てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

去年の暮れ、東京のあれこれ(32)

2013年03月23日 | 美術随想
生きていた松本竣介 その6


『議事堂のある風景』(1942年、岩手県立美術館蔵)

 建物と人々の姿とが渾然と重なったような絵を描いていた松本竣介だが、あるときから目立って人影の数が減りはじめる。といっても、『有楽町駅附近』のような、骨組みのがっしりした絵に戻ったわけではない。線は細く、色彩は淡く、まるで忘れられたように沈黙が支配する街並は、ぼくがもっとも共感を覚える竣介の世界である。

 戦時下の東京がいったいどんな感じだったか、いろいろ資料はあるだろうけれど、実感としてわかるものではない。男は国民服を着、女はモンペをはき、住所氏名を書いた布を胸のあたりに縫い付けているのは、テレビドラマなどでよく見かける。警報が鳴り響き、頭巾をかぶりながら防空壕に避難するさまや、兵士の出征に際して、皆が日の丸の小旗を手にして軍歌を歌い、万歳を叫んで送り出す情景など・・・。

 だが、松本竣介の絵にはそういった場面はまったく出てこない。年代や場所を特定させる看板なども描き込まれていない。いってみれば、生活感が徹底的に排除されているのだ。だから彼の描く風景は、現実のどこかというよりも、彼の頭のなかにしかない架空の場所のような気がする。

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 『議事堂のある風景』は、なかでもよく知られた一枚であろう。この絵には政治的な意味があるのかどうか、さまざまに議論されてもきたようだ。だが、竣介は他の駅とか橋とか運河などと同じように、議事堂を描いたにすぎないのではないかと思う。

 今でこそ議事堂の外観は国民誰ひとりとして知らぬ者はないだろうし、その内部でおこなわれてきたさまざまなことがらは、いい意味でもわるい意味でも日本の歴史を築き上げてきた。国会前のデモンストレーションなども定着しているようだが、今ではわれわれが生活の不満や鬱憤などをぶちまける標的として、この三角屋根は機能しているかのようである。

 だが、国会議事堂の竣工は1936年のことだというから、この絵が描かれたときは完成してから6年しか経っていなかった。東京の人にとっても、まだまだ見慣れない、珍しい眺めだったはずだ。さらに松本竣介は、軍人たちの座談会に対してたったひとりで反論を突きつけるほどの人だから、建物に世論を仮託する必要など感じなかったにちがいない。

 もっと大切なのは、この風景の手前に、ひとりぽつんとリヤカーを引く人物が描かれているということだろう。彼は議事堂に背を向けて、わがことに没頭している。その足取りは頼りなく、どこに向かうのかも定かではないけれども、少なくとも彼はそのリヤカーの上に、自分の生活をのせているはずではないか。

 戦争がはじまり、ひと気のなくなった路上に、あたかも最後の生き残りのようにして描き込まれた、小さな、か弱い労働者。松本竣介の視点は、勇ましい軍人たちの眼には見えていなかったものを、しっかりととらえていたはずだ。

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