寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3776話) 恩師の一言

2024年12月28日 | 教訓
 “小学校5~6年生で担任だった先生は、児童に分け隔てなく接して声をかける優しい人でした。友達に誘われて私は小・中学生向けの写生大会に行きました。そこで先生と偶然会い、描きかけの私の絵をのぞき込んで「この絵、好きだよ。温かみがあるから」と。あまり他人に褒められた経験がなかった私はこの先生の一言ですっかり気分を良くしました。私の絵は入選に輝き、後日、先生は級友の前で私の受賞を報告してくれました。これが私の自信につながり、どちらかというと引っ込み思案だった面は霧散し、われながら性格は随分と明るくなることができました。
 思い返せば、先生と出会えたことが私にとって人生の岐路になりました。感謝しています。”(11月29日付け中日新聞)


 名古屋市の高井さん(男・71)の投稿文です。恩師の言葉が与える影響は大きい。そして小さい頃のことはより大きい。高井さんは、小学校の時に先生からかけられた言葉で、気分が良くなり、その後積極的になられたと言われる。これは先生に限らず、親や周りの人も心がけねばならないことである。最近、子供は誉めて育てよ、とよく言われることである。それがこれである。
 ボクは田舎の小さな小学校の優等生であったので、よくは覚えていないが、誉められていたのだろう。でも誉められたことより叱られたことの方がよく覚えている。廊下に立たされて往復ビンタを食らったこともある。今なら問題視されていたかもしれない。そして今の若者は、誉められて育った故に、打たれ弱い、そして気に食わないとすぐ止めてしまう、そんな気がするのはボクだけだろうか。何事も一面ばかりではいけない気がする。



(第3775話) 母の口癖

2024年12月26日 | 教訓
 “1日付本欄「母への感謝し尽くせず」を読んでまさにその通りだと感じ、母への思いが一層増してきました。私は母と同居していて、母のところにご飯を持っていくと「こんなにもありがとう、ありがとう」と言いました。私が「もう言わんでいい」と繰り返しても、いつもこんな調子でした。4年前、母は101歳で逝きました。そこで初めて私は母に私の方から「ありがとう」と言っただろうかと自問しました。父は戦死して、母は女手一つで苦労しながら私を育ててくれました。孫にあたる私の子どもたちにも愛情をいっぱい注いでくれ、私の育児や家事を助けてくれました。孫たちが来るとうれしそうで、皆で母の車椅子を押して散歩に行ったり、食事に行ったりしました。「もっともっと親孝行したかったのに・・・・」仏壇やお墓で私は母に感謝の念を示しつつ「親孝行できなくてごめんね」と語りかけています”(11月29日付け中日新聞)


 愛知県安城市の主婦・稲垣さん(78)の投稿文です。ありがとう、と言われて気分を悪くする人はいないだろう。ほとんどは嬉しいはずである。それは誰もが感じている。感じていながらも、自分からは発しない。人間は何とも理不尽なものである。稲垣さんのお母さんは「ありがとう」を連発されていた。そして自分はと振り返られる。そしてもっと親孝行したかった、と嘆かれる。親の恩に勝るものなし、いくら孝行しても後悔は尽きない、それが親子であろうか。全く何もできなかった赤児からある程度の成長までの苦労と同じ事を親に尽くすことはしょせん無理である。できることはその恩を自分の子供に尽くすことであろう。
 でも「ありがとう」は言える。これは心がけ次第である。ボクは昔は「済みません」とよく使ったものだが、反省した。使うなら、ありがとう、である。ボクは何かにつけて、ありがとう、を言っているつもりである。ボクら夫婦はお互いに、ありがとう、をよく言う、と思っている。でも少し、慣れ、惰性になっている気がする。心から伝えるようにしなければいけないだろう。



(第3714話) 分け合う心

2024年08月20日 | 教訓
 “主に戦時中と戦後が舞台のNHK連続テレビ小説「虎に翼」を見るたび、子どものときのことを思い出す。小学生だった1950年代半ば、私と2歳下の弟が学校から帰宅すると台所の戸棚を開けた。たいていふかし芋が一つ置いてあり、にぎり飯のときもあった。これらは農業をしていた今は亡き母が用意してくれたもの。農作業を終えた母が家に戻って、準備した夕食を皆で囲む際、私たちに「食ったか?」と尋ね、仲良く分け合って食べたかを確認するのが常だった。
 時は流れた。やがて、ふかし芋やにぎり飯をあえて二つにしなかったところに母の願いと知恵が込められていることを悟った。生きるか死ぬかの戦争をくぐり抜けた母の「分け合う心を大切にしなさい」というメッセージ。私は隣接市に住む弟とは仲が良く、それを天国の母が見ていてくれたらうれしい。”(7月23日付け中日新聞)


