藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

広島市中央青年学級「羽立会」50周年記念同窓会顛末記(3)

2015-07-09 14:19:41 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和43年3月 三年間の学習会活動を、今後も続けるか会員で話し合った結果、それぞれの課題がはっきりして来たので、今後はそれぞれがそれぞれの課題に取り組もうという事になった。 自主的解散である。 一部の会員は、大学の通信教育に挑戦を始め、私はボランティア活動に進み、はたまた資格試験に挑戦したものや、プロのミュージシャンに成ったものもいる。

 それでも、最低5年に一度は同窓会を何とはなしにやってきた。 今回で五回目の同窓会であった。 会の会員が最大時八十名近くいたが、大学卒業や、看護学校創業と同時に故郷に帰る者や、東京に就職する者等で、連絡可能な会員数は六十名程度であったであろうと思われる。 

 そのうち今回時間的に都合のついたものが十八名集まった。 集まれなかった会員の中には、福祉施設を退職後も、土曜、日曜、休日等の責任者として未だに社会福祉関係に携わっているものもいる。 ガソリンスタンドの経営者の入り婿からの、百八十度の人生転換を行い、社会的信頼を受けている。 地域社会のリーダーとして活躍しているもの・・・・・・・。多士済々である。 中には「日本棋院」の広島支部のお世話で忙しく参加できなかった者もいる。 久しぶりの顔合わせで、会の結成当事の話題がやはり飛び出した。 特に昭和41年、浜井信三市長を呼んで、「原爆ドーム」解体論に異議を唱えたときの会合は皆の脳裏に焼きついていたようである。

 話題は誰が「市長」を呼んできたのかに行き着いた。 私が市長秘書課に飛び込みで要請した事は皆忘れていた。 偶々昭和41年の成人式で、当時の灘尾広吉文部大臣と新成人とのTV対談で都市型青年の家「青少年センターの建設」が決まり、広島市は「寝耳に水」 状態であり、裏で画策した犯人探しがされて、市長と私の間で話し合いがもたれて、それ以来市長との間で約束が存在することとなった。 市政に関わることは事前に秘書課と話し合うということであった。 その関係で私が市長のお出ましをお願いしたのだ。

 その時の会場の外には、理美容青年会、広島市青年連合会等の会員も押しかけ話に耳を傾けていた。 この時の会合が後々、「広島市青年団体連絡協議会」に繋がっていき、登山グループから労働組合まで若者が常にコミニケーション出来るようになっていった。

 太田川を挟んで北に向かう幹線道路54号線と共に、重要な県道37号線が新しいルートで広島城西側から付け替えられて、「新工兵橋」が付けられたとき、「旧工兵橋」の撤去がなされようとした時、これを阻止したのは、広島市青年連合会を中心にした連絡協議会があったからである。 広島の新しい平和運動の日が灯るやに思われたが、後継者不足は解消できなかった。 

 高度成長期の波の中で「自己中心」的集団が増えて、少人数の他とかかわらない集団が増えていった。


「はだしのゲン」にも出てくる橋「工兵橋」

2015-07-08 08:32:21 | 日記・エッセイ・コラム

 

 工兵隊第五連隊が戦前作り、本体宿舎(広島城北側現基町高校あたり?)と東練兵場(現在の広島駅北側一帯、広島カープ発祥の地とされる)を行き来するのために作られた。 南の袂は桜の名所、河岸公園長寿園、渡れば牛田という農村地帯であった。

この橋は(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。この橋は爆心地から北北東約2.3kmに位置し。被爆当事、白島町の周囲の民家が全焼する中、床版の一部が落下していたが、爆風方向に対して平行に架かっていたため落橋はしなかった。そのため、広島市内から郊外(牛田方面)への市民の避難路として使われた。その際、憲兵隊が立ち、一時牛田方面から市内へ入ることは制限された。 現在の橋は、昭和二十年代に架け替えられたが、この橋の袂周辺で多く勤労学徒が息を引き取って行った。 橋の袂は昔ながらの楠木が生い茂る。 戦前の姿を髣髴させてくれる数少ない場所である。

JR白島駅、アストラムライン白島駅より北に徒歩七分。

  私の父は、この橋の周辺から幾人かの被災した知人の子供たちを見つけ己斐の町に連れ帰った。  命ながらえて、父の葬儀に参列していただいた。

広島城から北に県道37号線を歩くと十五分で行ける。 機会があれば、広島の歴史の証人として現在もたたずむこの橋をお尋ねいただきたい。、

この橋も存続の危機があったが、広島の青年の運動で残ってきた経緯がる。


今年も八月六日が近づいてきた。

2015-07-07 19:34:41 | 日記・エッセイ・コラム

広島にお越しの際は、是非とも見ていただきたいのが次の二箇所である。

最初は西区江波山の頂上にある、日本でただ一箇所の気象台博物館。 被爆当時の樋や、窓枠など当時のまま保存されている。 今ひとつが、あまり知られていない場所で、「広島が空襲によって壊滅的状況」であることが打電された場所である。 打電したのは、勤労奉仕中の女学生である。 その無線信号が発せられたのが、広島城南西部分に有った「中国管区指令本部」の地下壕だ。 

立ち入りは出来ないが、この地下壕から発せられた無線を、福岡の部隊が傍受。 広島が壊滅的状況であることが東京に知らされた。

本日午前中に訪ねてくれた市議会議員に、八月六日の前後三日間は一般に開放すべきむね要望しておいた。 広島城では、多くの兵士や動員された学徒が原爆の被害者となった。 しかしながら軍の上級幹部は、今私が住んでいる「可部町」の高等女学校に疎開していて、誰一人被害者とはなっていない。

