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寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2995話) 余った野菜 

2020年07月26日 | 知識

 “六月十三日付本欄「食材無駄なく使いたい」には全く同感です。私は野菜が余ったら干し野菜にしてきました。わが家では米や缶詰などだいたい三ヵ月ほど生活できる分を常に備蓄していますが、生野菜はそういうわけにはいかず、保存食とすべく干し野菜をこしらえるようにしてきました。感染拡大が続いた新型コロナウイルスの影響で外出の自粛が叫ばれた際、これらの備蓄で本当に助かりました。
 私は畑で収穫した芋やカボチャ、シイタケなども薄く切って庭で干しています。特にカボチャは驚くほどおいしくなります。みそ汁や小豆汁、天ぷらにするとさらに甘みを増します。切り干し大根は日光を浴びることでより栄養が豊富になると聞きました。”(7月6日付け中日新聞)

 長野県泰阜村の主婦・前田さん(73)の投稿文です。食材をどのように準備しておくのか、緊急時のこともある。ある程度の保存も必要であろう。ほとんどを購入する家庭はあまり知恵も必要でないかも知れないが、野菜を作っておられる家庭は知恵の出しどころがある。折角できた野菜である、捨てるに忍びない。ボクは農家で育ち、今も家庭菜園というには広すぎる畑を維持しているので、作った野菜の保存にいろいろな知恵が欲しい。芋類は冬場に少し配慮をすれば、そのままでもほぼ1年保存がきく。問題は生鮮野菜である。前田さんは多くを干すと言われる。わが家も大根やなすは干して保存している。カボチャや冬瓜はある程度持つが、多くを腐らしてしまっている。前田さんの文で、カボチャも干せるのか?。驚くほどおいしくなると言われる。今年は是非やってみよう。うまくいったら前田様々である。こうした投稿文はありがたい。


(第2980話) 「梅子」の案内

2020年06月26日 | 知識

 “知多市の佐布里緑と花のふれあい公園までの道のりを、市の公認キャラクター「梅子」が案内する看板が設置された。同市の清水が丘から佐布里池手前までを結ぶ「佐布里パークロード」沿いの三キロに、五百メートルごとに置かれている。
 公園指定管理者の日誠が、ロードの植栽に設置した。「あと3㎞」などと載せ、全六枚。それぞれ梅にちなんだクイズも書かれている。クイズの答えは、公園内に表示している。
 ロードは、ウォーキングなどで利用する市民もいる。公園の竹内義夫園長は「看板の設置で、道のりが楽しくなれば。たくさんの人が公園に足を運んでもらいたい」と話している。”(6月8日付け中日新聞)

 記事からです。佐布里池までの道に案内看板を設置する、取り立てて言うほどのことでもないかも知れませんが、その案内看板の工夫がいい。案内看板もあるようで少ないのが実情でしょう。ボクのようにウォーキングで各地を訪ね歩く人には、案内看板は是非あって欲しいものの1つです。それがこのように楽しいものだと更に良い。
 施設の管理者によって、案内看板の設置は大きく違います。どの自治体も来客者を呼び込みたいでしょう。それなら折角に名所や見所です。大きくPRすべきです。看板などそれ程大きな費用は要しません。費用に比べ効果は確実です。読めなくなった古いものがそのままのところも多い。これなどは新しくするか、それができなければ撤去すべきです。ボクは意見を言う機会があれば、このことをよく言います。このように道案内に気を配ることは更にいいでしょう。関係者は是非参考にして欲しいと思います。


(第2972話) 疫病

2020年06月10日 | 知識

  【当時このごろ、ことのほかに疫れいとてひと死去す。これさらに疫れいによりて
    初めて死するにあたわず】    蓮如上人『御文』
 蓮如は、人は疫病で死ぬのではないという。生まれた時から死は定まっており、驚くことではないと。それは道理としては納得できるが、現実に自分たちに係わってくるとそうはいかない。それが情の世界である。
 そんな中、疫病は何度も人類に襲いかかってくる。有史以来手を替え品を替え襲ってきた。蓮如はその都度、静かに受け容れていった。今日のように医学の冶療はなかったので、ただ念仏して耐えることしかなかった。しかし耐えながら辛抱することは、とても大変なことであった。ご承知のように、念仏は決して祈祷ではない。さりとて、諦めて生き方を放棄するものではない。むしろ、どうすることも出来ない身の事実を引き受けていったのである。
 阿弥陀如来は、無自覚な罪深い人間でも必ず救うといわれる。生かされてあることに感謝し念仏することである。”(5月19日付け中日新聞)

