てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

現代美術に肩まで浸かる ― 国立国際美術館私記 ― (6)

2008年03月02日 | 美術随想


 現代美術の「コロンブスの卵」というと、ぼくにはもうひとりの名が思い出される。彫刻家カルダー(コールダーともいう)である。

 彫刻といえば、地面にでんと据えられているか、台座に置かれているのが普通だ。見た目にもずしりと重そうで、風が吹いたぐらいでは微動だにするものではない。

 だが、カルダーは彫刻を重力の呪縛から解き放ち、天井から吊り下げ、ちょっとの風でも生き物のように動く作品を作り出した。おまけに原色の派手な色彩をほどこし、どちらかというと地味だった彫刻の面目を一新したのだ。それらはモビールと名づけられ、たちまち世界中に広まり、日本でもあちこちの美術館のロビーなどにぶら下がるようになった。

 いわば量感の芸術であった彫刻の分野に、天を浮遊するような軽快さを持ち込んだのが、カルダーだったのだ。彼自身の体は小太りで、軽みからはほど遠く、かなり重力の支配を受けていそうな姿だったけれど・・・。

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 ところが、モビールにも難点がひとつある。人の目線より高いところに展示されているために、場合によっては全然気づかれないこともあるということだ。

 国立国際美術館が千里の万博公園にあったときには、館内に入ってすぐ、エントランスの真上に彼の『ロンドン』という作品がぶら下がっていた。しかし工事現場ではないのだから、頭上に注意してくださいという貼り紙があるわけもなく、展示室へ向かってすたすたと歩いてゆく人たちは、カルダーが上空から見下ろしているなどとは夢にも知らなかったかもしれない。近くの柱にポツンと、作品名を示すキャプションが貼りつけてあったはずだが、『ロンドン』などといわれてもバッキンガム宮殿やビッグベンを描いた絵は見当たらず、いったい何のことだかわからないで通りすぎてしまった人もいるだろう。

 だが、こういう“気づかれなさ”こそが、現代美術の大きな特徴でもある。額縁で囲ったり、土台の上にのせたり、ガラスケースで厳重に保護したりして、ものものしく展示されることを想定してはいないのだ。

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 たとえばカール・アンドレというアメリカの彫刻家は、地べたに平らな鉄板を並べたような作品を制作している。ぼくもかつて滋賀の美術館で「これをどう鑑賞したらいいのだろう」などと迷いながら眺めた記憶があるが、森村泰昌氏によるとアンドレの作品は、眼で観るのではなく「その上を歩くもの」なのだそうだ。しかし「ここを土足で歩いてください」とは書かれていなかったし、実際に歩いている人もひとりもいなかった。美術館側としては、せっかく買い上げたコレクションを汚されでもしたら大変だ、との思いも当然あるだろう。

 けれども何年か前、たしか兵庫の美術館で、入口へ向かう通路の真ん中にアンドレの作品が置かれていたことがあった。つまり、その上を歩かないでは先へ進むことができないように仕組まれていたのである。靴に泥がついていようが、犬のウンチを踏んづけた後であろうが、鉄板の上を歩いたときに靴底に伝わる身体的感覚が作品の眼目である以上、これが正しい展示の仕方なのであろう。

 しかし何割かの人たちは、それが芸術作品とは気づかず、地面にできた陥没か何かに応急処置をしているのか、などと考えたかもしれない。このへんのすれちがいが、現代美術の一筋縄ではいかないところである。

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 国立国際美術館が新館に移転した今では、カルダーの『ロンドン』は以前よりも眼につきやすくなった(上図右、左はミロの『無垢の笑い』)。というのも、美術館自体が地下にあるからだ。下りのエスカレーターに乗っていると、鮮やかなオレンジ色に染められたモビールが気持ちよさそうに宙に浮かび、ときには微風を受けてゆっくり動いているのを間近で眺めることができる。

 それにしても、彫刻を地面から解き放ったはずのカルダーは、自分の作品が地面の下に展示されていることを知ったら、いったい何というだろうか。

つづく
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