 愛知県豊田市の富田さん(男・77)の投稿文です。2人の子供に一つのふかし芋や握り飯を与える母親。そこには願いが込められていた。豊かになっても2つにはならなかった。兄弟仲良く分け合って食べなさい、というものである。その母の愛も素晴らしいが、その教訓、願いを理解した富田さん兄弟も素晴らしいと思う。十分に食べたい子供の気持ちも分かるが、そこは母の愛である。気持ちを殺して、子供ために良かろうと思うことをする。
 豊かになった。子供の要求を満たしてやろうとするればどれだけでもできる。そして、そうしてやることが子供への愛と思っている親も多かろう。今の子供は耐えることを知らないと、よく聞く。いつまでも今のような豊かな時代が続くわけではなかろう。子供にとって何がいいのか、よく考えねばならない。爺婆も孫に甘いだけではいけない。



(第3708話) ルール無視

2024年08月06日 | 教訓
 “車を運転して自宅近くの狭い道を走行していた5月下旬の午前中のことです。信号のある父差点に差しかかり、見通しが悪いこともあって速度を落としたら、一方通行を逆走する自転車が交差点内に入ってきました。私は急ブレーキを踏んで何とか接触を回避しましたが、自転車の若い男性は何事もなかったかのように走り去りました。
 20年ほど前のトークショーで元F1レーサーが言っていたことを思い出しました。「時速200キロ以上で走るのは怖くないですか?」という聴衆の質問に、「一般道の方が怖い」と答えていました。交通ルールを守らない運転者は、一般道の方がはるかに多いからだそう。私は改めて安全運転の大切さをかみしめ、交通ルールの順守を誓いました。”(7月8日付け中日新聞)


 岐阜県大垣市の武井さん(男・67)の投稿文です。交通ルールの遵守については、永遠に続く課題でありそうである。気をつけている人は気をつけているし、守らない人は守らない。守らないどころかわざわざ乱暴な運転をしている。スリルを楽しんでいるのであろうか。交通事故は命に関わることだということを忘れているのだろうか。そして勘違いもある。高齢者は特にありそうである。そして車以外に、自転車や歩行者のこともある。いくら気をつけてもつけきらない、こともある。
 実はボクは、先日始めて交通違反で違反切符を切られた。一時停止違反である。一時停止しなかったわけではない、停止線より少し前に出ていたのである。その時は何も言わなかったが、ボクに言わせれば停止線の位置が少しおかしいのである。交通安全は規則を守ることが重要ではなく、、その場の状況判断が重要である。でもまず規則を守ってその上と言われるであろう。ゴールドが消えた、残念である。



(第3691話) 老いる心得

2024年07月01日 | 教訓
 “「父の日」が近づいています。父さん、元気でいますか? 6月2日、誕生日おめでとう。写真の中の父は、にっこりほほ笑んでいます。あれから10カ月がすぎました。一周忌を迎える夏が、もうそこに来ています。100歳と2ヵ月、よくがんばりましたね。本当におつかれさまでした。
 名古屋で入退院を繰り返す母を看取り、1人になった父は87歳で私のもとに来ました。いつも笑顔で明るく、おだやかな日常をすごし、天気が良い日は自転車で散歩に出かけるのが日課でした。福祉センターの高齢者教室で知り合った友人たちと勉強したり、でかけたり楽しい日々をすごしていました。
 そんな父にも介護が必要な時が来ました。私の手に負えなくなり訪問入浴、訪問介護、吸引などお世話になることも多くなりました。拒否することは一度もなく、とても協力的でした。父との13年間の同居生活は、私に「老いる心得」をしっかり教えてくれました。最後まで在宅介護できたのは、ひとえにあなたが模範生だったからです。今になって、やっとそれがわかりました。がんばったのは私ではなく、介護された父の方だったということが・・・。これから迎える私の老後、あなたをお手本に、しっかり生きてゆこうと思っています。”(6月9日付け中日新聞)