 「今週の言葉」より同朋大名誉教授・中村薫さんの文である。新型コロナウイルスで大騒ぎしている今日、非常に参考になる言葉である。人は死ぬ宿命であって、疫病で死ぬ場合もあるし、他の病気や事故で死ぬ場合もある。今ウイルスで騒いでいるが、今もウイルスで亡くなる人より他の病気、交通事故で亡くなる人の方がはるかに多いだろう。コロナは何か騒ぎすぎの感もするが、これは未知のものに対する恐怖であろう。ここにも何か人間の不可思議を感じる。
 と言うように人間は分からないことだらけである。ここに宗教が生まれ、阿弥陀様があるのだろう。ただ恐れるのでもない、また諦めるものでもない。冷静に受け入れて事に当たる、死が来るときには受け入れる。それまでは生かされていることに感謝である。
 そして、中村薫さんは5月8日に逝去されている。ボクはここ数年、中村薫さんの話を幾たびとなく聞いた。すでに幾つもの病に侵されておられ、それからの生還の話も聞いた。ボクより何歳も若い。人間について深く洞察された方の死である。ご冥福を祈りたい。


(第2969話) 特別定額給付金

2020年06月04日 | 知識

 “十万円、少し遅れても結構ですー。新型コロナウイルス対策で政府が国民に一律支給する「特別定額給付金」について、名古屋市は、お金の受け取りを急がないという意向を申請書の返信用封筒に記入できる仕組みを独自に設ける。経済的に困ってお金をすぐに受け取りたい人の手続きを優先的に進める狙いがある。
 申請はオンラインと郵送の二種類があり、市は今月下旬に市内の全百十三万世帯に申請書を送る。返信用封筒の裏面に「他の世帯の給付金の処理を優先しても構わない」との文章とチェックボックスを記載した。
 名古屋市の場合、五月中に申請書を郵送すれば六月中に給付を受けられる見通しだが、チェックに印を付ければ、七月以降にずれ込むこともあるという。市はこのほか、申請期限の九月一日までの範囲で申し込みそのものを遅らせることも呼び掛けている。”(5月16日付け中日新聞)

 記事からです。この特別定額給付金は、最初は特に減った人へ30万円であったが、その後国民全員へ10万円に変わった。対象者は何倍も増えた。ボクは早く支給することが大切と思っていたので、10万円の方が審査がない分早ければ良いと思った。しかし、ことはそんなに簡単なことではなかった。ただでさえ大変な市町村職員である。そんなに簡単に事務が進められる訳がない。そこで、名古屋市のこの対策である。特に困っていない人は、後回しでいいという欄にチェックをするのである。人の善意を活用した案ではあるが、1つの知恵である。ボクは年金生活者である。このコロナ騒動で今のところ特に年金が減った訳ではない。逆に全く出かけないので支出が減っている。ボクのところには数日前に申請書が届いたが、こうした欄はなかった。
 この施策でマイナンバーカードを使ったオンラインシステムでも申請できる。そこでボクも試しにやってみた。ところがカードリーダーが必要なことが分かった。ボクはe-Taxが使用できるようになってから、確定申告はこのシステムを使ってやってきた。当時カードリーダー購入に5000円の補助が出た。ところが今年である。今年もe-Taxを利用して確定申告をしようと始めた。ところが何とWindows10に変えたら今までのカードリーダーが使えないのである。不満ながらも諦めて書類で提出した。この給付金でマイナンバーカードを使用しようとして窓口は大変混雑した声は聞いたが、その他の苦情はあまり聞いていない。本当に多くの人が申請できたのであろうか。カードリーダーはどうされたのであろう。ボクのカードリーダーは本当は使えるのだろうか。あまり不満の声が聞こえないので、ボクの使い方が間違っていたのかと、少し気になっている。更に気になっているのは、こうした施策の裏でいろいろな利権が働いていることである。


