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寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3184話) 地場トマト

2021年08月13日 | 知識

 “トマトが好きだ。スーパーに並ぶさまざまな商品から色や大きさ、産地を見定めている。檀家から昨年頂いたトマトは見事に赤く熟れ、甘みも素晴らしかった。思いがけず、また出合えたのは何とトマトも販売している書店だった。色合いは良く、一口か二口で食べられるほどの大きさだった。食べると昔懐かしい味が口の中にふわっと広がった。記載されていた産地はわが家から十数キロしか離れていない場所。「身土不二」という言葉によると、自分の足で歩いて行ける約十六キロに当たる四里の四方内で取れたものや旬のものを食べれば体に良いそうだ。もちろん生産者の努力はあるだろうが、理にかなったトマトにわが体は大いなる喜びの反応を示していた。”(7月20日付け中日新聞)

 滋賀県近江八幡市の僧侶・西沢さん(男・72)の投稿文です。ボクは多くの野菜を種から育てるが、トマトは苗を買ってくる。だからそれ程に多くはない。ミニトマトと中玉トマトがそれぞれ3本である。そして、今が盛りと成っている。丸かじりがおいしい。今年はよくなる方である。
 この文で、「身土不二」と言う言葉を知った。「しんどふじ」と読み、人間の身体と土地は切り離せない関係にあるということで、その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方、明治時代に石塚左玄らが唱えた、とある。仏教用語である。僧侶の方から聞くと、なおさらである。その土地とは、西沢さんは4里四方、16km範囲と言われる。健康によい野菜とは、気候の違う遠いところから運んだり、温室で無理に時期をずらしたりするのではなく、自分の住んでいる近くで自然に育てる、と言うことであろう。こういう話を聞くと、ボクは全く健康によい野菜を多く食べていることになる。ほとんどは種を直まきであり、苗を買ってきてもビニ-ルトンネルなどはかけない。せいぜい風よけをするくらいである。もちろん消毒はしない。怠けていることもあるが、自家用野菜はこれで十分である。健康によいとなれば更にいい。


(第3183話) ミョウガの花

2021年08月11日 | 知識

 “あっという間に今日から夏の土用入りとなりました。何はなくとも、見慣れた行事のことばが目に入るだけで、単調になりがちな日々をもり立ててくれるように感じます。猛暑の立ち上がりはいつも、なんとなく体は重くなり、食欲も少し落ちてきます。さっぱりしたものが食べたいなあ、と思っていると裏山の畑から下りてきた友人が、とれたてのミョウガを分けてくれました。
 袋をのぞきこむと、ミョウガはどれも花をつけています。いつもならすぐに天ぷらにするのですが、透き通るような花があまりにかれんですてきです。思わず水にいれてみました。ミョウガは一日花ですから、予想通りすぐにしんなりとしてしまいましたが、明くる日見てみると、驚くほど多くの花のつぼみを出していました。
 暑中、天ぷらに薬昧にと何度もお世話になるミョウガ。たくさんの花が折り畳まれていることを思い出し、内側からあふれだすような花の力にも、あやかることができればと思います。”(7月19日付け中日新聞)

 「くらしの歳時記」という記事からです。川柳連れ連れ草の毎月の章題は、現在まで植物を、それも漢字で書けるものを使用している。200号も超えると、毎回その植物探しが大変な苦労である。まだいくらでもあるだろうが、名前が分からない。そしてこの7月も頭を悩ませていた。そしてこの新聞を見たのである。茗荷か、まだ使っていない。今わが家の茗荷はどうなっているだろう。すぐに見に行った。芽を出し、花も咲いている。すぐに写真を撮り、7月号235号に使用した。この記事のタイミングの良さ、ホッとすると共に嬉しかった。
 この記事で1日花と言うことを知った。そして、この記事あるように水に差しておいた。翌日新たな花が咲いてきた。記事の通りで会った。わが家は薬味に使用している。天ぷらもいいだろうが、妻は油を使う料理をしたがらない。地下茎の繁殖は凄い。どこまでも延びていく。うっかりしていると茗荷だらけになってしまう。人も様々なら植物も様々である。


