今日も雨である。 体調不良時には、雨が体の中を流れている感じがする。 「秋雨」も、若き日にはロマンチックであったが、この年になるとただ単に憂鬱になるだけである。
「冬季鬱」という病が、世の中には存在するそうであるが、「老人性うつ病」というのもあって不思議ではない気分である。 そんな自分が、温かい布団の中ではとろけて寝入ってしまい、夜になると目が冴えてきて眠れない。 昨夜はそうした状態であったが、ふとした事から以前から違和感を感じていた「橋下大阪市長」の提唱する「大阪都」構想に関する疑問点の一角が氷解した。
「都」とは、首都に使われる名称であって、首都でもない大阪府に使用する事が、適当であるかどうかと聞かれれば、不適当であるに違いない。 「橋下氏」が言わんとしたことは、大阪府の二重行政を解消しようということであって、「大阪都」と言う名称を使用しようという事ではなかったのは明白である。 「橋下氏」の国語力の問題であって、政治課題では無かったのである。 いわゆる「行政改革」、「行政の簡素化」であって、その「手法」と使用した呼称に、大きな誤りが存在したことが敗因である。 大阪市が、積極的に「善政」を敷き、周辺市町村が大阪市に合併して行けば事足りただけの話なのである。
タレント弁護士になって、誇大広告に慣れてしまった人間が陥る、「思考回路の突き当り」になってしまった感がある。 それは「維新の会」にも当てはまる。 だから分裂しても「当たり前田のクラッカー」になってしまったのだ。
「キャッチフレーズ」のみで、中身が感じられない構造改革は失敗に終わる。 周辺市町村が、財政危機なのならば、放って置いても何処かの、財政基盤の大きな集団に吸収されていくはずである。 たかが地方自治体の長がより大きな力を持とうとした所に、市民が反発したのが事の顛末なのではなかろうか。
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