(第2920話) 「一、十、百、千、万」

2020年02月27日 | 知識

 “虚弱体質だった私がこの年齢まで生きられるなんて思いもしなかった。「健康にいい薬でも飲んでいるの?」とよく聞かれるが、特段何かを飲んでいるわけでない。若いときから「無理はするな」と言われ、七十余年前の戦時中はいかんともし難かったが、それ以外は何もしないでぼやっと過ごしてきただけだ。
 高齢者の健康のための条件は「一、十、百、千、万」と聞く。一日に十人と話をして百回深呼吸、千字を読むか書き、一万歩を歩くというものだ。
 私は毎朝、神社ヘラジオ体操に行って五~六と話をするが、その後何もない日は買い物で訪ねたスーパーで知人一人か二人と話すぐらいだ。深呼吸は読書やテレビを見ながらもでき、千字を読むためには新聞を開けばいい。一万歩の実行は難しく、ラジオ体操に出掛けて雑事をしてもせいぜい五千~六千歩で、その日ウオーキングにでも行けば別だが、毎日は無理! そんなことを考えながらぼーっと過ごしている私だ。”(2月1日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市の奥田さん(女・94)の投稿文です。虚弱体質だったと言われた人が、94歳でこの文章である。人生全く分からぬものである。幾つまで生きるだろうと思うほど元気な人が突然亡くなったり、奥田さんのように弱い、弱いと言いながら長生きしたり。寿命は理屈で無く宿命であろうか。良いと言われることできるだけやり、悪いと言われることは止め、後は天命を待つ、これしか無かろう。
 高齢者の健康のための条件は「一、十、百、千、万」と聞き、それを自分に当てはめておられる。ボクとして当てはめれば、1日に10人と話すのは集まりでもない限りかなり困難な気がする。ともかく出かける機会を作り、会う人ごとに挨拶をすることであろう。昨日のボクは達成している。100回の深呼吸は意識していなかったので、できていない。1000字を読む、書くは毎日できていると思う。そして今1日の歩数は5000歩前後であるが、歩くのはまだ自信がある。
 「一、十、百、千、万」は聞いたことがなかったので、少し調べてみたらこんなのが出てきた。1日に1回は自分をほめる、10回は笑う、100回深呼吸する、1000の文字を書く、10000歩歩く、と言うのである。いろいろあるものである。


(第2889話) 巧妙「詐欺師」

2019年12月24日 | 知識

  “「中部電力の者ですが、消費税が上がった分の電気料金を安くしています。七十代の方ですか? 同居で六十代以下の人はいますか?」わが家に十月末、こんな電話があり、私が正直に答えたら、「またあした連絡します」と言って電話は切れました。不審に思って翌朝、中部電力に確認すると「そのようなことは一切行っていません」と。今思うと高齢者を狙った悪だくみが潜んでいた気がしてなりません。
 九月には「負債があるからすぐ連絡をください。放っておくと裁判になります」とのはがきがポストに入っていました。三年ほど前北京と思われる消印が押された茶封筒には二億円当選しました。返信封筒で手数料五千円を送ってください」とあり、返信先はなぜかカナダの住所だったため無視していたら、その二ヶ月後に上海らしい消印で二億五千万円当選したとの手紙が届きました。あの手この手で詐欺師は近づいてきます。油断は禁物!”(12月2日付け中日新聞)

 愛知県あま市の加藤さん(男・74)の投稿文です。 先日も高齢者大学で詐欺師の話を聞いた。「おれおれ」詐欺から始まった詐欺はいろいろな手段になり凄まじいようだ。その被害額を聞くと、その大きさに驚き、この効率の良さを見れば増える訳だと思う。今年に入って愛知県だけでもその被害額は12億円以上と言われた。かかったが誰もが、自分は絶対にかからないと思っていたそうである。今や誰しもこの詐欺のことを知っており、用心しているはずだが、それが巧みな言葉にかかるのである。
 その時の話をもう少し紹介しておくと、今は個人情報を調べてから電話をしてくるそうである。真実味がありかかりやすくなる。そして、得する話が向こうからかかってくるわけがない。「ATMの前に着いたら電話をして」は絶対アウト!。「あなたの口座が犯罪に使われています」これもアウト。 対策は一人では振り込まない。そしてすぐに振り込まない。自分だけは大丈夫は絶対無い。自分が衰えていることを自覚すること、などであった。
 今思い出せば、ボクにもいろいろかかってきた、と思う。加藤さんのような話もあった。今までかかるようなことはなかったが、今は相手はもっと巧妙、こちらは衰えてきている、金銭に関することはまず疑わねば、と言うことであろう。穏やかな老後は無理であろうか。


(第2886話) 配偶者の呼び方

2019年12月18日 | 知識

  “配偶者についてどのように呼んでいますか。最近、テレビを見ていて女性が自分の配偶者を「私の旦那さん」と言ったり、男性が「うちの嫁が・・・」と話していたりする場面によく出くわします。知人も「うちの旦那さんが」と何のためらいもなく話していて、そんな言い方に私は日頃違和感を覚えてきただけに、何だかモヤモヤしてきました。
 少なくとも私の中では「旦那さん」という表現は、その場にはいない他人の夫への敬意を示した言い方です。それを自分の配偶者に使うのはふさわしくないと思ってきました。そして「嫁」は親がわが息子の妻を指して言うものではないでしょうか。  言葉は確かに時代によってその意味や使い方が変わるものです。家の中では何と呼んでも構わないと思いますが、やはり外で他人と話すときは「夫」や「妻」と言えば周りから反感を買わない気がしています。”(11月28日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・市原さん(57)の投稿文です。たわいもないこととも言えるが、配偶者の呼び方に戸惑っている人は多いのではなかろうか。ボクもいつも迷っている。「内の」をつけながら妻、女房、嫁、やつ、ママ、名前・・・等々であろうか。ボクは女房が多い気がするが、これはどうなのだろうか。おかしいと言えばおかしいものばかりだが、日本人はそれだけ、配偶者をおもんぱかっていなかったかも知れない。特に男ではあろう。こだわる人の前では、妻以外は愚かに見えるだろう。やはり妻が一番いいと思うが、使い慣れないとなかなか口から出てこない。
 では夫婦二人の間での呼び方はどうだろうか。パパ、ママと呼んでいるのをよく聞く。これなどは考えてみれば全くおかしい。ボクの家では、パパ、ママと呼んだ時代はない。数年前に名前で呼び合おうと決めたことがある。妻はすぐになじんで、呼びかけるときはいつも名前か「あなた」と呼んでくる。ボクは名前で呼び時もあるが、どうもまだ戸惑うことがある。呼び方について日本の夫婦はどうも素直でない気がする。


(第2884話) 投稿欄

2019年12月14日 | 知識

  “新聞には読者が思い思いに感じたことや意見を自由に述べられる投稿の欄があることを、高校での授業を通じて知った。新聞は情報を得るだけのものだと私は思い込んできただけに、読者も自分の考えを発信できるということは驚きで発見だった。会員制交流サイト(SNS)をよく利用する私たちの世代が幅広い世代に自分の意見や考えを伝えたいとき、新聞の投稿欄は活用できるなと思った。
 それにしても投稿の欄には幅広い世代の文章が毎日載っていて、読んで共感できるものも少なくなく、一方でこんなふうに考える人がいるんだと知り「なるほど」とうなずいている。少し前まで全く新聞を読んでこなかった私にも読みやすいものだった。私は投稿の欄から幅広い世代の考えを知り、自分の確固たる意見を持てるようになりたいと思っている。”(11月24日付け中日新聞)

 津市の高校生・北村さん(女・15)の投稿文です。新聞の投稿欄を評価する意見である。それも高校生である。ボクには嬉しいことではあるが、何か不安も感じる。高校生がこの程度もことも分かっていなかったのか。
 今の中高校生がどれほど新聞を読んでいるのだろうか、一度孫にも聞いてみなければいけない。スマホやタブレットは見るが、新聞はほとんど見たことがない、それが実態かもしれない。12月2日の『(「話・話」 第2878話) 発言欄』で取り上げたばかりであるが、再び取り上げた。
 スマホやタブレットは自分の好みのものを選んでみる傾向になる気がする。それが一方的になり過激になる気がする。人間はどうしてもそういった傾向になると思う。それが新聞だと、いろいろなものが一度に目に入ってくる。どれを読むかはまた自分の傾向だろうが、それでも自分の求めるもの以外も目に入る。これが違いとして大きいと思う。北村さんはいいことを知られた。そうしてこうした投稿までされた。いい意見が持てるようになると思う。