(第3178話) ドクダミ

2021年07月31日 | 知識

 “ドクダミは昔から嫌われている雑草の一つだ。繁殖力が強く、他の植物の生存を脅かし、あっという間に広がるから。そんなドクダミがわが家の庭に三十本以上生え、花も咲かせた。花びらのような総苞は白い十字の形をし、中心から伸びた黄色の小花はかれんだ。ただ庭いっぱいに咲くと困るので駆除を兼ねて根から抜いた。
 駆除した花や茎、葉は袋に詰めて風呂に入れた。それらは肌に良く、吹き出物対策にいいという。花は花瓶に生け、葉は乾燥させて緑茶に混ぜて飲んだ。「十薬」とも呼ばれるだけあって利用価値はかなりありそう。別の活用法も調べようと思っている。”(7月13日付け中日新聞)

 名古屋市の河野さん(女・69)の投稿文です。ドクダミについてはこの「話・話」 ですでに書いたはずだと思って調べてみたら、2009年6月21日第1128話で書いていた。もう12年も前のことである。読んでみると、今も全く同じ気持ちである。
 河野さんはドクダミが30本以上生えて、丁寧に根から抜いたと言われる。30本などとは易しいもので、これは甘い。一度生えたら除草剤を頻繁に使うなどしないととても絶やすことはできない。少しでも根のかけらが残っていたらそれからが伸びてくる。一度侵入されたらもう上手に付き合うより仕方がない。ボクなど栽培しているかと思われるほどである。
 しかし、よく見ればいい草である。一面に花を咲かせた時など綺麗なものである。また十薬と言われるほどに、役に立つのである。妻はいつも花瓶に挿して、消臭剤代わりにしている。強すぎるが故に嫌われるのであろう。


(第3175話) ブタはしゃべる

2021年07月25日 | 知識

 “わたしは自転車教室を通じて知ったことが二つあります。一つ目は自分の後ろをかくにんすることの大切さです。これまで自転車で道路をわたるとき、「右、左、前」と声に出しながら周いを見てきました。しかし自分の後方について気を回したことはありませんでした。ひょっとして自分のすぐ後ろに車や別の自転車、人がいたらと思うとヒヤッとしました。
 もう一つは「ブタはしゃべる」です。ブレーキの「ブ」、タイヤの「タ」に、「は」は反しゃきライト、「しゃ」は車体、「べる」はベルをさし、それらをつなげたひょうごです。これらを思い出しながら自転車に乗るのです。自転車をひんぱんに点けんする必要性も分かりました。わたしはこの先、自転車に乗るさい周りに気を配って楽しく安全に動かすつもりです。2(7月1日付け中日新聞)

 岐阜県瑞浪市の小学生・水野さん(女・10)の投稿文です。「ブタはしゃべる」とは何のことかと思ったが、自転車教室で学ばれたことらしい。自転車のそれぞれのことについて注意を払いたいと言うことである。何とも愉快な表現である。
 自転車は便利だ。特に車の運転ができない人にとって、自転車がなかったらどうしようかとなろう。特に中高生にとっては通学の手段の人は多かろう。ところが車社会である。自転車は車両である。車と同等である。車道を走る。しかし、その大きさ、動力の程度、スピード、どう見ても車と同じには思えない。完全なる弱者である。そして、歩道がある道路では、歩道を走ることが一般であろう。認められていなくても、歩道があれば歩道を走る。その方が安全である。そして歩行者に比べれば自転車はこれまた凄い強者である。この3者が入り組んでいる道路である。自転車はその中間である。それだけに強者に対する対応と弱者に対する配慮が必要である。こう考えると自転車は難しい乗り物である。


