てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

『ペトルーシュカ』試論(5)

2007年07月26日 | その他の随想


 話をバレエの本編に戻そう。ふたたびわれわれの前にサンクトペテルブルクの復活祭の賑わいが戻ってくるが、時間帯は夕方という設定である。ただし、音楽がいちばん盛り上がるのはこの場面かもしれない。いろんな人物が続々と登場し、個性的な踊りを踊っては去っていく。

 古典バレエでは、さまざまな舞曲がストーリーとは関係なく次から次へと踊られる部分がある。これをディヴェルティスマンというそうだが、純粋に舞踊を楽しむために用意された時間である。演劇的な要素は完全に黙殺されるか、少なくともその間は忘れ去られる。純粋なバレエ・ファンにとってはたまらない時間だろうが ― 野暮を承知で申し上げると ― ディヴェルティスマンの存在こそが古典バレエを古めかしくしていることもたしかだ。いわば“ドラマ”としての物語の推移よりも、“見世物”的な側面を強く残しているからである。

 20世紀のバレエ、特にバレエ・リュスによって創作された新しいバレエでは、この前時代的な要素はすぐさま排除されている。物語としての緊密さを優先し、ともすると冗長になりがちな舞台の構成を引き締めるためだろう。これ以降、従来のように2時間を超えるような長大なバレエ作品は激減することになった。『ペトルーシュカ』や『春の祭典』は、全幕通しても30数分しかかからないコンパクトなバレエである。

 だが、『ペトルーシュカ』のこの部分(第4場の前半)は、珍しくディヴェルティスマン的な要素を残しているといえるだろう。ここでは物語はいっさい進展せず、次々とページをめくるように多彩な舞曲が踊られる。音楽的にも、もっともバレエ音楽らしい感じがするところである。舞台の背後に置かれている見世物小屋のそのまた奥で、バレリーナをめぐる人形たちの争いがおこなわれていることなど、ついつい忘れてしまいそうなほどだ。

                    ***

 だが、祭はいつまでもつづかない。そこに、容赦ない現実が割り込んでくるのだ。小屋の中からペトルーシュカが飛び出してきたかと思うと、剣を持ったムーア人があとを追いかける。そして哀れなペトルーシュカは、こともあろうに人々の眼の前で、一撃のもとに斬り殺されるのである。

 今、現実が割り込んでくる、とぼくはいった。それはたしかに、浮かれ騒ぐ群衆をたちまち凍りつかせる、まことにシリアスな現実である。人々は一瞬にして、先ほどまでの陽気な気分を忘れ、われに返らざるを得ない。彼らはいっせいにペトルーシュカの死骸を取り囲み、立ち尽くす。

 しかしここで思い出さなければならないのは、ペトルーシュカは人形だったということである。バレリーナに横恋慕などして、人間くさいことをやってみたところで、彼はもともと木偶の坊だったのだ。やがて、どこからともなく人形遣いがあらわれ、人々をかき分けてペトルーシュカのほうへ近づくと、「なあに、こいつは人形ですから」とでもいうように、首根っこをつかんで振り回してみせる(舞台ではこの瞬間に、ペトルーシュカ役のダンサーは本物の人形にすりかわっている)。人々は去り、人形遣いは動かなくなったペトルーシュカを引きずって帰ろうとする。

 だが、物語はこれで終わりではない。耳をつんざくようなトランペットのファンファーレが、あたりの静寂をつらぬいて、まるで断末魔のように鳴り響く(譜例下)。



 するとペトルーシュカの亡霊があらわれ、人形遣いに向かって何かをしきりにうったえようとするのだ。驚いた人形遣いは、死骸をそこに放り出して逃げ去る(下図、アレクサンドル・ブノワによる『ペトルーシュカ』幕切れのシーン)。



 力尽きて小屋の屋根からぶら下がるペトルーシュカの亡霊と、打ち捨てられたペトルーシュカのなきがらとを舞台に残したまま、この奇想天外なバレエは、不気味な低音のピッツィカートとともに幕を下ろすのである。

                    ***

 前にも書いたように、ぼくはこのバレエの筋書きだけは知っていたのだが、このたびその全容を映像で観て、少なからぬ衝撃を受けた。特にペトルーシュカの亡霊が登場する幕切れは、ぼくの想像をはるかに超えていたのである。

 悲劇というものには、観る者の精神を浄化する作用があるといわれる。いわゆるカタルシスである。人々が好んで芝居や映画を見に出かけるのは、このカタルシスを味わうためでもあるだろう。身のまわりの現実からはとうてい期待できない特別な体験を、われわれは欲しているのである。

 だが、『ペトルーシュカ』ほどカタルシスから程遠いバレエもなかろう。王子様とお姫様がめでたく結ばれるわけでもなく、誰かが金銀財宝を探し当てるわけでもない。そこには、解決されない謎が ― あたかも人形の亡霊のように ― ふらふらとただよっているばかりだ。『ペトルーシュカ』が上演される機会にあまりめぐまれないのは、そのような理由によるのかもしれない。

 それにしても、人形が殺されるということは、どういうことであろうか? いや、正しくは次のようにいわねばならないだろう。人形が殺されたのに、亡霊が出るということは、いったいどういうことなのであろうか?

