鉄)の中間あたりの道路に、この標識がある



つまり御所も巨勢も古瀬も(葛城川と曽我川の違いはあるが)、もとはコセ(川瀬)で、川や瀬の字を避けて良い字(=嘉字・好字・佳字)を宛てたため、3種類の字に分かれたのである。そういえば私の祖母の旧姓は「御勢」(ごせ 五條市本町)だが、確かに吉野川(紀ノ川)の川瀬に面している。これも関係あるだろう。

以前、県外出身の知人が「京都だと御所(ごしょ)なのに、何で奈良は御所(ごせ)と読むのか。奈良の地名は難しい」と言っていたが、御所市とPalaceは、何の関係もないのだ。



さて巨勢寺跡だが、細い道を少し歩くとご覧の大日堂が見えてくる。背後の山が巨勢山だろうか。奈良検定テキスト(P327)には、《巨勢山は巨勢の峡谷の東西の山地をさすものであろうが、吉野口駅西北の式内社巨勢山口神社のある標高296メートルの山を、いま巨勢山と称している》とある。



さらにテキストP199~200には《巨勢寺は古代豪族巨勢氏の氏寺であったと伝えている》《現地には、塔の心礎とそのかたわらに建つ大日堂という小さな堂に転用された礎石がある》《寺域は東西約100メートル、南北約200メートルと大きな規模をもち、伽藍配置は金堂と塔が横に並ぶ法起寺式である》。


ここ(西側の入口)から大日堂に向かう



冒頭の写真に出てくる石碑を裏側(東側)から見ると、こういう景色になる。吉野口駅から近鉄とJRが北東へ向かう線路に挟まれた三角地帯に、巨勢寺跡があるのだ。何度もこの線には乗っているのだが、これまで全く気づかなかった。



大日堂の前にはご覧の塔心礎がある。テキストP200には《いま残っている塔の心礎には、径89センチ、深さ12センチの円柱孔があり、その中央に径18.8センチ、深さ1.2センチ、さらにこの中に仏舎利を納めるための径13センチ、深さ5.4センチの小孔がある。また、円柱孔には浅い二重の同心円の溝があり、外側に排水するための水抜き孔をきざんでいて、他に例を見ない様式である。巨勢寺塔跡として国の史跡に指定されている》。考古学者が書いたのだろうか、異常に詳しい記述である。写真を見ずにこの形状を推測するのは、至難の業である。



大日堂のかたわらには、ご覧の石仏が並べられ、お花やロウソクが供えられている。ここにだけ、かろうじて人の気配が残っていた。

以前、御所市から通っている男に「巨勢寺って、どの辺にあるの?」と聞いたところ、「えっ、そんなお寺、御所市にありましたっけ」という心許ない返事だった。とはいえ私にしても、万葉集の

巨勢山(こせやま)の つらつら椿つらつらに 見つつ偲はな巨勢の春野を

という坂門人足(さかとのひとたり)の歌と、この歌のモトになった

川上のつらつら椿つらつらに 見れども飽かず巨勢(こせ)の春野は

という春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の歌を知っている程度だったので、偉そうなことはいえない(テキストP327)。しかもこんな小さなお堂だけで、かつての大寺を想像するのは難しいだろう。

国の史跡に指定されてはいるものの、旧境内地を線路や道路が横切り、古(いにしえ)の面影をしのぶ縁(よすが)もないのは、さびしい限りだ。もっと多くの方がここにお参りして、万葉の故地を盛り立てていただきたいと思う。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする