生きていた松本竣介 その8
『Y市の橋』(1942年、岩手県立美術館蔵)
前回、松本竣介のことを「孤独な人物像」と書いた。そのもっと前には、彼は「明るく、社交的だった」と書いた。矛盾しているのではないか、というお叱りを受けそうだが、ぼくのなかでは必ずしも、これらの性格は食い違うものだとは思えない。
フランスで活躍した藤田嗣治は、奇抜なオカッパ頭を振り立て、夜ごとパーティーで踊り狂うなどして人々の注目を集めたが、それは表向きの顔である。彼は酒を飲むこともせず、熱心にキャンバスと向き合ったという。それは画家にとって、ほとんど命を賭けているといってもいい大切な時間であると同時に、たったひとりで絵と対峙しなければならない、きわめて孤独な時間だったはずだ。
松本竣介は、友人が訪ねてくると気さくに家に上げてくれ、話にものってくれたそうである。こちらが筆談で問いかけると、竣介のほうは口頭で応えるという、はたから見れば珍妙なやりとりだったようだが、そうやって横のつながりを大切にしていたところは、実は彼のさびしさの裏返しなのではないかという気がする。
彼は、街中で詩情ある景観を見いだす達人でもあった。いや、戦時中の都会がそんなに静寂に包まれていたはずもなく、彼の頭のなかで一種の濾過作用のようなものが働き、純度の高い風景画へと変容させたのだろうと思う。その意味では、軍歌の歌声などを遮断してくれる彼の耳は、その作風の形成に大いに貢献したといえようか。
『Y市の橋』は、竣介が繰り返し描いたモチーフである。Y市というのは横浜市のことで、橋の名は月見橋という。現在でもJR横浜駅のすぐ近くにあるそうで、いつか横浜に行くことがあればぜひ立ち寄ってみたいと思っているが、今のところその機会はない。なお、画面の上半分に描かれている特徴ある跨線橋はすでに解体されることが決まっているらしいので、もう間に合わないかもしれない。
ただ、写真で見てみると、現在の月見橋は首都高速の真下にあり、とても当時の面影はなさそうだ。少なくとも、竣介が描いたようにあたりにまったく人影のない横浜というのも、ほとんど想像を絶している。
竣介の都市風景の静謐さを愛する人は、下手に場所の詮索などしないほうが賢明なのかもしれない。
***
『Y市の橋』(1946年、京都国立近代美術館蔵)
ただ、竣介自身が戦後になって、爆撃で変わり果てた月見橋を描いている。この絵の存在は、もうずいぶん前に画集で知ったのだが、ぼくは一種の衝撃を受けた。それと同時に、ああ、竣介にとっても来るべきときが来たのだな、と思った。
彼が描いている東京近辺の景色は、戦争が激しくなるにつれ、いつか空襲を受けて破壊されてしまうかもしれない、という不安が常にあったはずである。
奥さんと子供は郷里の島根に疎開させていたが、彼は東京に暮らしつづけた。どのように終戦を迎えたのかは明らかでないが、自分がかつて描いた風景が焼けただれ、跡形もなくなっていくありさまを彼も見たのではなかったろうか。
そして、それをついに絵に描こうと思い立ったときの竣介の心境は、どんなものだっただろう。橋の下を流れる運河の水だけが、音もなく静かである。ぼくはこの絵を観て、なぜか「国破れて山河あり」といった見当ちがいの言葉を思い出したが、まさにそれは竣介が見た“敗戦国”のありのままの姿であり、彼の絵画世界のなかへ醜い現実が土足で踏み込んできた瞬間だった。
ところで、この絵は京都国立近代美術館に収蔵されている。だが、ぼくはその美術館に何十回となく行っているのに、そこの壁に掛けられているのを一度も観たことがないのだ。いったいなぜ出し惜しみするのだろう? 関西の人たちにも、松本竣介の絵をもっと見せてもらいたいものだと、切に思う。
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『Y市の橋』(1942年、岩手県立美術館蔵)