                    ***

 ぼくが『ペトルーシュカ』の中に『くるみ割り人形』の影がちらつくといったのは、後者でも人形と人間の境界があいまいにされているからである。少女クララがクリスマスイヴにもらった人形は、軍隊を率いてネズミと戦争をしたりするが ― ここまではまだいいとして ― ついには何と王子様に変身し、お菓子の国に旅をしたりする。

 『くるみ割り人形』は、おとぎ話のエリアを一歩も出ることはない。それでこそ、その破天荒な物語も円満に終結することができるのだ。夜明けとともに王子はくるみ割り人形に戻り、クララは自分の部屋で、楽しい思い出とともに人形を抱きしめるのである。

 だが『ペトルーシュカ』では、何ひとつ終結していない。物語は人形の死骸と一緒になって、眼の前に投げ出されたままだ。ぼくの脳裏には、白い亡霊がゆらゆら揺れる映像が今でもしみついている。この“終わることのないバレエ”をどう受け止めるか、ぼくたちが手渡されたものは重い。

(トップの画像はセルゲイ・スデイキンによる『ペトルーシュカ』の衣装デザインより「道化師」、スタヴロフスキー蔵)


DATA:
 「舞台芸術の世界 ― ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン ―」
 2007年6月9日~7月16日
 京都国立近代美術館


参考図書:
 「大作曲家ストラヴィンスキー」(W・デームリング/長木誠司訳)
 音楽之友社

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4 コメント

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Unknown (遊行七恵)
2007-07-27 12:34:56
面白かったです、と言えば失礼かもしれませんが「読み物」としてとても面白く思いました。
この展覧会は東京で行くつもりなので、本だけは購入してましたが、まだ開いてません。
(京都のチケットが入手できなかったのです)
わたしもストラヴィンスキーが好きなのですが、それらは全てこのバレエ・リュッスから始まったなと思います。ニジンスキーへの偏愛に始まり、現代のモーリス・ベジャール バレエ団に至る道…
ペトルーシュカに絞って展開される<試論>はとても読み応えがありました。
この展覧会のレビューが今後出てくる中でも、特異な輝きを放つように思います。
わたしは聴くのは好きでもそこまで深く考えずにいるので、とても興味深く思いました。
盆明けに東京で見てきます。
映像も見れたらいいな、と思いました。
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こんにちは (テツ)
2007-07-27 15:30:57
いつもコメントありがとうございます。
それにしても遊行さん、ちょっと褒めすぎです(笑)。

小林秀雄や吉田秀和のように、楽譜を引用しながら音楽のことを書いてみたいというのは、以前からの願望でした。
最近は忙しく、音楽を聴くこと自体が少なくなっていたのですが、展覧会で『ペトルーシュカ』を観る機会を得、かつての情熱がふたたび燃え上がってきました。そのまま勢いにのって、一気に書き上げてしまったという感じです。

東京は、例の庭園美術館ですか。展覧会と建物とがマッチして、とても充実した空間になりそうですね(ぼくは写真でしか知りませんが・・・)。そちらのレビューも楽しみにしてます。
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そうなんです (ひなた)
2010-06-16 22:53:16
ペトルーシュカの釈然としない展開を考えあぐねていて、このサイトに行き当たりました。
まったく、ご指摘のとおりのことを私も感じています。何のための亡霊なのか。切り殺されることの意味は。そもそも生きていないものを、生きているように見せかけることの真意は。何もわかりません。すべてを観客に委ねたままです。
ただ見るだけでは終わらせない、問答無用さがそこには存在するように思います。こんなふうに考え込ませるのも、目論見のうち…だったのかもしれませんですよね。
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はじめまして (テツ)
2010-06-17 07:18:52
コメントありがとうございました。

この記事を書いたのはもう3年近く前のことになりますが、このとき見たバレエの映像はよく覚えています。よほど衝撃的だったのかもしれません。

ペトルーシュカという人形は、われわれの人に知られたくない部分を象徴する存在なのかもしれない、とも思うようになりました。道化は道化に徹するべきで、それが社会的な表の顔ですが、その裏側には切実な悩みもあるのです。生きているかぎり、誰にでも。

よろしければまた当ブログにお越しいただければ幸いです。
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