てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

エル・グレコが降臨した場所(4)

2012年12月29日 | 美術随想

『聖アンナのいる聖家族』(1590-1595年頃、メディナセリ公爵家財団タベラ施療院蔵)

 『聖アンナのいる聖家族』のなかで、聖母マリアは幼子イエスに授乳をしている。しかも涼しげな、美しい顔で。

 一見すると何の不思議もないシチュエーションのような気がするが、そうではない。だいたいイエスは神の子のはずであって、マリアは処女のまま懐胎したのだから、果たして母乳が出るものなのだろうか。もちろん医学的にどうかという議論は、この場合何の意味もなさないだろう。ただ、ぼくは妊婦としての聖母マリアを観たことがなかったので、乳を与えるマリア像を観ても、やはり違和感が残るというだけのことだ。

 ルネサンスを代表するラファエロは“聖母子の画家”ともいわれ、たくさんの聖母子像を描いたことで知られるが、彼は授乳している聖母を描いたことがあったろうか? ラファエロの聖母子像をすべて知っているわけではないが、おそらく描いていないのではないかと思う。ラファエロにとって聖母子とは、通常の親子の関係を超えたもっと濃密な、いってみれば一心同体のようなものとして描かれる傾向があるようだ。乳を与え、それを受ける(飲む)という、体の外を通過しておこなわれるやりとりは存在しないのである。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの場合は、それがさらに徹底されているといえよう。『聖アンナと聖母子』では、マリアが羊と戯れるイエスを優しく抱き寄せようとしているが、そのマリアは驚くべきことに、アンナの膝の上に座っている(「3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (33)」参照)。この構図は謎めいたものではあるが、彼らがひとかたまりにくっつき合うことによって、単なる家族という単位を超越していることはわかる。イエスの重みはマリアの膝にかかり、さらにアンナの膝にもかかるのである。

 しかしエル・グレコは、マリアが危なっかしいかっこうでイエスを抱きながら乳を含ませている横から、ヨセフがイエスの片足を支え、アンナは頭を撫でる ― 実際には頭を押さえているように見える ― という、あえていえば“分業”のありさまをはっきりと描き出した。もちろん中心に描かれているのは聖母子であって、その定位置は不動のものだが、もはや聖母ひとりが自立してイエスを受け入れるほど確固とした存在ではなくなっていることを感じさせる。そういった揺らぎが、エル・グレコの絵の不穏さと共振している。

 おまけに、アンナの険しい顔つきと、マリアのいささか鈍感そうな ― それはもちろん母の慈愛があふれているせいだろうけれど ― 表情の落差はいちじるしい。そんなふたりの顔を見比べながら、ヨセフはこの家族の将来に対して一抹の不安を抱いているようにも見える。一心同体であったものが、バラバラになりかけているのである。

                    ***


『福音書記者聖ヨハネ』(1607年頃、エル・グレコ美術館蔵)

 聖書に出てくるポピュラーな人物に独特の容貌を与えるという意味では、この聖ヨハネ像などその究極のものかもしれない。

 ここでの聖ヨハネは、イエスとともによく描かれる洗礼者ヨハネとはちがう(マリアもふたりいるし、聖書は非常にややこしい)。有名なところでは、バッハが作曲した『ヨハネ受難曲』はこの福音史家が書き残した記述に基づいて作られたことになっている。

 ただぼくは、これがイエスの忠実な使徒のひとりだとはどうしても思えないのだ。やや古くさいたとえでいえば、顔が“不良”なのである。髪型なんか、どことなくリーゼントを彷彿とさせるし、無表情な顔つきはどう考えても“つっぱっている”としかいいようがない。

 そして、天変地異の前触れのようなおどろおどろしい雲の動き。雷にうたれたかのように体をくねらせる、コップのなかの龍。さらに、死人のように青白いヨハネの肌。コップを持つ右手の指は、5本とも長さが同じである。

 この人物が聖書でどのように描かれているかよく知らないぼくには、とにかく不気味な存在としか映らない。ことさらに強調されたビジュアルは、観る人に一種の偏見を抱かせるものだと思う。当時の人たちは、この絵をどんな思いで眺めたのだろうか。

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