てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

束芋という断面(2)

2010年09月19日 | 美術随想

束芋『団地層』(イメージ、2009年)

 ぼくは団地に住んだことはない。けれども子供のころ、団地住まいの友達はいたし、その家に遊びに行ったこともある。隣家と壁が接しているくせに、外部との交流を遮断しようとしているような分厚い鉄の扉が気にかかったけれど・・・。それは、小学生の力で開け閉めするには重すぎたのだ。

 小学校の校庭に出ると、すぐ近くの敷地に平らな箱を立てたような同じかたちの団地がいくつも並んでいた。福井の田園風景のなかに突如出現した直方体のバケモノは、何とも不調和な、奇妙な感じがしたものだ。端っこの一棟を指でつついたらドミノ倒しのように次々と倒れていってしまいかねない、危なっかしい建物に見えた。

 やがて、ぼくの家の北側にも団地が建ちはじめ、ベランダから花火大会をのぞむことができた空をすっかり塞いでしまった。途轍もなく巨大な壁をおっ立てたかのように見えたが、あそこに穿たれている小さな窓のひとつひとつにそれぞれ別の家族が暮らしているのかと思うと、人間の住環境が同じ大きさの箱に整然と振り分けられてしまうことの不自然さをひしひしと感じないではいられなかった。しかもそこに住んでいるのは高倍率の抽選を勝ち抜いた選ばれし人たちなのだと思うと、ますますおかしなことに思われた。

                    ***

 束芋の作品にとって、団地は重要な舞台であるようだ。彼女自身も、大阪の団地で暮らした経験があるらしい。だが、彼女が表現するのはかつての高度成長期、国の繁栄と人口増加の象徴のようであった華やかなりしころの団地の姿ではなく ― 昭和30年代には東京の団地を皇太子(今の天皇)夫妻が視察に訪れたほど脚光を浴びたものだったが ― もはや時代から取り残された過去の遺物のような、いってみれば「近代化遺産」にも似た古くさいたたずまいである。

 『団地層』は、そんな団地から住人がひとりもいなくなり、ぎっしり押し込められた家財道具ばかりが残った情景だ。もちろんアニメーションであるから動くわけだが、生命体は何も残されていない。動くのは、団地自身なのだ。四角く区切られた部屋べやの壁が内側からどんどんせり出してきて、冷蔵庫とかテーブルとか戸棚とか流し台とかが、虚空に散らばっては消えていく。

 展覧会の最初のフロアで、ほとんど一寸先も見えないほどの真の闇のなかを、そんな映像が流れるのに出くわすのだ。床にはいくつかのクッションのようなものが置いてあって、そこに寝そべって作品を見上げることができるようになっていた(ただしクッションの存在に気がつくのは、眼が暗さに慣れてきてからだ)。まるでプラネタリウムのようであるが、降ってくるのは無数の星ではなく、人の生活のにおいが染み付いた身のまわりの品々なのである。

 ふと気づくと映像が逆回転しはじめ、散らばった家具たちがふたたび集まってきて、団地の部屋べやへと納まっていくではないか。ぼくは大いなる徒労を眺めている思いがした。そしてその徒労感は、束芋のアニメ作品を観ているときに切り離すことができない感情なのである。ストーリーがあるようでないような、結末がないようであるような世界。考えてみれば、それは何ということはない、現実世界そのままではないか。

 われわれは退屈してしまわないために、現実のなかにさまざまな虚構を持ち込もうとする。“オタク”たちが熱中しているのがそういうことだとしたら、束芋の映像は、それらをすべて見抜いたクールな目線で構成されているといえるかもしれない。アニメ特有のファンタジー性は、ここにはかけらもないのだ。

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 けれども、奇妙な符合がぼくを別の考えに引きずり込んだ。その日はたまたま9月11日だった。つまり9年前の同じ日、ニューヨークであの大規模な同時多発テロが起き、21世紀が平和な世紀であるようにという人類の夢は、ふたつの高層ビルとともに一瞬にして滅び去ったのだ。

 その瞬間、地上には数え切れないほどのオフィスからばらまかれた道具類やら書類やらが、そして人間たちもが飛び散っていったという。そんな“非現実”としか思えない光景を、ぼくは『団地層』に重ねてぼんやり思い描いていたのである。ただそれは絶対に逆回転し得ない事実だというところが、束芋の作品とは決定的にちがっていたけれど。

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