(第3108話) 当たり前

2021年03月12日 | 知識

 “「ありがとうの反対は当たり前だ」とは私の尊敬する先生から教わった言葉だ。当たり前と思ってしまうと、そこから感謝の念はどこかに消えてしまうものだ。そのことを見事に言い表していた。
 ちょうど一年前、感染が拡大し始めた新型コロナウイルスの影響で急きょ学校は休みとなり、いつもできていたことの多くができなくなった。そこで初めて当たり前のありがたさを知った。ありとあらゆることを日頃当たり前だと思ってきた自分か情けなくなってきた。私がこれまでに成長できたのは、たくさんの人に支えられたからだ。街角で目にするごみ拾いをする方のおかげで地域のきれいさが保たれていることに、感謝できているのだろうか?そう自らに問い掛けた。コロナ禍の収束は見通せない。ゆえに何事にも感謝しながら生きていこうと私は思っている。”(2月22日付け中日新聞)

 岐阜県本巣市の高校生・大西さん(女・18)の投稿文です。ありがとうの反対語?それが当たり前?これは先生の教訓的考え方で、正式には違うだろうと思った。ありがとうは感謝の言葉である。それなら反対語は、相手を非難する言葉ではなかろうか。しかし、ありがとうは「有り難う」と書く。有るのが難しいのである。有るのが難しい、の反対はよくあることとなる。当たり前となる。納得である。調べてみてもそのようになっていた。
 このコロナ下で、多くの人は今までの当たり前を封じ込められた。そして、当たり前に生活できるありがたさを知った。このコロナ下で、今まで気がつかなかったいろいろなことを知った。感謝の念をいだくことが、少しは多くなろう。何事も生かさねばいけない。


(第3103話) 百万遍

2021年03月02日 | 知識

 “私の住む地区には昔から百万遍という正月の行事があって、中学生以下の男の子だけで大きな数珠を持って地区内の五十軒くらいを回ります。私の長男も孫も参加していました。
 百万遍とは百万回極楽往生を祈願して、七日間に百万回念仏を唱えること。京都の知恩寺発祥の仏教行事とか。子どもたちは鉦を鳴らしてくるので、近くに来ると玄関を開け、線香を立てて待っています。子どもたちが回ってくると、玄関の中で家の者も一緒になって「チンチクリンノナンマイダ」と三回唱えて大きな数珠を回し「ヘイッ」と頭の高さに上げるのです。
 ところが今年はコロナ禍のため、子どもたちは全員マスクを着用し、家の中には入りません。しかも数珠を持とうとしたら「コロナのため、おうちの方はご遠慮ください。子どもだけで回します」と言われてしまいました。
 長男の参加していた頃は小学四年から、孫の時は小学一年から中学三年までの参加でした。近年は少子化のため、子どもが少なくなり、女の子も参加し、さらに親御さんが何人か付いているのです。時代ですね。この行事が絶えることなく続いてほしいと思いながら、子どもたちの鉦の音の余韻に浸っていました。”(2月6日付け中日新聞)

 岐阜県中津川市の志津さん(女・87)の投稿文です。もちろん初めて知る行事です。地方にはまだいろいろな行事があるものです。
 さて我が地域です。ボクの子供頃を思い出せばまだいろいろありました。破魔矢、七夕祭り、湿り祭り、虫祭り等々これらは全くなくなりました。しゃぎと(左義長)、国府宮の裸祭、そして結婚式や葬式、これらはまだ残っていますがその形は全く違ってきています。こうした歴史を書き残したものは、ボクが知る限り昭和31年発行の「千秋村史」くらいしか見当たりません。何事も一朝一夕にできるものではありません。経緯、歴史を知ることは大切です。ボクにできることはないか、ということをもう10年以上前に思いました。そして数人の高齢者にこの思いを話し、何でもいいからメモにして欲しいと頼みました。私もそれ以上言いませんでしたので、何を聞くこともない内に亡くなってしまいました。
 そして今、やるなら一時も早いほうがいい。書いてもらうのではなく、こちらから聞き取る、そしてまとめる。まとめたものが紙1枚でも2枚でもいい。まずはすること、と思い立ちました。そして数人の長老に協力をお願いしました。どうなることでしょう。


