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 藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

さて二番目は・・・

2019-06-27 15:34:10 | 日記・エッセイ・コラム

 最初の自殺の名所から、西に山陽本線に沿って100m行き、左に折れて新己斐橋を渡ると、西日本最大の被差別と言われた福島町だ。 この町は戦国武将「福島正則」に従って武具を作る集団が、移住してきた街である。 鎧兜に必要な皮を鞣す集団がそこに存在した。今でも一大産地である。 その橋を渡らず300m進むと己斐駅である。さらに西に進むと最初に書いた「別れの茶屋」に至る。 ここで東から旭橋を渡ってきた旧山陽道が交わる。 そこから300m進むと最初の踏切が存在する。 山陽本線と旧山陽道が広島市内で初めて交差する所だ。 ここは人家も多く自殺した記憶は一度だけだ。 若く美しい女性だった。 そこから150m進むと私が生まれた家がある。 私の生家は、山陽本線と旧山陽道に挟まれた家だった。 一日中機関車の音の中で生活していたので、山陽本線に異常があるとすぐに気が付いた。 汽車が止まるといつものリズムと違うので目が覚めるのだ。 この辺りから、旧山陽道は山の手を行く。500mほど進むと、左手に戦前からあったコンクリート作りの県営住宅が4棟あり、その手前から左に曲がって畑の中の道を進むと、日本で一番古いといわれた知恵遅れの子供たちの施設、「六方学園」があった。 その先は山陽本線で残りは一面の「蓮畑」。 真夏になると天国を思わせる光景が広がる。 蓮の花が一面に咲くのだ。 そう、ここが二番目の自殺の名所だ。 昭和24年、終戦間もない時、天皇陛下が突然に、この「六方学園」を訪問された。 戦争中の食糧難の時代、経営者の田中一族が、子供たちを守った功績を高く評価されたのだ。 私が初めて「天皇陛下」をお見かけしたのがここである。 個々の蓮畑は、わんぱく坊主には、貴重な食料の入手先だった。 アメリカザリガニ、食用ガエル、取り放題だったし、ここの用水路は海につながっていたので、ウナギがいたのである。 ウナギなどは取ってきて食べるものであって、買って來るものでは無いと思っていた。 この二番目の場所から、西に向かって山陽本線に沿って1600m進むと再び旧山陽道と出会う。 そこに二番目の交差点がある。 明日はここからご案内します。 

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