普通どの様な本でも目次が存在する。 この本には目次が無い。 いや有るのだが、「本文」、「後書き」、それに著名な作家五人の「跋文」と記されているだけである。 本文は段落が無いが、小さい見出しは有る。 漢字とカタカナで記され、文語体である。 時間の経過と共に大和が最期を迎え、筆者が救助されるまでの記録である様だ。 しかも、実際に経験した事実のみが記録されているようである。 二ページ読んだところで、「跋文」が気になり始めた。 吉川英治の跋文を読んで、この本が書かれた経緯を知り、感動している。 作者は、大和の沈没から辛うじて生き残ったのだ。 復員して親元に帰ったら、その親の疎開先が、吉川英治と同じ所、吉野で、疎開者仲間であったそうである。 親子で吉川英治宅を訪ねた時、吉川英治が、生死の境を通って来た記録を残しておくと良いと、アドバイスしたそうである。 その事がきっかけで、記録に留めて置いたものだそうである。 吉川英治は、広島とは縁が深い。 広島は嘗て浅野藩であった。 その浅野藩の家老職の一人に「古川家」がある。 その古川家の一流れの子息に、私の同級生がいる。 小学校六年間同じ組であった。 その古川家は、戦後原爆孤児の為の支援を行っていた。 特に東京に寮を作り、就職時の保証人になって支援していたが、その孤児の中には成績の良い子供がおり大学に進学させてやりたいと思っていたが、資金的に難しかったそうだ。 その時吉川英治が、毎年四人の子供の支援を申し出たのだ。 常時十六人の学資を支援してくれたのだ。 此の事は、自分が戦争加担者であるとの認識からだそうであった。 戦後も著述活動を自粛して、そうした福祉活動をしていたそうである。 昭和二十五年、新平家物語で復活するまでの間、自粛は続いたそうだ。 原爆孤児に対する支援は、昭和四十一年まで続いたそうである。 この事実は、あまり世間には知られていない。 同級生の古川君の父親から聴いて、私も初めて知った。 昭和四十一年の事だった。
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