あの惨状から七十年が来る。 今再び、戦場に若者を駆り立てる法整備がなされようとしている。

歴史が再び繰り返されるのであろうか・・・・・・・・。 広島にお出かけの切は、お城の西側入場門から入って左側を注意して進んでいただくと写真のような施設が見つかるであろう。 七十年前ここで起きた惨状を語り伝えたいものである。


広島市中央青年学級「羽立会」50周年記念同窓会顛末記(2)

2015-07-07 08:13:22 | 日記・エッセイ・コラム

さて、4月の第一日曜日、当時の中央公民館に集まった若者は、最初から「ただで(広島弁で無料をいう)勉強できるチャンスは逃さない」という気概を持った連中であった。 

 広島大学在学中のT君を始めとして、大学在学中の者も多数いた。 特に女子に大学生が多かった。 男女交際が、難しい時代であった事が背景にある。 広島市教育委員会後援の勉強会に、参加することを親も反対できなかった。 当時の女の子には「門限」が有った。 社員寮や、親から厳しく指導されていたが、「羽立会」だけは、天下御免で「門限破り」が出来た。 何せ広島市教育委員会公認なのだから。 

 さて、初会合の「総合的進行役」を、私が押し付けられた。 盗難事件時の私の対応を見て、「面倒なことは、この男にやらせよう」と全員が思ったようである。 その後もこの傾向は続いた。 このことが私の職業上の力を付けさせてくれた。

 今考えると、女性陣に美人で聡明な人がが多かったことは確かである。 甘いものに蟻が群がる様に、その後男性会員が飛躍的に増えたことからして間違いない。

 広島には、「三菱造船」、「東洋工業」(現マヅダ)、熊平金庫、・・・・・・それら関連下請企業等、男中心の会社が多かった。 俗に言う、大手企業。 結婚前の若き女性にも魅力十分な集団であったことは確かである。 

 話は早かった。 やる気満々の一同の下、会の名前から決める事として、昭和20年生、新成人の20歳、この「20」がキーワドとなり、未来に羽ばたこうと「羽立会」(はたちかいと読む)と決した。 ちなみに名付け親はH女子。 最初から「カカー天下」の会となった。 「会則等検討委員会」を立ち上げて、この日の会合は終了。

 しかし、そのまま解散とはならなかった。 教育委員会の職員が、「コーヒーでも飲んで帰りませんか」と声をかけたのがきっかけで、会合の二次会となった。 その「コーヒー」を飲ませてくれたお店が、後々我々の「第二のホームグランド」となっていった。 店の名は、喫茶「琥珀」。 今は無い。 五十年の歳月が、思い出の場所を少しづつ消してゆく。 この喫茶店が、二十組以上のカップルを誕生させていった。 同じ会員同士は二組であるが、他のグループとの交流の場とも成り、多くのカップルがうまれ、後々「結婚」へとなったのである。 私もその中の一人だ。

 不思議にこの集団には「離婚」したものがいない。 死別したものは、幾組かはある。 皆そんな年齢になっていたのだ。 今や私も70歳である。 あれから50年。・・・・・・


広島市中央青年学級「羽立会」50周年記念同窓会顛末記(1)

2015-07-01 12:32:19 | 日記・エッセイ・コラム

 広島市中央青年学級「羽立会」とは。

昭和40年1月15日、広島市の成人式は建設されたばかりの旧県立体育館で行われた。 対象者は、「昭和20年生まれ」(原爆投下の年に生まれた)の、この年成人に達する若者であった。 成人式の会場で、広島市教育委員会が、「新成人の為の政治教養講座」の募集していた。 

 新成人の為の「政治教養講座」は、昭和40年の2月と3月で合計6回の講座であった。 一回が約に2時間。 会場は、「旧広島市中央公民館」、旧広島市民球場の北側に位置し、周りは「原爆スラム」の中に位置し、木造平屋建て、200人用のホールと、30人が入ると一杯の講義室が二つ、の粗末なものであった。 しかし、 講師には広島大学の名だたる諸先生や、後に「家裁の人」のモデルになった家庭裁判所の先生など、多士済々であった。 最終回は、平和公園の中の「原爆資料館」の会議室で行われた。 日時は、3月の最後の日曜日で、この日だけ「昼食費」が参加費用として徴収された。 最後の行事、「記念撮影」の為に、荷物を会議室に置いたまま屋外に出た。 「峠 三吉」の詩碑の前での記念撮影の時、事件が発生した。 空き巣が入ったのだ。 貴重品が全て無くなっていた。 この事件が、若者たちにどの様な影響を及ぼしたかは定かではないが、少なくとも被害の救済を申し立てたのは言うまでも無い。 

広島市の職員である、「警備員」が常駐していての事件だけに、私は許せなかった。 被害の無い私が一番強行に保証を要求した。 広島市との「喧嘩」の始めである。結果は、後日、盗難が証明できる物については、広島市が弁済することとなった。

最後の閉会の時に、「もし皆様方が続けて勉強したいのなら、広島市は引き受ける準備がある」との言葉が、教育委員会から青年たちに投げかけられた。

その場で、4月第1日曜日に検討会を開こうということに成った。 一つには、「空き巣被害」の問題解決もあったからである。当初の参加者は、28人であったように記憶している。 それからの3ヶ月間で会員は倍増して行く。