(第3049話) 人材の育成

2020年11月13日 | 知識

 ”プロ野球の名選手で名監督たった故野村克也さんは監督時代、「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すを上とす」との言葉を大切にしたそうです。
 モノづくり分野での世界的な競争を考えると、日本の各企業では人材の育成と技術の継承が急務といえます。とはいえ私は長年、技術職に従事してきただけに、その道で磨き上げ蓄えてきたものを次代に伝えることが決して容易でないことがよく分かります。教える立場になると、かつてのようにがむしゃらにやればいいわけではありません。時に目線をいったん落とすことも必要となってきます。野村さんの「生涯一捕手」にあやかり、定年まで「生涯一社員」の気持ちで私は仕事に取り組もうと考えています。”(10月19日付け中日新聞)

 三重県四日市市の会社・奥村さん(男・58)の投稿文です。「人を残すを上とす」とは本当に含蓄のある言葉です。人を残すことによってこそ、継続や進歩があります。そして、奥村さんが言われるように、人を育成することは非常に難しいことです。ボクはこのことを問われると、どうやっていたのかあまり自信がありません。
 近年は特に難しいことをよく聞きます。昔は上の言われることは黙って従うことが多かった。黙って従うから伝えることが比較的容易です。分かってからはその人の判断になります。近年は、まず同意であるようです。納得しないと始めない。よく知らない人を納得させるのは難しい。
 このコロナ禍で更に難しくなった。テレワークやリモートで仕事はできるのでしょうが、人材育成はどうでしょうか。顔を合わせて行うことが大切なことだと思うので、更に困難になったし、また偏りが生じる気がします。また経営が難しくなると目の前のことが優先します。人材育成どころではありません。日本の技術力低下や学力低下はよく報道されることです。資源の少ない日本は技術力で繁栄してきた国です。教育の高さで保ってきた国です。今の政策始めどこか間違っている気がしてなりません。課題提供と言うことでこの投稿を取り上げました。よく考える必要があると思います。


(第3034話) お返し

2020年10月13日 | 知識

 “六十年ほど前の昭和三十年代のことだ。明治生まれの祖母は他人から食べ物をいただくとお礼にマッチを渡していた。なぜ?ずっと不思議に思ってきた。
 今年初めに読んだ女性漫才師の第一人者内海桂子さんの本に「頂き物には必ずお返しをする」とあり「お付け木」を渡すことが紹介されていた。お付け木とは硫黄が塗ってある板切れで、かまどに火を移すときに使われたマッチのない時代の台所の必需品だったという。この本から、長い間の祖母にまつわる疑問が解けた。昭和三十年代はガスこんろを付ける際、マッチが必要だったからマッチをお返しとしたのだろう。
 九十七歳で亡くなった内海師匠の訃報に接して思った。昨今は何を渡したらいいのだろう、と。”(9月21日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市の岩田さん(女・70)の投稿文です。またまた昔、昔の話です。頂いたもののお返しの話です。持ってきていただいたとき、お付け木やマッチを渡していたという。これは知らないが、この話から思い出したことがある。ボクが子供の頃、赤飯など重箱で持って行くと、すぐ移し替えて空の重箱を返してもらう。その時、子供の駄賃程度のお金が重箱に入っているのである。お使い賃である。当時はめでたいことがあると、赤飯をよく配ったものである。
 そうして、こうした頂き物をきちんと記録していたのである。もらったら返す、これが当時の習わしであった。礼儀であった。これを間違うと非難の対象になった。ボクの妻も母親の習慣を受け継ぎ、今もきちんと付けている。そして返礼に気をつけている。あげたものはあげたもの、貰ったものは貰ったもの、同等のものをお返ししなければならないなんておかしい、とボクは思っていた時期がある。そうして、ボクの意見のように、世の中こういうことに全く無頓着になっていった。そうなってみると、それにボクは違和感を感じるようになった。あの習慣は、世の中を円滑に、良い絆を保つための知恵であったのだ。話が長くなるので、ここらで止めますが、皆さんはどう思われるのでしょうか。