 愛知県安城市の主婦・近藤さん(75)の投稿文です。大変であったろう在宅介護を長年してきて、「がんばったのは私ではなく、介護された父の方だった」という言葉はどこから出てきたのであろうか。いくら協力的であったとしても、なかなか出る言葉ではない。その近藤さんも75歳、60代後半からので介護であったろう。楽であるはずがない。こんな言葉が出るのは近藤さんの人柄であろう。この親にしてこの子あり、であろうか。
 親子が一緒に暮らす、一昔前なら普通のことであった。でも親と子の生活が違い過ぎる。また労が長すぎる。同居が難しくなっている。夫婦が元気であれば、別居の方が気楽である。わが家もしかりである。そして娘2人とも近くに住んでいる。これからがボクらの正念場である。2人とも、生涯自宅で過ごすことを願っている。どうなるのであろう。近藤さんのように、父母が頑張ったと、言って貰えるようにしたいものだ。



(第3598話) 思いやり運転

2023年12月15日 | 教訓

 “「名古屋走り」をはじめとする地域特有のマナーの悪い運転が、以前テレビで紹介されていました。一時停止しなかったり、ウインカーを出さずに曲がったり、青信号になった瞬間対向の直進車より先に右折したり・・・。
 テレビを見ながら40年近く前、免許証取得のため通っていた自動車学校の教官の教えを思い返しました。「ここで習った運転技術は道路に出たら2割程度しか役に立たないでしょう。残りは相手への思いやり運転をすることで何とか事故を防げます。法令順守は当たり前で、自分だけでもすべきだと心がけて運転してください」
 運転する際、私はあのときの教官の教えをかみしめています。この先も思いやり運転を励行します。”(11月24日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・水川さん(72)の投稿文です。書かれている悪い運転、時折見かけることである。名古屋走り、初めてこの地方に来た人には恐くて走れない、と言う言葉を聞いたこともある。車の運転である。命に関わらない他のことならまだしも、少し間違えば死ぬこともある。気をつけていても事故は起こる。それを違反してまで行うことかと思う。そして、そんな急いでもそれ程変わらないのである。次の信号機ですぐ前にいる、何てことは度々見ることである。数分早く行こうと思うと、かなりの危険を冒して行かなければできない。そして、数分早く行って、その数分をどう使うのであろうか。余程の緊急事以外、それ程有効に使うことはないのである。
 運転には慣れ、習慣がある。悪い習慣は直しておくべきである。そしてスピードを極力控える。事故を起こしたときにも軽く済む。ボクは高齢者である。でも車はなかなか手放せない。1年でも長く乗るためには、安全運転に心がけねばならない。


(第3591話) 骨まで頂く

2023年11月30日 | 教訓

 “終戦時は今でいう小学校2年生でした。住んでいた東京では深刻な食料不足がなかなか解消されず、川で魚を捕まえたり、川の土手で野菜を育てたりして飢えをしのいでいました。特に捕まえた魚を食べる場合、私は子ども心に「さっきまで生きていたのに・・・」と思ったものです。焼き魚をうまくむしって食べられず、まだ身が残った骨を捨てようとしたことがありました。母が「ちょっとお待ち」と制し、「命をささげてくれた分、奇麗に食べないと成仏できないよ」と続け、残り火で再び焼いてくれました。そうして私は骨まで食べることができました。かりかりした煎餅のような歯応えは今も記憶しています。私が食材を大切にし続けるのはこうした経験があったからでしょう。”(11月9日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・水野さん(85)の投稿文です。植物にも動物にも命はある。人間はそれらの命を頂いて、殺して生きている。考えてみれば残酷なことである。でもそうしていかないと生きられない。では頂いたその命に報いるのにはどうすればいいのか。それは粗末にしないことである。水野さんのお母さんはそのように教えられた。そして、85歳になられた水野さんは、今もこの教えを守っておられる。
 これは人間の勝手な理屈かもしれない。でもそう思うことで救われるのである。最近、動物愛護を語られる人は多い。いろいろ見ていると、随分片寄った意見があると思う。愛護を語られる人も、絶対に別の動植物の命を頂いているのである。人それぞれに環境や条件が違う。それに思いが及ばないのは、独りよがりではなかろうか。


(第3590話) 102歳にあやかる

2023年11月28日 | 教訓

 “102歳のいとこの誕生祝いが9月半ばにあり、家族や親族26人が名古屋のいとこ宅に集いました。100歳の祝いは新型コロナウイルスの影響で催されなかったため、今回は久々の再会となり、ひ孫4人から花束を受け取ったいとこは満面の笑みを浮かべていました。その後の昼食会でも皆と談笑していました。
 いとこは長年造り酒屋を業としてきて今も会長職にあります。青・壮年期は狩猟に興じ仕留めた鳥の剥製をもらったこともあります。10年前にはクルーズ船に乗って一緒に旅行し、途中停泊した鳥取県の境港では貸自転車で「水木しげるロード」を駆け巡り、その速さには驚きました。社交ダンスやカラオケも好きで実に多趣味でした。
 こうした刺激が長寿の秘訣なのでしょう。私も元気をもらって、茶寿たる108歳の祝いをともに健康で迎えたいです。”(11月7日付け中日新聞)