(第2868話) 道路元標

2019年11月11日 | 知識

  “一宮市の真清田神社前の広場に埋設されていた「道路元標」が今月、広場内の花壇に移され、再び地上に建った。大正時代、旧一宮市の道路の起点終点を示す標識として設置された石柱。 16年前に広場の整備で埋められて以降、通行人に踏まれ、催事では露店の下敷きになってしまっていたが、交通の歴史を知る遺産として再び光が当たることになった。
 道路元標は一九一九(大正八)年制定の旧道路法で、全国の市町村に一つずつ設けると定められた。形や大きさはさまざまで、市内には計九カ所に現存。公民館の一角などに置かれ、埋設されているもは他になかった。旧一宮市道路元標は縦五十五センチ、幅、奥行きは二十五センチの四角柱で、正面に「一宮市道路元標」と刻まれている。
 広場を管理する市公園緑地課によると、この道路元標は一九三四(昭和九)年ごろ、現在の国道155号が新たに整備されるのに伴い、近くの植栽帯に移設。二〇〇三年、「宮前三八市広場」を設けるために植栽帯を撤去する際、倒して埋設した。担当者は「(道路元標は)広場の入り口の中央にあり、人や自転車の通行の妨げになる恐れがあったため」と説明した。  今春、市が地元住民から要望を受け、移設することを決定。今月初め、広場の隅の花壇に建て、道路元標の歴史や役割を説明したプレートも設けた。(後略)”(10月22日付け中日新聞)

 記事からです。ウォーキングで各地を歩いていると、時折道路元標を見かける。ボクは植栽帯の中に立てられていた一宮市の道路元標に覚えがある。あの道路元標はどこへ行ってしまったかな、と思ったこともある。そしてこの記事からいきさつを知った。埋設されていてよかった。それだから復元できた。このことから歴史的遺物は、その時の都合で簡単に処分してはいけないことを知る。
 今の元気な高齢者は、行動力も知的好奇心も強い。歴史に興味を持っている人も多い。そういう人たちは、地道な調査を続け、専門家顔負けの成果を挙げることもある。新聞記事を見ているとそう思う。「高齢者は体験がある、知己も広い、そして時間もある」とボクはよく言う。そういう高齢者が興味を示せば、それなりの成果を挙げるだろう。この道路元標の復元に「地元住民から要望を受け」とあるが、その住民とは元市職員で郷土史研究家の田中さん(84)という人である。元気な高齢者はもっともっと地域のために尽くそう。


(第2865話) 雑草対策

2019年11月04日 | 知識

  “例年、初夏から三ヵ月ほど、わが家の三十平方メートルほどの庭で生命力が強い雑草にずっと悩まされてきた。引っこ抜かずにほったらかしにしていると草はすぐに伸びてしまった。除草剤をまいたり除草シートをかぶせたりしてきたが、いずれもあまり効果はなかった気がする。
 ところが今夏は違った。インターネットで生える雑草を防ぐには人工芝が良いことを知り、今年の春先、庭全体に敷き詰めたら、雑草がほとんど生えなかったのだ。縁側から朝日で輝く人工芝を眺めると、視界には雑草はなく、とてもすがすがしい気分になることができた。久しぶりに快適な夏を送れた。さて、来夏までこの人工芝の効果は持続するだろうか。”(10月17日付き中日新聞)

 愛知県小牧市の松波さん(男・80)の投稿文です。雑草という草はないと言うが、本当に雑草と思うものは強い。とってもとっても生えてくる。除草剤や防草シートなどもよく使われる。松波さんの話は、人工芝を使うといいという話である。実はボクの家は人工芝だらけである。だから松波さんの話には全くうなずく。ボクは防草シートは全く使っていないので、人工芝の方がいいという話は知らなかった。だから意を強くした。
 ボクの家は、庭には本物の芝が張ってあるが、通路にはほとんど人工芝が張ってある。何十平方メートルとあろうが、よくは分からない。一度計ってみてもいいと思う。使い始めてもう何十年と立つであろう。徐々に増やしてきた。今ではほとんど敷かれている。人工芝は寿命も結構ある。安いもの高いもの、品も様々である。場所を考えて張り変えている。更には、古くなった足拭きマットなども敷いている。屋敷が広いのもありがたいが、その管理は全く大変である。