寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2862話) ワールドカップ

2019年10月30日 | 人生

  “ラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会が、各地で行われています。夫は高校からラグビーを始め、大学もラグビー部。社会人になってからも趣味で続けていました。だから、W杯が日本で行われることを何よりも楽しみにしていました。日本-サモア戦のチケットもあらかじめ手配し、心待ちにしていました。
 しかし、重い病で昨年末に亡くなり、観戦することはかないませんでした。一年前の今ごろは、病にも気付かず、今大会の開幕を見られないとは、想像もしていませんでした。夫はラグビーを心から愛していました。母校のOBとして活動したり、トップリーグの試合だけでなく、母校の試合観戦にも足しげく通ったりしていました。ラグビーに対して、熱い思いを持っている人でした。
 W杯を前に、ミスターラグビーの故平尾誠二さんの記事や特集を目にすることが多くありました。夫は平尾さんと同じ病で、亡くなったのも同じ年齢でした。夫の無念さを思うと、本当に胸が苦しくなります。私はラグビーのルールも分かりません。せめて夫の遺影とともにテレビ観戦し、亡き夫にW杯を楽しんでもらおうと思っています。”(10月6日付け中日新聞)

 名古屋市の派遣社員・宮井さん(女・50)の投稿文です。ラグビーのワールドカップ(W杯)日本大会に、ボクもにわかファンであった。テレビ観戦でもかなり興奮した。ボクの同級生で、豊田にも横浜にも出かけた人もいる。日本中を興奮に包んだ日本大会であった。そんな大会に絡んだ話である。そして、また前回に続いて命の話である。
 ミスターラグビーと言われた平尾誠二さんは胆管細胞がんで、53歳の若さで亡くなった。宮井さんのご主人も、高校時代からラグビーを始め、愛された。それが奇しくも平尾さんと同じ病で同じ年齢で亡くなる。全く無念であろう。日本-サモア戦のチケットも手配してあったという。全く病の気配を感じておられなかったのであろう。何ともむごいものである。
 こういう話を持ち出せば、日本中毎日どこかでこのようなことが起きているのだろう。ボクももう3年前になるが、がんセンターに通っていた。多くの若い人を見かけた。その人たちは今頃どうされているのだろう。こういう人たちを見ると、人間本当に自分で生きているのではない、生かされているのだと言うことを感じる。ボクはもう70代半ばである。ここまででももう十分に生かされてきた。これからどのくらい生かしてもらえるのだろうか。先日ボクは骨密度や足指力の検査を受けてきた。実年齢以上にまだまだ十分に若いことを知った。肉体的に若くても、いつどのようになるか分からない。元気なときには元気に生き、死が近いと知った時には慌てふためかないように、心構えを作っておきたい。


(第2861話) 死を恐れずに

2019年10月28日 | 人生

  “中秋の名月の九月十三日夜、長野県飯田市のがん患者渡辺さゆりさんが亡くなった。享年四十九。余命が長くないことを知りながら、地元の市立病院でがん患者カフェを立ち上げ、通院先の愛知県がんセンター(名古屋市千種区)では得意の英語を生かして外国人患者会の設立に尽力。「私の仕事は種をまくこと」と、いつも笑っていた。「ステージ4患者座談会」にも出ていただき「死について考えることは、どう生きるかを考えること。恐れて避けてしまってはいけない」と語っていた。夫にみとられての安らかな最期だったそうだ。
 その二週間後、座談会で渡辺さんと同席した同僚の都築修編集委員(享年五十九)の訃報が届いた。昨年、突然の余命告知を受けながら「逃げず、恐れず、取り乱さず」を信条にして、体調が悪化するまで仕事を続けていた。「ふだん通りが一番」という姿勢は、ずっと変わらず「家族で死生観を語るいい機会」とさえ言っていた。  死を恐れなかった二人へ、惜別の思いとともに深い感慨を覚える。人生の質とは長さだけじゃなく、真剣に生き切れるかどうかだと。”(10月6日付け中日新聞)

 「世談」という記事欄から編集委員・安藤さんの文です。死についての話題は究極の話題とも言えよう。誰もが死を免れることはできない。その時に直面して、やっと本当のことが分かる。死について、そのかけらもないときの考えは全く当てにならないだろう。「いつ死んでもいい」と言っていた人が、望みが生まれればその時まで生きたいと思い、死に直面したときには悲嘆にくれる。
 渡辺さんの活動はがんになってからのようである。40歳代半ばである。悲嘆に暮れ、死と向き合うのを避けたくなるものだろうが、それを面と向かわれた。更に残された命を、同じような境遇の人のために尽くされた。見事な生き様と言えよう。人間、寿命の長短ではない。短くても見事に生ききる人、長い命を無用に過ごす人、何がとは言い切れないが、でも与えられた命は有用に生ききりたいものである。そうでなければもったいない。
 渡辺さんの座談会に同席された、安藤さんと同僚の都築さんも59歳で亡くなられたと言われる。突然の余命告知である。明日も知れぬのが命と、よくわきまえて毎日を過ごしたいと思う。


