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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メモリアル・ピカソ(3)

2007年03月08日 | 美術随想
『貧しき食事』


 肘をつく姿といえば、どうしてもこの絵が思い浮かぶ。『海辺の母子像』『肘をつく女』の2年後に制作された、『貧しき食事』というエッチングである。生涯にわたっておびただしい版画を作りつづけたピカソだが、これはその中でもごく初期のもので、なおかつ代表作のひとつだ。

 子供のときに観たピカソ展にも、この版画は出品されていた。キュビスム風のゆがんだ人物像や、落書きのような自由奔放な油彩画を観たあとで、果たしてこれが同じ画家のものであろうかなどと思いながら、ぼくはこの版画に向き合ったことだろう。ピカソはわけのわからない絵を描く人だと、人からも聞かされ、そう思い込んでいた小学生のぼくは、何だかだまされたような気分だった。これほど真に迫った、写実的な人物像を ― しかも銅版で ― 造形できる人は、めったにいるものではないと、今でも思う。

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 ほんのひとかけらのパンと、空っぽの皿を前にして、肩を寄せ合う痩せさらばえた男女。ふたりは目を合わせることなく、男はあらぬ方を向き、女は投げやりな視線をこちらに向けている。

 ここでもやはり気になるのは、異常に引き伸ばされた手の表現だ。後年、新古典主義と呼ばれる時期に描かれたピカソの人物像には、まるまると太った、丸太のようにたくましい手足が描かれることが多いが、それとはいちじるしい対照をなしている。これはいったい何をあらわしているのだろう?

 ぼくがここで思い浮かべたくなるのは、ゴッホの『馬鈴薯を食べる人々』(下図、ゴッホ美術館蔵)である。悲痛ともいえる表情で、小さな食卓を囲んでいる5人の人物。ゴッホ版『貧しき食事』とでもいいたくなるような絵だ。



 だがピカソとちがうのは、彼らは浮かない表情をしながらも、確かなコミュニケーションがそこに感じられるという点である。同じ農民といういわば共同体の一員として、相手を気づかったり、話しかけたりしているように見える。そして彼ら農民の指は、太くてたくましい。それは労働する人の指である。

 しかしピカソが描いた人物は、何も生み出し得ない指をもっている。彼らはパンに手をのばすことすらせず、相手の肩を抱きかかえ、あるいは自分のあごを手の甲にのせているだけだ。

 ゴッホが描いた農民には、貧しいながらも、確実に明日がめぐってくるという感じがする。暗い中にも、活気があり、それがこの絵を救っている。しかし『貧しき食事』のカップルには ― 彼らはまだ若いにもかかわらず ― 明日はあるのだろうか?

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 昨年、プーシキン美術館の展覧会でピカソの『アルルカンと女友達(サルタンバンク)』という油彩画を観た(下図)。それは一見すると屈託のない、明るい画面のような気がするが、そこには『貧しき食事』と共通の要素があまりにも多いのに驚かされた。



 グラスを前にしながらも、なすすべもなくテーブルに肘をついているだけの男女。長く引き伸ばされた手の指。そして何よりも彼らの目線の位置は、『貧しき食事』をそのまま裏返したかのように、ぴったり一致するのだ。

 これら2枚のピカソの絵には、貧しい現実から何とか目をそむけようとする男と、反対に冷ややかな目で現実を受け入れている女とが、対照的に描き出されているように思われる。

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