 名古屋市の水野さん(男・79)の投稿文です。102歳の誕生会、100歳を超える人が増えた、本当に長寿国になったものだと思う。102歳のいとこさん、今も会長職という。10年前に一緒にクルーズ船に乗り、貸し自転車で「水木しげるロード」を走ったと言われる。10年前とは92歳である。本当にこうした元気な人があるのだ。そしてそれにあやかろうと79歳の水野さん。秘訣は刺激と理解されている。刺激とは好奇心である。何にでも挑戦である。
 ボクの最近は少し気持ちに波がある。積極的になるときと消極的になるときが入りまざる。先日、人工尿道括約筋の使用を始めて以来初めて病院の診察に行った。全く順調であった。何のために手術をしたのか、余生を元気に活動するためではなかったのか、初心を忘れないようにする必要がある。


(第3583話) 優しい言葉

2023年11月14日 | 教訓

 “愛知県西尾市に住む91歳の母は父が亡くなった6年前から一人暮らしとなり、私は週―度、様子をうかがいに母の家を訪ねている。母は昔から働き者だった。農業の傍ら育児や家事もおろそかにしなかった。読書が好きで、今も私が図書館で借りた本を持って行くと、「ありがとう、ありがとう」と喜んでくれる。「赤ちゃんのとき、もらわれてきたことに感謝」「子ども時代、養父母に人一倍かわいがられた」「地域の女性で一番長生きで、孫やひ孫の成長も見られる今が一番幸せ」ー。こんな感謝の言葉を母は次々と私に向けて発してくる。母は無意識のようだが、優しい言葉を常に口にする姿は見ているだけで気持ちがいい。私も、母のようにありたいと思う今日この頃だ。”(10月14日付け中日新聞)

 愛知県知立市の主婦・清水さん(67)の投稿文です。何事にも感謝の言葉を出される母親に、感心しての投稿である。いくつも言葉を例としてあげておられるが、ボクには「赤ちゃんのとき、もらわれてきたことに感謝」の言葉に驚く。生みの親に育ててもらえないことを、不幸に思ってもいい面がある。でもその不幸を言わず、もらわれてきたことに感謝をされるのである。感謝の言葉には「ありがとう」が続く。そして反対語は「怨嗟、迷惑、あたりまえ」である。反対語は自分の為にもならない。気持ちよく過ごすには、優しい言葉、ありがとうである。ボクも心がけているつもりだが、更に心がけたいと思う。


(第3556話) 何とかなる 

2023年09月17日 | 教訓

 “私はよく失敗するだけに、つまずきそうになったら決まって母に言われた「大丈夫、何とかなる」とのフレーズを唱える。誰でも成功することもあれば、うまくいかないことだってある。「忘れ物をした」「発表がうまくいかなかった」「部活動でミスをした」・・・。失敗の大小はその人にとって全く違ってくる。
 私があのフレーズを母からもらったのは受験時。模試の合格判定がいまひとつで不安とプレッシャーに押しつぶされそうになった私は、どうしたらいいのかが分からず母に相談した。母の「大丈夫。どんな結果になるかは分からないけど、何とかなるよ」で私の心は軽くなった。気持ちを切り替えて勉強に励み志望校に合格した。
 この先もいろいろな試練が私を待ち受けているだろう。しかし無数の失敗を踏み台とし、さらに歩を前に進めていく所存だ。”(8月26日付け中日新聞)

 名古屋市の高校生・足立さん(女・15)の投稿文です。「何とかなる」、良い言葉を覚えられたと思う。何をやっても心配はつきものである。足立さんは志望校の合格が気になった。しかし、見事に合格されたてよかった。だが、不合格であったらどうなったであろうか。それは多分「何とかなった」であろう。その高校に滑ったらすべてが終わるわけではない、別の道があるのである。ボクだって、第一希望の大学を落ちている。それでも、このように今も元気でいろいろさせてもらっている。
 心配事のほとんどは杞憂である。乗っているバスが転落したら、階段で転げ落ちたら、心配事は毎日、毎時刻ある。もちろん起きることもあるが、その割合は数えられないくらい小さな数字である。ボクは現役時代「すべてのことは時間が解決する」と思って過ごしてきた。その時はどうなるかと不安に思っても、ほとんどのことは数年も経つと解決しているのである。