嘗てこの学校で、2500人もの被爆者が、灼熱の閃光と放射能によって死んでいった。この写真が写された13年前の事である。
死者達は、生徒達が立ち並ぶこのグランドで、校舎の腰壁を取り壊し、火葬に付され、その後4年間地中に眠っていた。
昭和34年の7月、PTAと、子供達の手でプールが作られた。以前、このブログで書いたことのある同級生の、弟の水死事件がきっかけと成り、「防火用水」名目でそれはなされた。プール開きには、全校生徒が参加したように思うが、私が父兄の席に座っている。
理由が、なかなか思い出せ無かったが、やっと思い出した。プールの安全祈願の玉ぐしを捧げる役をさせられたのだった。
私は小学校時代、いい思い出を持たない。担任の女性教師の「えこ贔屓」に4年生から反発し、余り勉強をしなかった。余りどころか、宿題は一切しなかった。いくら怒られても遣らない。えこ贔屓する先生など先生とは思っていなかった。 六年生になると、生徒達の私立の中学校への進学が、担任の先生達の間で競争になった。
私の担任は一案を実行した。その案は、始め上手く機能した。
贔屓の生徒が、毎週行うテストで最高点を取り、1番の席順を獲得した。それでその先生は満足していたが、3回目に反発した私が、放課後図書室で猛勉強し、主席を取ってしまった。3週連続である。贔屓にされた同級生は、PTA会長の甥で、教師としてはこの子を大事にする事が、この学校における自分の地位を高めるのに役立っていたからだ。このPTA会長は、市議会のボスであったし、このプールも、木造校舎の向こうに見える、新校舎建設も全てこの議員の力でなされた事だ。そうした時代であった。贔屓にされた同級生も被害者の一人である。それがトラウマになり、定年して私が住所を探し出し、同窓会に無理やり誘うまで、一切の消息を絶っていた。
兎に角広島の地から逃げ出しかったそうだ
心の傷が癒えるのに、実に55年の歳月が必要であった。
一教師の見栄から始まった、生徒間の競争は私の3連勝で幕を閉じた。
先日の同窓会の席で、女子生徒から当時の担任の悪口が次から次へと出てきたのには、男性陣は、ただ黙って聞くのみであった。女の執念は、つくづく恐ろしい事を知った。それにしても、この写真が、広島市公文書館の中に記録として、存在したことのほうが、驚きである。一体誰が寄贈したのか、調べてみたい気がする。
因みに、プール左に建つ建物は、市内で最初に建てられた図書館である。郷土出身のアメリカ移住者の寄付により、昭和24年に建設された。この年、校庭が掘り替えられて、2000体の遺骨が収集された。身元判明者の遺骨は、火葬後直ちに「善法寺」という寺に安置されていた。500体である。
この学校の校庭自体が、原爆の証人なのである。