ところで、ここまで『ペトルーシュカ』というバレエ音楽の素晴らしさや新しさを、まるでストラヴィンスキーひとりの手柄であるかのように書いてきたが、もちろんそういうわけではないだろう。さまざまな芸術の分野の中でも、とりわけ舞台芸術は、大勢の人が共同で作り上げるものである。バレエ音楽ひとつ書くにしても、ストラヴィンスキーにすっかり一任してしまうというわけにはいかなかったにちがいない。演出家や振付師など多くの人が意見を述べ、注文を出し、ストラヴィンスキーはそれらを勘案しながら筆を進めたのではなかろうか。
なかでも大きな影響力をもっていたのは、バレエ・リュスの興行主にして名プロデューサーだったディアギレフである。ピアノコンチェルトとして書かれていた草稿に目をつけ、バレエ音楽に改作するよう促したのは、ディアギレフその人だったという。そもそも、ストラヴィンスキーという無名の青年を発掘した張本人がディアギレフであるし、『火の鳥』や『春の祭典』をプロデュースしたのも彼である。もしディアギレフがいなかったら、かの3大バレエも生まれなかっただろうし、現代音楽の様相はかなり変わったものになっていたことは疑いない。
では、ストラヴィンスキーは ― あたかも人形ペトルーシュカのように ― ディアギレフに操られるだけの存在だったかというと、そういうことでもない。彼の音楽は、これまで誰も考えつかなかった創意工夫にみちている。いわば前衛の中の前衛であり、世紀の大実験であったわけだ。その大実験が、ひっそりと実験室の中でおこなわれるのではなく、バレエ公演というかたちで ― しかも芸術の中心地といわれるパリの地において ― 大観衆の面前でいきなり披露されたために、爆発的な毀誉褒貶を巻き起こしたのである。
今ふうの表現をすれば、バレエのテロリズムであったといっても過言ではないかもしれない。ストラヴィンスキーとディアギレフは一躍、時代の寵児となったのだ。
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だが、ストラヴィンスキーの新しさの中には、19世紀の古典バレエの遺伝子がしっかり息づいているようにも思われる。逆にいえば、チャイコフスキーらのバレエを否定するのではなく、改めて問い直そうとしているところに、ストラヴィンスキーのバレエ音楽がもつ重要な意味があるのである。
意外なことに、晩年のチャイコフスキーと若きストラヴィンスキーは、一度ニアミスしている。とはいっても、まだ10歳ごろのストラヴィンスキー少年が、あるオペラ公演に来ていたチャイコフスキーをロビーで見かけたというだけのことにすぎないけれど・・・。ただ、すでに神格化されていた大作曲家を目撃したそのときから、「自分が芸術家であり音楽家であることを意識した」とストラヴィンスキーは書いている。
彼にとって、チャイコフスキーは永遠の目標だったのだ。後年、実際にバレエ音楽を作曲することになった彼の眼の前に、チャイコフスキーの亡霊が岩のように立ちふさがったとしても、ちっとも不思議ではないだろう。
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ストラヴィンスキーの出世作となったバレエ『火の鳥』は、音楽の点ではまことに斬新なものだったが、筋書きはチャイコフスキーと比べても特に新しさはない。姫の苦難を王子が救うというストーリーは、『白鳥の湖』や『眠りの森の美女』とも共通するものだ。オデットに魔法をかけた悪魔ロットバルトは、『火の鳥』のカスチェイ王と容易に置き換えることができるのである。
次の『ペトルーシュカ』において、ストラヴィンスキーははじめてチャイコフスキーの呪縛から解放されたといえるかもしれない。だが、ぼくはこのバレエの中にも、チャイコフスキーの影がちらつくのが見えるような気がするのだ。その影というのは ― ちょうどストラヴィンスキーとすれちがったころに手がけていた作品 ― 『くるみ割り人形』にほかならない。ともに人形を主人公とする点で、このふたつのバレエは非常に緊密な関係にあるのではなかろうか?
(画像は1921年に撮影されたディアギレフとストラヴィンスキー、なぜかよく似たポーズをとっている)
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