てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

植物園で深呼吸を(5)

2012年04月21日 | その他の随想

〔渡辺千萬子『落花流水』(岩波書店刊)の表紙。これも中島千波の絵である〕

 京都の銀閣寺近く、疏水の流れる脇を「哲学の道」と呼ばれる小道がうねうねと通っている。ここにはソメイヨシノのほかに、オオシマザクラなどのさまざまな品種が咲き競う。何せ「道」が主役であるから、将来的にもここがアスファルトで舗装される心配はないだろうが、桜の季節には大勢の人が通るので地面が踏み固められ、桜の成長のためにはあまりよくないのではないかと思う。

 哲学の道を彩る桜は、「関雪桜」と呼ばれることもある。関雪とは、日本画家の橋本関雪のことだ。近くには白沙村荘という邸宅跡もあるので、ご存知の向きも多かろう。ただ、ぼくは橋本関雪という画家に今ひとつ親しみがもてないので、まだ訪問したことはないが・・・。

 関雪の孫で、谷崎潤一郎の義理の娘にあたる渡辺千萬子(ちまこ)は、こんなふうに書いている。

 《哲学の道が一番華やぐのは何といっても、道の両側に植えられた「関雪桜」が満開の、桜花爛漫の春四月です。「関雪桜」は橋本関雪が植えたとされていて、いつの間にかこう呼ばれるようになりました。しかし実は関雪の妻よねが植えたものなのです。よねはとてもつつましい人で、関雪の貧乏時代を支え、(略)ようやく世に認められるようになってからも、関雪が祇園あたりで豪勢に遊び歩いている時も、変わらず質素に暮らしていて、少しずつ小遣いを貯めて「何か人のためになることに使いたい」と夫とも相談して疏水の土手に「桜」を植えることにしたのです。》(『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』岩波書店)

 よねの没後、残された関雪は桜の手入れをつづけた。亡き妻の遺志を継いでのことといっても、その情熱は、笹部新太郎と単純に比較できるようなものではない。よねが桜を植え、関雪が丹精したおかげで、哲学の道は京都を代表する桜のメッカとなった。

 ただ、京都市が疏水の改修工事のために200本あまりを切り倒してしまったため、当初の桜は十数本しか残っていない。『櫻守』の竹部が役人をけなした激しい言葉を、ここで繰り返したくなってしまうのは残念なことだ。

                    ***


〔笹部新太郎が手がけた植物園の桜たち〕

 けれども「大阪市立大学理学部附属植物園」には、そんな行政の無謀な手が入ることはないだろうと思いたい。

 山桜、枝垂桜、楊貴妃、兼六園菊桜、緑色の花弁をつけるという貴重な新錦など、いわゆる“名所”をぶらぶらしていただけではお眼にかかることができないさまざまな桜が、ここにはまだ息づいている。もちろん桜だけが特別扱いというわけではなく、あまり人に知られることのないような他の植物たちと同じように、桜も「家族の一員」として育てられているという印象を受けた。桜が咲きはじめると花見をしたくてうずうずするが、それ以外の季節は花に見向きもしないという輩は、大いに反省したほうがよろしかろう(もちろん、ぼく自身も含めて)。

 家から比較的近くにあるこの植物園を、季節が移り変わるごとに、まめに訪れてみようと決めた。ぼくは実物の花よりも、絵に描かれた花を見るほうがずっと多いだろう。だが、画家たちもやはり本物の花を見つめ、写生し、豊かなインスピレーションを受けていることを忘れたくはないものだ。

 それと、もうひとつ。大阪市内の職場と家とを往復しているだけの毎日には決定的に不足していたものを、ここで得ることができた。それは、何ものにも穢されていない、美しい空気である。ぼくは何年かぶりで、大きく深呼吸をした。

(了)

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