(第3030話) 防災ベンチ

2020年10月05日 | 知識

 “岩倉市の五条川沿いで、川の増水時に即席で簡易的な堤防になる「防災ベンチ」が設置され、約10年がたつ。 2000年9月の東海豪雨の教訓を生かして地元住民の発案で作られたベンチ。その後の大雨では幾度も実際に浸水被害を防ぎ、住民を守り続けている。ベンチは箱型で、コンクリート製の土台と、座面になるプラスチックのふたでできている。土台の側面には垂直の溝が付けられ、外した座面をベンチ同士の間にはめると、高さ約四十センチの即席堤防となる。座面を外した中のスペースには、ベンチー基あたり約二十個の土のうが入っている。
 11年から、同市東町や八剱町など、橋周辺の四ヵ所に計六十四基を設置。台風に備え、毎年六月下旬から十一月半ばまで、土のうを取り出して設置する。昨年からは市内の土木会社に設置を依頼している。(中略)
 ベンチだけでは、大規模な台風の被害を完全に防ぐことは難しいが、近年増えているゲリラ豪雨で一時的に川の水位が上がったときは即席堤防でせき止めることができ、安心感があるという。ただ、発案した石黒勝逸さんには気掛かりもある。「ベンチができた理由を知らない人も多く、将来は教訓が生かされなくなるのでは。われわれが伝えていかないといけない」と、記憶も合わせて受け継ぐ大切さを強調する。”(9月13日付け中日新聞)

 記事からです。ボクは時折五条川にウォーキングに出かける。そして、この防砂ベンチに腰を降ろして休む時もある。先日は、この防災ベンチが活用されている場に出合った。土嚢が取り出され、座面のプラスチックのふたが設置されていた。40cmほど堤防がかさ上げされることになる。この40cmの効果は大きいと思う。この防災ベンチについて少し知っていたが、この記事によって詳しく知ることができた。うまく考えたものだと思っていた。地元住民の発案と知ってより感心した。
 東海豪雨から今年で20年である。各所で改修が図られ、安全が増したと思う。ボクの家の近くの川は、川幅が広がり、堤防がかさ上げされ、水の引きもかなり早くなった。でも、この五条川流域はそうでもない。住宅が建ち並び、また桜並木の名所でもある。川幅を広げるのは至難のことであろう。最近の雨の降りは強い。そんな地域の防災ベンチである。何度となく役だったであろう。しかし、石黒勝逸さんが言われる「ベンチができた理由を知らない人も多く、将来は教訓が生かされなくなるのでは。われわれが伝えていかないといけない」と言うこともよく分かる。もう一つ気になったのは「昨年からは市内の土木会社に設置を依頼している」ということである。ますます住民から遠くなる。20年も立つと住民もかなり変わる。知らない人も多くなる。伝えていかねばならない。これはどこも同じである。


(第2998話) へんとつくり

2020年08月01日 | 知識

 “六月九日付本欄「『禍』と『蝸』調べて納得」を読んで、なるほどと思った。私も早速、自分の名字の「池」を調べてみた。池は水を示すへんのさんずいと横に広がるという意味の「也」を組み合わせて成り立っており横に広がった水面ということで池となる。「池」には「地」や「馳」が似ている字としてあった。「地」は土が横に広がり、「馳」は馬が横に広がるという意味だそうだ。このように漢字は、その意味を知った上で足し算をするみたいに理解していけばいいのだ。
 振り返れば母も私に同じように教えてくれた。「絞るは雑巾を絞るときのことを想像してみて?糸が交わるよね」。隣でこう教えてくれたことが懐かしく思い出される。”(7月9日付け中日新聞)

 岐阜県可児市の主婦・池田さん(33)の投稿文です。この「話・話」では、もう何回も言葉について話題にしてきた。特にカタカナ言葉の氾濫については、ボクも何か言いたくて取り上げることが多い。今回もカタカナ言葉に対する意見と言えよう。漢字のへんとつくりには意味があるというのである。池田さんが紹介された例のように、へんとつくりの意味を理解すると、漢字全体の意味が意味が読み取れる。漢字を作った知恵というのは全く凄いと思う。
 漢字を覚えるのは難しい。でも何でこんなに意味のある漢字を捨てていくのか。グローバル化であろうか。でも固有文化を守ってのグローバル化ではあるまいか。これも老人の意見であろうか。