奥様のブログ「山姥珍道中記」を読んでみたら、 沼田川の流れを見ていると、まさに、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・。」と、鴨長明のような気分になってきます。
と 、皆様に報告していました。・・・・・・・ハハーン奥様、沼田川(ぬたがわ)をお渡りになるとき、川面に鴨三羽優雅にお過ごしの姿を見つけて、こんな気分になったのだろうと思い、本人にたずねてみたら「図星」。 先ずは鴨の姿お見せして・・・・・。
お話は一昨日の続きです。
江戸時代の山陽道を西に進むこと五百メートル、右手に一つの石碑、そのわきに急な階段があり、「天神様」がお祭りしてあった。
文面には、
甑靈泉
寄付者 今田国吉
発起者 中村謙助
古昔醍醐帝延喜元年菅公西
謫ノ際茲ニ御船ヲ寄セラレ手ヅ
カラ此井ヲ鑿チ給ヒ地人清水ヲ
以テ炊飯献リシ遺跡ナリ
昭和三年四月
北方小学校校長 河原義雄謹書
と、あり 菅原道真が大宰府に流されるとき、水を求めて船を寄せた場所だそうだ。 船を寄せては見たものの、この地は当時水がなく、人も住まない処であったが、菅公自ら井戸を掘られたところ、「清水」が、こんこんと 湧き出したそうである。
天神様の境内から、山陽道を見下ろしてみた。 後にはこの地が、港の役目を負ったそうである。 江戸時代浅野藩の郡役所がこの地に置かれた訳は、港が存在し、島々の取り締まりに便利であったからであろう。
菅公にまつわる話は、広島県には少ないが、私が知る限りでは二つ目である。
明日は・・・・・あてにしないでください。 今一つの菅公のお話と、本郷の町並みを紹介したいと思います。
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