藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

小学校のクラス会と広島市青年学級同窓会

2015-05-26 15:28:07 | 日記・エッセイ・コラム

 小学校のクラス会を開催して欲しいとの要望が、東京在住の同級生から寄せられた。 中高一貫校で育ち、大学卒業後、転勤族となった同級生も今年70歳となる。 多くが終戦の年に生まれ育った。

 高校の同窓会に広島に帰省するので、それにあわせて同級生の顔が見たいとのご要望である。 何時もならば気持ちよく請合うのだが、この年になってみると、「病床」に就いていたり、「鬼籍」に行ったりの情報を、誰よりも持ち合わせている自分は、あまり気乗りしないのである。 「恙無い」の言葉など「どこか遠い」といった心境なのである。

 かく云う私は皮肉にも、「ツツガムシ病」に感染してしまった。 早や二十日になるが、未だに元気が出ない。 

 先日私の古い記録を整理していると、昭和41年頃の記録が出てきた。 その記録を読んでいた奥様は「是非ともNHKの戦後70年番組の担当者に読んで欲しい」と言い出して、NHK広島のディレクターに届けにでかけた。 非常に興味を示されて、「お貸し願いたい」とのご要望のもと置いて来た。 

 その資料の中に、昭和40年頃から「原爆ドーム」解体運動が起こり、国や行政も「崩壊の危険性がある」の結論で、解体することが市議会で検討され始めた事に、「二十歳」そこそこの私とその仲間が、「広島市青年学級」の学習会として、当時の広島市市長「浜井信三」氏に「旧中央公民館」の一室で、その真意を問い質した集会の記録が残っていた。   

 昭和41年の初夏のことだ。 当時の「被爆者差別」の根源が、「原爆ドームの存在が一因だ」という世論が一部には存在したし、「原爆を売り物にしている」という批判も確かに存在していた。 原爆スラムも広島の中心部の大半を占めていた時代である。

 この会合がきっかけとなって、広島市内の青年たちが結集し、「原爆ドーム」保存活動が再燃した。 当時の保守系市議会議員の大半は、「原爆ドーム解体論」だったが、この集会がきっかけとなり態度が変わり、被爆者団体も「保存」に大きく舵を切った。

 こんな小さな会合から、「世界遺産 原爆ドーム」は生まれたと今では思っている。 井伏鱒二著の「黒い雨」も後押ししてくれたことは確かである。 保存の決定までには、その後長い年月が要したが、若者が発した小さな声が実を結んだことは確かである。 その時行動を起こした「青年たち」は後に、広島市内の「PTA」や「町内会」、「労働組合」の中心的人物となり、「原爆ドーム保存運動」の中心に居続けたからである。 今や嘗ての青年も、「後期高齢者」である。

 当時の仲間と、この30日に同窓会をする。 どんな話が飛び出すか・・・・・・。 私の悪行を知り尽くした仲間だけに行くのが怖い。・・・・結果は何れ「報告」いたします。

コメント (2)
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