てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メモリアル・ピカソ(4)

2007年03月10日 | 美術随想
『道化役者と子供』


 妙な言い方になるが、ピカソは確かに対象を変形する名手だった。正面向きの顔と横顔が合体したイメージや、乳房と尻とが同じ面に描かれた裸婦など、彼は奇想天外な人物像を続々と生み出した。そういう絵を次から次へと見せられると、ピカソに“絵画史上最大の発明家”という称号を贈りたいような気もしてくる。

 だが、彼は大変素直なデッサンの名手でもあったにちがいない。『道化役者と子供』(国立国際美術館蔵)を観ていると、そんな気にもなってくるのである。ピカソを、ある一面のみで語ることほど、陥りやすい過ちはない。

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 この絵は厚紙にグワッシュとパステルで描かれていて、油絵などと比べるとかなり肩の力を抜いて描いたものだろうが、しかし数万点ともいわれるピカソの創作の大部分は、こういう作品で占められているのではないかと思う。

 つまりは、ちょっとした落書きや描き損じのようなものも、ピカソの場合は立派に作品として流通してしまうということだ。こういう現象は、他の有名画家にもみられるにちがいないが、ピカソにおいては特に際立っているように思う。

 ピカソの展覧会を観ると、ときおりメモ帳の切れはしのようなものが、後生大事に額縁に入れて展示されているのにぶつかる。こんなものはピカソの家のゴミ箱から拾ってきたのではないか、と陰口もたたきたくなるが、よくよく目を凝らしてみると、そんな紙切れにもやっぱりピカソの個性が横溢しているのに驚かざるを得ない。ピカソとは、そんな画家なのである。

 この『道化役者と子供』も、速筆のピカソからすれば、せいぜい何十分かで描かれたものだろう。そのわりにはほとんど線に迷いがない。ただ、よく観ると、ふたりの人物の足のところにだけわずかに線を引き直したような形跡がある。

 もっと不思議なのが、少年の足の部分だけは、輪郭線が定まらないままに着色されているという点だ。そのため、少年の足はブレているように見える。下絵だったら、それもあり得ない話ではないが、しかしちょっと奇妙である。

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 この道化役者や、サルタンバンク(軽業師)の家族というテーマは、「青の時代」からの過渡期にさしかかりつつあるこの時期のピカソをとりこにした主題であったらしい。その中のひとつ、水彩で描かれた『家族、あるいは両親と子供』(下図、ルートヴィッヒ美術館蔵)を観て、ぼくがまたしても不思議に思ったのは、やはり足の描き方だった。夫婦とおぼしき妻のほうの足は、本来ならスカートから見えているべき爪先がまったく描かれていないし、夫のほうにいたっては、片足しか描かれていないのだ。



 ここでぼくは、大胆な仮説を立ててみたくなる。ピカソはもともと、足を描くのが苦手だったのではないか、ということである。少年時代には、すでに大人顔負けの高い描写力をもっていたとされるピカソだが、だからといってやすやすと描いたということにはならない。彼なりに、大変な苦心をしながら描いたのかもしれないではないか。

 そういえば、美術史上に一大金字塔を打ち立てた『アヴィニョンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館蔵)にも、片足しか描かれていない女性が登場する(下図、部分)。ピカソの足へのコンプレックスは、相当なものだったのかもしれない。



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