てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

去年の暮れ、東京のあれこれ(5)

2013年02月17日 | 美術随想
メトロポリタンでの時空の旅 その3


ウジェーヌ・ドラクロワ『嵐の中で眠るキリスト』(1853年頃)

 最近、ルーヴルが所蔵する名画『民衆を導く自由の女神』が落書きされたということでも話題になった、ドラクロワの絵が展覧会場に一枚混じっていた。ごく小さい絵だったというせいもあるが、まさしく“混じっていた”という表現がぴったりなぐらい、それは不意にあらわれた。

 ドラクロワはロマン派を代表する存在だから、別に宗教画などを描く必然性はなかったのかもしれないが、実際にはキリストが登場する絵や、聖書の一場面を描いた作品を残している。ただし、そこには信仰の気高さよりも、物語のクライマックスのような迫真性が前面に押し出されている。

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 といっても、この『嵐の中で眠るキリスト』は、さほど迫力にみちているようには見えない。だいたい、肝心のキリスト本人が、片肘を付いて眠っているからだ。船の舳先近くにいる、頭から後光が射しているのがキリストだが、そのポーズは前にも書いたことがあるように「憂鬱質」を象徴しているといえなくもない(「東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (10)」参照)。しかしここでは、ただ惰眠をむさぼっているところにも見えるのである。

 船に同乗している弟子たちは、嵐の到来に慌てふためいている。両手を差し伸べて助けを求めたり、布切れを振り回したりしているところは、やはりジェリコーの『メデューズ号の筏』が念頭にあったにちがいない。ジェリコーがこの大作を描くとき、友人であったドラクロワは、群衆のひとりのモデルを務めたといわれているからだ。


参考画像:テオドール・ジェリコー『メデューズ号の筏』(1819年、ルーヴル美術館蔵)

 ドラクロワが例の『民衆を導く自由の女神』に取り組んだ際にも、『メデューズ号の筏』から多大なインスピレーションを得ていることは、ほとんど明白だと思う。風にひるがえる布を頂点とした三角形といい、前景に累々と横たわる死体といい、類似点がいくつか数え上げられる。


参考画像:ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1830年、ルーヴル美術館蔵)

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 それと比べてしまうと、『嵐の中で眠るキリスト』は断然おとなしい部類に属するということになろう。たしかに荒れ狂う波の描写にはリアリティーがあるけれども、観ている者をはらはらさせるほどではない。それはこの絵が聖書のエピソードを描いた挿画的なものであって、画家が生きた時代を生々しく表現するものではないからだ。すでに50代の半ばを迎えていた彼は、ロマン主義運動の先頭に立って規模の大きな仕事を手掛けることよりも、おのれの身の丈に合った、親しめる絵画を描こうとしたのかもしれない。

 揺れる船のなかで悠然と寝ているキリストは、ぼくには芦の葉に乗って揚子江を渡ったという達磨大師の飄々とした姿が重なって見える。先ほど「惰眠をむさぼっているようだ」と書いたが、それはことさらにキリストを神格化するのを避けるためだったともいえる。ドラクロワはやはり、新しい時代の画家だったのである。

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