藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

被爆者差別

2015-05-27 08:14:04 | 日記・エッセイ・コラム

 原爆被爆者の健康差別、結婚差別問題は、アメリカによる「ABCC」(Atomic Bomb Casualty Commission)の設立以来、世間では影で囁かれていた。 「奇形児出産」、「白血病」、「各種癌」、「原爆白内障」等々・・。「謂れ無き差別」は存在していた。

 「ABCC」の存在が、より「被爆者差別」を助長しているとも言われた。 特に昭和40年、大江健三郎が発表した「ヒロシマノート」が出版されると、被爆者差別は一段と激しさを増した。

 正確な医学的知識の無い一般人は、「被爆者」を「放射能の塊」的視点で見ていたことは確かである。 その事は私自身も感じてきたことだ。 広島から東京、大阪、名古屋等の大都会に転出して行った「ヒバクシャ」 を待ち受けていたのは、「謂れ無き差別」であった。 その人たちが、「広島=ヒバクシャ=放射能」の「鎖」から解き放たれたくて、広島に存在する「悲惨さの象徴的建造物」の撤去を求める運動を起こした。 当時保守的政党に属した人達が中心であった。 「旧軍人」の一部や「各種遺族会」の一部等がそうした運動の中心であった様に思う。 「学徒動員遺族会」もこの問題で分裂していった。 「核兵器廃絶運動、平和運動」も完全に分裂した。 その事が後々「原発容認」の流れになっていったように思う。

 昭和20年8月6日、「ヒバクシャ」が助けを求めて、大量に押し寄せた「己斐国民学校」(己斐小学校)が、救護所となった校舎の建替えにいち早く着手されたのは、こうした「市民感情」が後押ししていた。 昭和31年のことである。 昭和27年、私が小学校に入学したとき、教室や廊下の「腰板」が「床」より新しかったことを覚えている。 校舎の「腰板」は、「ヒバクシャ」の火葬の為に剥ぎ取られて、校庭に掘られた塹壕で火葬の燃料にされた。 火葬の燃料にされた腰板の灰と遺骨は、そのまま埋設されていた。 昭和26年8月迄、遺骨の収集はされなかった。 市民感情としては、そっとしておいて欲しかったのである。 然しながら、雨が降るたびに遺骨が校庭から顔を出すようではと、遺骨の収集が行われることになったのは、昭和26年の事である。 学校の夏休みにそれは行われた。 夏の暑い盛りに見学に出かけた記憶がある。 己斐小学校は、 8月6日広島市内の小学校で、唯一「原爆被害者」の慰霊祭を今日まで続けている。 その所以である。 その時発掘された遺骨は、2000体以上と言われている。

 子供の頃、「己斐小学校の桜がきれいに咲くのは、死体の栄養を十分に吸ったからだ」言われていたし、事実すばらしい花を咲かせていた。 その桜も今は無い。 「過去の封殺」が行われたのである。 素晴らしい藤棚とともに。 原爆の生き証人が次々に抹消された時期がある。

 そんな中で、広島の県議会や、市議会から原爆ドーム解体の烽火が上がった。 その意見にただ一人反対されたのが、「丹下健三氏」であった。 広島大学哲学科の「角 秀一」教授も反対の声をあげられた。

 そんな状況下で、国の予算で勉強している「青年学級」の若き青年たちが、市長の考えを聞こうと企画したのが、「原爆ドーム」保存運動の再燃になっていった。

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