てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

植物園で深呼吸を(4)

2012年04月20日 | その他の随想

〔植物園の「サクラ山」はソメイヨシノ以外のさまざまな桜で賑わう〕

 春ともなると、桜の名所にはわんさと人が押し寄せる。開花宣言が出されると、ニュースで大きく報道される。駅に行くと沿線の桜の咲き具合が掲示されているのを眼にするし、とりわけ京都方面に向かう電車は増発されても混雑を極める。

 けれども、それが正常なことなのかどうか、最近疑問に思うようになってきた。もちろん桜を美しいと思うのは、日本人の心に古くから備わった感性であろう。だが、まるで民族大移動のように花見客が街にあふれ返るさまは、たとえば博覧会などのイベントとそうちがわないような気がする。

 4月は花見で酒が飲めるぞ~
 酒が飲める飲めるぞ~ 酒が飲めるぞ~

 というのは、昔はやった歌の一節だが、花見酒のよさというのは下戸であるぼくにはまったく理解できない。ただ、満開の桜の下に無粋なブルーシートを敷き、コミュニケーションという口実のもとに酒を酌み交わすだけならまだしも、派手なドンチャン騒ぎをやらかすのが桜を愛でることになろうとは、とても思えないのである。朝の早くから場所取りをすることが新社会人の通らねばならぬ道だとしたら、そんな愚かな習慣はさっさとやめてしまったほうが世のためだと思う。

                    ***


〔水上勉『櫻守』(新潮文庫)の表紙。絵を描いたのは桜の絵の第一人者である中島千波〕

 この日のしめくくりに、「サクラ山」を訪れてみた。この植物園も、京阪沿線の桜名所のなかに勘定されているらしい。けれども花見客は、それほど寄り付かないようだ。園内での酒宴が禁じられていることと、ソメイヨシノがないことが、その主な理由かもしれない。

 なぜ、ここにはソメイヨシノがないのだろうか。それは、この「サクラ山」を設計した笹部新太郎という男と関係がある。水上勉の小説『櫻守』には、笹部をモデルにした竹部庸太郎という桜好きの男が登場し、ソメイヨシノは堕落した品種だ、といってのけるのである。

 《「まあ、植樹運動などで、役人さんが員数だけ植えて、責任をまぬがれるにはもってこいの品種といえます」

 と竹部は染井をけなした。

 「だいいち、あれは、花ばっかりで気品に欠けますわ。ま、山桜が正絹やとすると、染井はスフいうとこですな。土手に植えて、早(はよ)うに咲かせて花見酒いうだけのものでしたら、都合のええ木イどす。全国の九割を占めるあの染井をみて、これが日本の桜やと思われるとわたしは心外ですねや」

 竹部は、このエドヒガンとオオシマザクラの交配によって普及した植樹用の染井の氾濫を、古来の山桜や里桜の退化に結びつけて心配しているのであった。》
(『櫻守』新潮文庫)

 スフというのは、今でいうレーヨンのことだと思っていいだろう。つまり混じりけのない絹織物のような山桜に比べると、ソメイヨシノは化繊のような作り物だというのである。子供のころから桜といえばソメイヨシノと思い込まされていたぼくには、このくだりは少なからぬ驚きであった。

 ぼくの故郷の福井 ― 水上勉の故郷でもある ― では、福井市内を足羽(あすわ)川が流れているが、春になると川沿いを2キロ以上にわたってソメイヨシノのトンネルが覆いつくす。福井の春を代表する風物詩として、今でも多くの人で賑わっているはずだ。そして、繊維産業が盛んだった福井では、誰もレーヨンのことをわるくいう人はいないのである。

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