藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

宿場町 可部

2011-10-21 17:18:57 | 日記・エッセイ・コラム

本来、可部の街は、宿場町として発達してきた感があるが、城下町である。そばにそびえる、高松山に、熊谷直実の末流熊谷氏が、戦国時代築城しこの街の中心をなしてきた。その証拠は近ゝ、このブログにて、紹介していくこととしましょう。こんかいは、そう、石州街道のこの街での、始点を皆様にご紹介致します。

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ここがこの街の、船着場あとに残る公園です。そこに鎮座するのが、この常夜灯。この常夜灯、鋳物で出来ています。県の文化財に、指定されています。可部における石州街道は、この船着場に通ずる運河から、始まるのです。なぜか?・・・そうそう簡単に、街の状況が解らないと、理解できませんね。この街は、太田川、根の谷川、三篠川、この三本の川の合流点を街の末端とし、上流へと展開しています。合流点から、約半里上流、そこに船着場が或わけです。太田川が本線。一級河川、自ずとしれた荒れ川。橋など江戸時代も無く、対岸の八木村の、「渡」とゆう処から、渡船で渡って着くのが、写真の船着場。安芸の国広島の、中心部から約五里。そうそう言い忘れるとこでした。昔から、「八木の雀に可部烏」と云う言葉が伝えられています。「八木村の人間は、集まってわいわい騒ぐ、可部の人間は一人で騒ぐ」と、理解されてきたようですが、本来は八木の人間は、団結心が強く、八木用水という難工事を、農民の力と団結で、成功させています。それに対し可部の人間は、独立心に富み、有言実行、石州街道を利用し、周辺諸国まで進出しました。その力の裏ずけとして、この常夜灯にみる技術と、先進性を感じさせてくれます。今回はぼちぼちと、上流に向かい石州との堺、安芸太田町「益田道」までを、紹介してゆきます。乞うご期待。

コメント
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