藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

おはぎ(5)

2021-06-10 03:47:21 | 日記・エッセイ・コラム

 私が生まれて被爆したのは、現在の西区己斐西町(旧己斐西中町)。 江戸時代から、明治の中頃まで、庶民が歩いて旅をした時代の街道、山陽道の傍で生まれた。 広島の街から西に向かうには、この道を通ったのだが、広島市内からは、土橋、天満町、福島町、己斐本町と歩く道と、土橋、天満町、西の松原(観音新町)、己斐西本町の、二とうりの道が有った。本道は、先の道で、天満町には高札場があり、処刑者のさらし首がされていた。また己斐本町の橋の袂は、キリシタン専用の処刑場であったそうだ。 そこには今、清心女子中、高等学校とカソリックの修道院、修業の場がある。 三つの道の交差点(西に向かう道とで)に、「別れの茶屋」と言う「お休み処」が有って、一年中餅をついて、提供されていた。 地元の冠婚葬祭に必要な「紅白餅」や、「牡丹餅」、「おはぎ」ももちろん提供されていた。 私はその店から西に350mの所で生まれ育った。 後には、大正時代、国鉄山陽本線が延伸されて、踏切があった。その踏切の傍が大きな倉庫でその隣が、「村の鍛冶屋」と言っても、馬の蹄鉄専門の鍛冶屋だった。 此の「別れの茶屋」に有ったおはぎは、牡丹餅、白い牡丹餅、緑の牡丹餅、黄な粉の牡丹餅と、季節に合った物が有った。 朝作ったものが売れると、追加は作られない。 と言うのも、このお店は私の子供の頃は「茶店」と言うより、「餅」づくりを町の方たちから受けあって作る事が中心になっていた。 店に前は、大きな藤棚が有り、そこにはイスと机が並べられていたが、夏はその下で風呂帰りに、すり氷をすすり、アイスキャンディを頬張り、ラムネを飲んだものだ。 その姿も今は無い。今は単なる餅つき店だ。 寂しいかぎりである。 もっと寂しくなったのは・・・・・。明日又、語ります。

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