藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

昭和37年7月

2012-10-05 04:45:15 | 社会・経済

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嘗てこの学校で、2500人もの被爆者が、灼熱の閃光と放射能によって死んでいった。この写真が写された13年前の事である。

死者達は、生徒達が立ち並ぶこのグランドで、校舎の腰壁を取り壊し、火葬に付され、その後4年間地中に眠っていた。

昭和34年の7月、PTAと、子供達の手でプールが作られた。以前、このブログで書いたことのある同級生の、弟の水死事件がきっかけと成り、「防火用水」名目でそれはなされた。プール開きには、全校生徒が参加したように思うが、私が父兄の席に座っている。

理由が、なかなか思い出せ無かったが、やっと思い出した。プールの安全祈願の玉ぐしを捧げる役をさせられたのだった。

私は小学校時代、いい思い出を持たない。担任の女性教師の「えこ贔屓」に4年生から反発し、余り勉強をしなかった。余りどころか、宿題は一切しなかった。いくら怒られても遣らない。えこ贔屓する先生など先生とは思っていなかった。 六年生になると、生徒達の私立の中学校への進学が、担任の先生達の間で競争になった。

私の担任は一案を実行した。その案は、始め上手く機能した。

贔屓の生徒が、毎週行うテストで最高点を取り、1番の席順を獲得した。それでその先生は満足していたが、3回目に反発した私が、放課後図書室で猛勉強し、主席を取ってしまった。3週連続である。贔屓にされた同級生は、PTA会長の甥で、教師としてはこの子を大事にする事が、この学校における自分の地位を高めるのに役立っていたからだ。このPTA会長は、市議会のボスであったし、このプールも、木造校舎の向こうに見える、新校舎建設も全てこの議員の力でなされた事だ。そうした時代であった。贔屓にされた同級生も被害者の一人である。それがトラウマになり、定年して私が住所を探し出し、同窓会に無理やり誘うまで、一切の消息を絶っていた。

兎に角広島の地から逃げ出しかったそうだ

心の傷が癒えるのに、実に55年の歳月が必要であった。

一教師の見栄から始まった、生徒間の競争は私の3連勝で幕を閉じた。

先日の同窓会の席で、女子生徒から当時の担任の悪口が次から次へと出てきたのには、男性陣は、ただ黙って聞くのみであった。女の執念は、つくづく恐ろしい事を知った。それにしても、この写真が、広島市公文書館の中に記録として、存在したことのほうが、驚きである。一体誰が寄贈したのか、調べてみたい気がする。

因みに、プール左に建つ建物は、市内で最初に建てられた図書館である。郷土出身のアメリカ移住者の寄付により、昭和24年に建設された。この年、校庭が掘り替えられて、2000体の遺骨が収集された。身元判明者の遺骨は、火葬後直ちに「善法寺」という寺に安置されていた。500体である。

この学校の校庭自体が、原爆の証人なのである。


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2 コメント

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クラス会で女性にちょっと来いと言われて別の部屋... (北国)
2012-10-05 10:15:33
クラス会で女性にちょっと来いと言われて別の部屋へ喜び勇んで行った男がしょんぼりして帰ってきた。小学校の時いじめられたことをこっぴどく怒られたそうだ。やはり女性の恨みは恐ろしい。
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そうなのです。本当に怖いのです。その同窓会の席... (深山 霞)
2012-10-05 12:38:20
そうなのです。本当に怖いのです。その同窓会の席で、女性軍に私も吊るし上げにされました。ある女の子が私のことが好きで、何時も帰宅する時に付いてきていた事は記憶にあるのですが、私には何の感情もわかなかったのです。私が高校一年生の時入院すると、毎週見舞いに来てくれました。それでも私は、彼女の気持ちなど理解せず、その後彼女は私を諦めたのだそうです。「貴方は鈍感なのよ」と、女性軍からばっさり切り捨てられました。確かに私は鈍感なのです。事女性に関しては。
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