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ところで、“絶筆”の定義にもいろいろある。画家が文字どおり死ぬ間際まで手がけていた未完の作品、あるいは生前最後の展覧会に完成作として出品された作品、などであるが、いずれにせよ画家の人生の終盤に描かれているという点では共通しているはずだ。
だが、曽宮一念(そみや・いちねん)の“絶筆”にかぎっては例外である。この『毛無連峯』(上図)という油彩画は1970年に描かれているが、画家がこの世を去ったのはそれから実に24年後のことであった。ではなぜこの絵が“絶筆”なのかというと、彼はこの一枚を最後に、どうしても絵を描くことが出来ない状況へ追い込まれざるを得なくなったからだ。要するに、この画家は視力を完全に失ったのである。
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ぼくが曽宮一念の名前をはじめて知ったのは、洲之内徹の随筆の中だったと記憶するが、曽宮自身もかなりの文才に恵まれた人物で、エッセイの賞をもらったりもしている。画家を廃業した彼はもっぱら文章と“へなぶり”(狂歌の一種)とに健筆を振るっていて、みずからの生涯を簡潔に振り返った「『敦盛の首』から『白い舟』まで」(木耳社刊『にせ家常茶飯』所収)には往時の記憶が鮮明に記述されているが、失明に至る経緯は淡々と記されるにとどまっている。
《学生のころから春先には頭痛が続いて体も不快になり、目がボヤけるので、眼科を訪ねたが異状無しと言われた。上野や銀座の展覧会を見た帰りのバスの中では激しく痛んだ。秋から冬には軽くなるので仕事をしたが春、夏にはまた繰り返す頭痛に悩まされた。だから私の作品は秋、冬のが多く、夏の物は頭痛に耐えて無理にかいたものがある。》
病気の兆候は、かなり若いころからあったようだ。それから一気に時代はくだり、すでに画家として一家をなした曽宮は、74歳のときにはじめてヨーロッパを旅行する。帰国後の様子を彼は次のように綴る。
《一月中旬、帰宅した翌日からスペインものをかき始めた。冬は体調が良く、毎日かき続け「海の落雷」には失敗したが「スペインの野」「トレド城山」をゆかいにかいた。翌年になると原作の鉛筆の線が見えにくくなり、画布の右端を書き残すことがあった。四十五年春、ホンテヌブローの森の木に褐色も黒も濃く見えぬので油絵をやめた。日本紙に墨絵をしばらくかいていると、かいた上に二度墨を重ねる失敗をするので絵筆を捨てた。かねて予期した失明だから慌てなかった。
その十年前、緑内障の進行を肥後医師が「十年保てば八十近くで人間の寿命だから目と体と同じ寿命にしたい」と言った。私は八十まで長生きできそうで喜んだが、体だけが生き残った。しかし私は「うまくない絵で恥をさらすよりもさっぱりした」と負け惜しみを言った。あっさり思い切ったのに絵をかく夢を時々見た。前より良い出来なのには恐れ入った。》
廃業したとはいっても、彼はやはり根っからの画家だったようである。
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『毛無連峯』を描いたとき、曽宮一念はすでに77歳だった。普通の人でもそろそろ視力が弱ってくる年齢であるが、曽宮がとらえた風景は実に広大だ。遠くに見える山脈と、手前にせり出してくるような迫力ある雲とが、ダイナミックな遠近感をかもし出している。
緑内障という病気は視野が徐々に狭まっていき、あげくの果てに失明に至るというものらしいが、この絵の雄大な景色の広がりを眺めているととても信じられない話である。ましてやこのとき、曽宮はすでに右眼を摘出していたというから驚かずにはいられない。
もちろん、そのときの彼にこのような風景が見えていたわけではないだろう。ある対談の中で、彼は次のようにも語っている。
《僕は実生活のうえでは「ドント テル ア ライ、オネスト イズ ザ ベスト ポリシィ」なんですよ。嘘をつくな、正直が最上の手段ということです。そして「嘘をつくなら絵のうえで、うんとつけ」というわけです。つまり僕の絵はみんな嘘なんですよ。》(「鮨屋会談」、前掲書所収)
だが曽宮は何十年という間、日本の風景を見つづけてきた。視力の衰えとは反対に、彼の心の眼にはスケールの大きな景観が焼きついていたのにちがいない。心の風景と向き合い、思う存分絵筆を走らせ、彼はそっと画家生活に別れを告げたのである。
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「八十まで長生きできそう」だといって喜んだ曽宮一念は、結局101歳の天寿をまっとうして世を去った。絵筆を捨ててからの長い余生を、彼は最後まで前向きに生き抜いたのだった。
(静岡県立美術館蔵)
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