前回、松本竣介のことを「孤独な人物像」と書いた。そのもっと前には、彼は「明るく、社交的だった」と書いた。矛盾しているのではないか、というお叱りを受けそうだが、ぼくのなかでは必ずしも、これらの性格は食い違うものだとは思えない。
フランスで活躍した藤田嗣治は、奇抜なオカッパ頭を振り立て、夜ごとパーティーで踊り狂うなどして人々の注目を集めたが、それは表向きの顔である。彼は酒を飲むこともせず、熱心にキャンバスと向き合ったという。それは画家にとって、ほとんど命を賭けているといってもいい大切な時間であると同時に、たったひとりで絵と対峙しなければならない、きわめて孤独な時間だったはずだ。
松本竣介は、友人が訪ねてくると気さくに家に上げてくれ、話にものってくれたそうである。こちらが筆談で問いかけると、竣介のほうは口頭で応えるという、はたから見れば珍妙なやりとりだったようだが、そうやって横のつながりを大切にしていたところは、実は彼のさびしさの裏返しなのではないかという気がする。
彼は、街中で詩情ある景観を見いだす達人でもあった。いや、戦時中の都会がそんなに静寂に包まれていたはずもなく、彼の頭のなかで一種の濾過作用のようなものが働き、純度の高い風景画へと変容させたのだろうと思う。その意味では、軍歌の歌声などを遮断してくれる彼の耳は、その作風の形成に大いに貢献したといえようか。
『Y市の橋』は、竣介が繰り返し描いたモチーフである。Y市というのは横浜市のことで、橋の名は月見橋という。現在でもJR横浜駅のすぐ近くにあるそうで、いつか横浜に行くことがあればぜひ立ち寄ってみたいと思っているが、今のところその機会はない。なお、画面の上半分に描かれている特徴ある跨線橋はすでに解体されることが決まっているらしいので、もう間に合わないかもしれない。
ただ、写真で見てみると、現在の月見橋は首都高速の真下にあり、とても当時の面影はなさそうだ。少なくとも、竣介が描いたようにあたりにまったく人影のない横浜というのも、ほとんど想像を絶している。
竣介の都市風景の静謐さを愛する人は、下手に場所の詮索などしないほうが賢明なのかもしれない。
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『Y市の橋』(1946年、京都国立近代美術館蔵)
ただ、竣介自身が戦後になって、爆撃で変わり果てた月見橋を描いている。この絵の存在は、もうずいぶん前に画集で知ったのだが、ぼくは一種の衝撃を受けた。それと同時に、ああ、竣介にとっても来るべきときが来たのだな、と思った。
彼が描いている東京近辺の景色は、戦争が激しくなるにつれ、いつか空襲を受けて破壊されてしまうかもしれない、という不安が常にあったはずである。
奥さんと子供は郷里の島根に疎開させていたが、彼は東京に暮らしつづけた。どのように終戦を迎えたのかは明らかでないが、自分がかつて描いた風景が焼けただれ、跡形もなくなっていくありさまを彼も見たのではなかったろうか。
そして、それをついに絵に描こうと思い立ったときの竣介の心境は、どんなものだっただろう。橋の下を流れる運河の水だけが、音もなく静かである。ぼくはこの絵を観て、なぜか「国破れて山河あり」といった見当ちがいの言葉を思い出したが、まさにそれは竣介が見た“敗戦国”のありのままの姿であり、彼の絵画世界のなかへ醜い現実が土足で踏み込んできた瞬間だった。
ところで、この絵は京都国立近代美術館に収蔵されている。だが、ぼくはその美術館に何十回となく行っているのに、そこの壁に掛けられているのを一度も観たことがないのだ。いったいなぜ出し惜しみするのだろう? 関西の人たちにも、松本竣介の絵をもっと見せてもらいたいものだと、切に思う。
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