藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

今年も八月六日が近づいてきた。

2015-07-07 19:34:41 | 日記・エッセイ・コラム

広島にお越しの際は、是非とも見ていただきたいのが次の二箇所である。

最初は西区江波山の頂上にある、日本でただ一箇所の気象台博物館。 被爆当時の樋や、窓枠など当時のまま保存されている。 今ひとつが、あまり知られていない場所で、「広島が空襲によって壊滅的状況」であることが打電された場所である。 打電したのは、勤労奉仕中の女学生である。 その無線信号が発せられたのが、広島城南西部分に有った「中国管区指令本部」の地下壕だ。 

立ち入りは出来ないが、この地下壕から発せられた無線を、福岡の部隊が傍受。 広島が壊滅的状況であることが東京に知らされた。

本日午前中に訪ねてくれた市議会議員に、八月六日の前後三日間は一般に開放すべきむね要望しておいた。 広島城では、多くの兵士や動員された学徒が原爆の被害者となった。 しかしながら軍の上級幹部は、今私が住んでいる「可部町」の高等女学校に疎開していて、誰一人被害者とはなっていない。

あの惨状から七十年が来る。 今再び、戦場に若者を駆り立てる法整備がなされようとしている。

歴史が再び繰り返されるのであろうか・・・・・・・・。 広島にお出かけの切は、お城の西側入場門から入って左側を注意して進んでいただくと写真のような施設が見つかるであろう。 七十年前ここで起きた惨状を語り伝えたいものである。

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広島市中央青年学級「羽立会」50周年記念同窓会顛末記(2)

2015-07-07 08:13:22 | 日記・エッセイ・コラム

さて、4月の第一日曜日、当時の中央公民館に集まった若者は、最初から「ただで(広島弁で無料をいう)勉強できるチャンスは逃さない」という気概を持った連中であった。 

 広島大学在学中のT君を始めとして、大学在学中の者も多数いた。 特に女子に大学生が多かった。 男女交際が、難しい時代であった事が背景にある。 広島市教育委員会後援の勉強会に、参加することを親も反対できなかった。 当時の女の子には「門限」が有った。 社員寮や、親から厳しく指導されていたが、「羽立会」だけは、天下御免で「門限破り」が出来た。 何せ広島市教育委員会公認なのだから。 

 さて、初会合の「総合的進行役」を、私が押し付けられた。 盗難事件時の私の対応を見て、「面倒なことは、この男にやらせよう」と全員が思ったようである。 その後もこの傾向は続いた。 このことが私の職業上の力を付けさせてくれた。

 今考えると、女性陣に美人で聡明な人がが多かったことは確かである。 甘いものに蟻が群がる様に、その後男性会員が飛躍的に増えたことからして間違いない。

 広島には、「三菱造船」、「東洋工業」(現マヅダ)、熊平金庫、・・・・・・それら関連下請企業等、男中心の会社が多かった。 俗に言う、大手企業。 結婚前の若き女性にも魅力十分な集団であったことは確かである。 

 話は早かった。 やる気満々の一同の下、会の名前から決める事として、昭和20年生、新成人の20歳、この「20」がキーワドとなり、未来に羽ばたこうと「羽立会」(はたちかいと読む)と決した。 ちなみに名付け親はH女子。 最初から「カカー天下」の会となった。 「会則等検討委員会」を立ち上げて、この日の会合は終了。

 しかし、そのまま解散とはならなかった。 教育委員会の職員が、「コーヒーでも飲んで帰りませんか」と声をかけたのがきっかけで、会合の二次会となった。 その「コーヒー」を飲ませてくれたお店が、後々我々の「第二のホームグランド」となっていった。 店の名は、喫茶「琥珀」。 今は無い。 五十年の歳月が、思い出の場所を少しづつ消してゆく。 この喫茶店が、二十組以上のカップルを誕生させていった。 同じ会員同士は二組であるが、他のグループとの交流の場とも成り、多くのカップルがうまれ、後々「結婚」へとなったのである。 私もその中の一人だ。

 不思議にこの集団には「離婚」したものがいない。 死別したものは、幾組かはある。 皆そんな年齢になっていたのだ。 今や私も70歳である。 あれから50年。・・・・・・

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