てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

去年の暮れ、東京のあれこれ(31)

2013年03月22日 | 美術随想
生きていた松本竣介 その5


『画家の像』(1941年、宮城県美術館蔵)

 1941年1月号の美術雑誌「みづゑ」に、「国防国家と美術」と題された座談会が掲載された。出席者は軍人が3人と、美術評論家がひとり。創作に従事する人はその場に加わっていない。

 この記事の全文を読んだことはないが、おおかた次のようなことが述べられていたようだ。美術家という職業は、今の世の中において贅沢そのものであるということ。いつ戦争が勃発するかもしれない状況で、絵描きたちも自分の立場をよく認識すべきであること。反発するものには絵の具の配給を禁止し、また展覧会の開催を拒否するのも辞さないということ。

 この論調は、現代でもしばしば繰り返される不毛な論議、つまり「芸術は人間にとって必要か」という問題の原型ともいうべきかもしれない。このような問いは、一昨年の東日本大震災以降、多くの芸術家たちが自分の胸に投げかけたはずである。ひょっとして、自分がやろうとしていることは無意味なことなのではないかと・・・。

 だが、この座談会に対して松本竣介は、同誌4月号に反論を寄稿した。タイトルは「生きてゐる画家」。数年前に発禁処分を受けた石川達三の小説『生きてゐる兵隊』を連想させるが、その文は次のように書き出されている。

 《沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遙な身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。》

 こう断ったうえで、彼は“沈黙の賢さ”に飽き足らず、自分の置かれた立場を明らかにするのだ。

 《私達もまた国家を思ひ国民の生活生成のために、心身を削る苦業をしてゐるのである。勿論私達が如何に苦業しようとも政治的国家の消長に直接の力を与へるものでないことは言ふまでもない。》

                    ***

 その年の夏に描かれたのが、『画家の像』である。松本竣介には例外といっていいぐらい、大きな絵だ。時期的にいっても、「生きてゐる画家」で述べた内容を実際の作品に反映させたものだといえるだろう。

 だが、夫人と子供らしいふたりの人物を従えて立つ画家 ― もちろんその顔は竣介自身のもの ― の姿に、“国民の生活生成のために、心身を削る苦業”をしているような自負心は感じられないような気がする。

 そのあたりを素早く察知したのが、洲之内徹だった。彼は竣介の絵を愛することにかけては人後に落ちない人物だったが、次のような苦衷の心境を明かしてもいる。

 《これを時代の風潮に抗して立つ画家松本竣介の姿だというふうに見る人もある。事実、彼自身その気だったのであろう。(略)しかし抵抗というにはなんというひ弱な、硬直した姿だろう。それに、変に芝居がかっている。(略)竣介のこのての作品を、私は人が言うほどいい作品だとは思わない。》(「絵のなかの散歩」)

 足を開きぎみに立つ画家の股のあいだからは、小さな人影が群がっているのが見える。それ以外にも、よく眼を凝らしてみると、まるでブリューゲルの絵のように、背後の街のあちこちに豆粒のような人間が点在しているのである。そして、街並の頂点には、彼が繰り返し描いたニコライ堂らしき尖塔がのぞいている。

 だが、『画家の像』とはいうものの、彼は絵筆もパレットも持っていない。その顔つきも、闘志がみなぎっているというよりは、むしろ放心しているようである。もしこれが、画家が冷静に見つめたおのれ自身の姿だったとしたら、軍人を向こうに回して反論をぶってみせた威勢のいい「生きてゐる画家」はどこにいるのか?

                    ***


『立てる像』(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)

 翌年には、自分ひとりだけを描いた『立てる像』を発表している。ただ、肩がひどく撫で肩になっている以外は、前の年とちっとも変わらないポーズだ。変わったのは背景にある、太平洋戦争に突入した日本の風景である。まだ爆撃を受けてはいないが、色彩は暗澹たるものとなり、人の数も減ってしまった。

 それにしても、竣介が画家を志した初期のころ、16歳のときの毅然とした『自画像』を思い返してみると、ただ突っ立っているだけに見える彼の姿は、やはり頼りなく思われる。

 ぼくは何となく、佐伯祐三の『立てる自画像』を思い出した。佐伯は松本竣介とはちがう意味で、日本人として戦っていた。フランスでフォーヴィスムの大家ヴラマンクに会い、自作を厳しく酷評された佐伯は、画家としてのおのれを奮い立てるつもりで、絵筆を手にした自画像を描く。しかし、彼は自分自身の顔を削り取ってしまうのである。


参考画像:佐伯祐三『立てる自画像』(1924年、大阪市立近代美術館建設準備室蔵)

 なすすべもなく、ただ立っている佐伯の自画像は、日本人が洋画家として自立することの困難の前に、ひたすら呆然とする画家の姿だった。だとすれば松本竣介も、日に日に戦時色が深まる日本をまのあたりにして、しばし呆然とせざるを得なかったのではなかろうか。

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