てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

去年の暮れ、東京のあれこれ(33)

2013年03月24日 | 美術随想
生きていた松本竣介 その7


『鉄橋付近』(1943年、島根県立美術館蔵)

 街の風景を描く人にとって、写生とはどういう意味合いのものであろうか、と思うことがある。ぼくも京都に住んでいたとき、花の見ごろを迎えた観光地などに行くと、中高年の人たちが思い思いの場所に座り込んで絵を描いているのによく出くわしたものだ。おそらく趣味のグループだろう、和気あいあいとして気楽なものだった。

 だが、都会の一隅でスケッチブックを広げている人の姿は、これまで一度も見たことがない。そのわりには、団体展などに出かけると、どこかの都会をモチーフにした絵がたくさん並べられている。これを描いた人は、本当に都会のなかに立ち止まってスケッチをしたのだろうか? という疑問が、ある時期からぼくの頭をよぎるようになったのだが、絵は観るばかりで描くほうはまったく心得のないぼくとしては、想像もつかないのである。

 パリの街角を哀愁ある筆致で描き出したモーリス・ユトリロは、絵はがきをもとにしていたらしいことがわかっている。アルコール依存症で、精神異常の傾向もあったユトリロをひとりでパリの街頭においておくことは、たしかに危険なことであったろう。

 それとは逆に、やはり正常とはいえない人物だった山下清は、ドラマにも描かれていたようにあちこちを放浪して、日本中の風景を自分の眼に焼き付けた。ただ、ドラマとはちがって旅先で“ちぎり絵”を作ることはせず、帰ったあとに記憶に基づいて絵を仕上げていったという。これはある意味で、超人的な能力である。

 松本竣介は耳が聞こえないとはいえ、至って常識的な思考の持ち主であり、芸術家にありがちな破天荒な言動はいっさいない。それだけに、山下清のような人間離れした才能に恵まれていたわけでもなく、あくまで堅実に、自分の身近な風景と真剣に向き合ったのだろうと思う。ただ、東京が今ほど人であふれ返っていないとはいっても、聴覚のない彼が路上でスケッチをするというのは、あまりにも危なすぎる。外を歩いている際、うっかりしていると真っ直ぐ進むことができず、片側へ逸れていく傾向があった、という証言もある。

                    ***

 実際のところはどうだったのかというと、彼は常に小さなスケッチブックをポケットに入れて街を歩いていたらしい。気に入った風景を見つけると、さっと手早くスケッチをする。まるで、鮮やかな盗みを働く怪盗のように。それを持ち帰って、大きいデッサンに描き直し、そこから油彩画の下絵が作られるのだという。

 竣介はまた、カメラを使ってもいた。彼が写した写真を何枚か観たことがあるが ― 当時のことだからもちろんモノクロだ ― あくまで記憶を補佐する程度のものであって、それだけで完結するようなものではない。

 さらに彼は、一枚の絵を仕上げる過程で、構図をどんどん変更していった。別の場所を描いたスケッチを組み合わせて、ひとつの風景にすることもあった。彼の作品には、たしかに実景に基づいて作られていると信じさせるほど巧みな遠近感が醸し出されている一方で、まるでこの世のものではないようなはかなさを感じさせもするのは、そのためかもしれない。

 『鉄橋付近』にも、実にたくさんの下絵が残されていて、ひとつの風景を描き上げるために竣介がいかに苦労していたかがわかる。だからといって、現場に何度も足を運んだのではなく、やはり複数のスケッチを参考にしながら、彼の頭のなかで練り上げられていった風景なのであろう。

 そこで気になるのが、画面のほぼ中央で空を背景にじっと立つ、ふたつの人影である。彼らはいったい、誰なのか。あんなところで何をしているのか。これは、小出楢重がその絶筆のなかで高圧電線に腰かけるシルエットの人物を描いたのと同じぐらい、謎めいたことであるような気がした。

 ところが、松本竣介の風景画の現地調査をした洲之内徹によれば、あれは工場の屋根に設置された換気装置の一部らしい。けれども、正体がわかったところで、この絵が街の外見を合理的に写しただけのものでないことに変わりはない。彼の作品にしばしばあらわれる黒い人影は、たまたまそこを通りかかった通行人であると同時に、画家自身の内面を映し出しもする、孤独な人物像なのだろう。

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