『流しのピエレット・ドリオン』1953年
ドアノーには、著名人を撮影したポートレートも数多い。ピカソ、ジャコメッティ、ボーヴォワールといった芸術家や作家、シャネル、ディオール、サンローランといったデザイナーたち、そして洗練されたモードを身にまとった女優たちなど。華やかだった往年のパリを彩った、綺羅星のごとき才能のオンパレードといった感じである。
だが、ドアノーは偶然出会った名もない女性に惹きつけられ、彼女のあとを追いかけたことがあるという。流しでアコーディオンを弾いていた、ピエレット・ドリオンがその人だ。ぼくは彼女について詳しいことは何ひとつ知らないけれど、ドアノーが魅了されたのもよくわかる。その硬質な美貌は、どことなくディートリヒを思い出させるものがなくもないが、氷の結晶のように背筋をぞくぞくさせる妖しい魔力をもっている。
流しのアコーディオン弾きというと、以前にも書いた“オイチニの薬売り”を思い出してしまう。酒場を流して歩くアコーディオン弾きというのがどれぐらいいるのかわからないが、少なくともぼくには初耳であった。楽器ひとつに人生をかけてたくましく生き抜くピエレット・ドリオンの姿には、女優やモデルにありがちないやらしい媚びはなく、不憫な野良犬のような哀れさもない。その華奢な肩には不釣り合いなほど大きく見えるアコーディオンをかかえつつも、彼女はいささかもよろめかず、疲れた顔も見せずに毅然としている。これほどの矜持をもって仕事をしている人間というのは、現代においてもめったにあるものではない。
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思うに、ドアノーは彼女の美しさに魅せられたばかりではなかったのだろう。カメラひとつでパリという街に立ち向かっているドアノーは、おのずと響き合うものを感じ取っていたにちがいない。撮る側と撮られる側と、立場は反対だが、そこにはやり直しのきかないぶっつけ本番の芸におのれをかける者たちの凄絶さがある。戦場カメラマンでなくとも、すべての写真家にとってカメラは武器なのだということが改めて思い出されてくる。
こういった写真を観ていると、撮られるときについ笑顔を作ってしまうという今の風潮の奇妙さが、じわじわとあぶり出されてくるような気持ちにさえなる。聞くところによると、新型のカメラには被写体が笑顔になると自然にシャッターが切られる機能があるという。開発者は何を考えているのか知らないが、これこそカメラという文明の利器が消費者に向かって“媚び”はじめた証左のようなものだ。コミュニケーションの道具に堕してしまったカメラには、いったいどんな未来が待ち受けているのだろうか・・・。こんなことまで考えてしまう。
はっきりといえることは、そんなカメラを使っていては、ピエレット・ドリオンのように時代を超えて人々の胸をうつ姿は一生かかっても撮れはしないということである。
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