(第2860話) 「春秋」の感想文

2019年10月26日 | 行動

  “毎朝、本紙朝刊の「中日春秋」を切り抜いてノートに貼り、その感想を二百字前後で記すようになって五年がたった。自らの経験や時代の変化への思いなどをボールペンでつづっている。そんなわが思いをしたためたノートは四十二冊目に入った。
 今でこそ一日分の感想を三十分で書き上げるが、当初は「委ねる」「任せる」といった漢字が思い浮かばず、首尾よくまとめることができなくて書き上げるまでに実に二時間近くかかった。国語辞典を片手に、新聞やラジオで分からない言葉が出てくるたびにせっせと調べてきた。こうして書き留めたノートの数々が、三人のわが子ヘの「おやじの遺言書」となればいいなと今は思っている。”(10月5日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の千須さん(男・82)の投稿文です。またまたボクを刺激する投稿文に出合った。最近ボクはこの「話・話」 で書き写しを話題にした。今度は書き写しではない。「中日春秋」を切り抜き、その感想文を書くのである。これも高齢者のぼけ防止、活力の手法である。いろいろなところから情報を得て、自分なりのものを見つけ出す。5年前と言われると77歳くらいから始められたことになる。それでもう42冊である。継続の力は大きい。
 これはどちらかというと、この「話・話」 に似ている。この「話・話」 は、選んだ文をスキャーナーで読み取って文書ソフトに写し込み、そしてコメント文を書いている。千須さんは手書きであるが、ボクはパソコンの違いがある。できる方法ですればいいのだ。文章を書くメリットは果てしなく大きい。日記でも何でもいい、書く習慣を持ちたいものである。
 これに比べれば、書き写しなど簡単なようであるが、これがなかなか大変である。ある程度の長さを頭に入れ、書いていく。ボクなど勝手に文を作ってしまって、何度も書き直している。これなど落ち着きのなさである。書き写しは精神修養と心得た方がいいかもしれない。


(第2859話) 遺品の切手

2019年10月24日 | 知識

  “中学生のときから収集してきたわが切手コレクションの一部を地元の生涯学習展に出品した。その会場で来場者から、故人となった親族らが集めた切手の処分に困っているという声を耳にした。昔発行された切手を現在購入するのなら専門機関のカタログを開けばいいが、昔の切手を売却する際はカタログに記された価値は全く当てにならず、未使用であっても保存状態からさらに値を下げるという。切手の額面を下回ることもしばしばだ。こんな私の知見を先の来場者に伝えたらとても驚いていた。
 そこで、私はこう提案した。「故人が愛着を持って集めた切手を二束三文で処分するぐらいなら、はがきや封書を出すときに本来の使途として貼ってみてはどうか。郵便局を通じてなら国内外への小包料金を切手で支払うこともできる」と。切手愛好家の団体に相談するのも一つの手だろう。収業者の意思をおもんぱかってから、切手をどうするかを考えてもらいたい。”(10月5日付け中日新聞)

 岐阜県可児市のアルバイト・谷口さん(男・70)の投稿文です。収集してきたものをどう扱うか?最近は豊かになったこともあって、収集趣味者は多い。本人ならまだしも、遺族となるとその処置の判断に迷ってしまう。その趣味を継ぐ人がいれば最高にいいだろうが、これは希有のことである。故人のものとドライ割り切って簡単に処分できる人はいいが、そこは人情があり、なかなかそうはいかない。そこで判断に苦しむことになる。量が多いと、つまでもそのままにしておけない。寄贈できるほどの価値があればいいが、個人の趣味程度ではこれもなかなか難しい。ボクの知り合いで、先祖からのものをどうするか、うまく見つけられて、肩の荷が下りたと言っていた。それほどに大変なのだ。生前に片をつけていてくれればいいが、長年の思いもあって、これはまず無理だ。そうであれば、亡くなる前にはどうして欲しいか、意思を示しておくことが絶対に必要である。
 ボクは一時ではあるが、記念切手を購入したことがある。見ていればきれいだし、まさに郵便局に乗せられた感じである。でも特にこだわることもなかった。今ではその切手をどんどん使っている。そう遠くないうちになくなるだろう。使用した切手を集めたこともあるが、これは迷うこともなくすぐに捨てられる。何十冊とあるアルバムは数冊に整理した。整理したアルバム以外、すべて捨ててもいいと言ってある。そういう面ではボクはもう整理ができつつある。


(第2858話) 行ってきまーす 

2019年10月22日 | 活動

  “この秋、とても素晴らしいご褒美をいただきました。まもなく八十歳の私が、今月、茨城県で開かれる全国身体障害者スポーツ大会に、名古屋市代表の一人として出場することになったのです。事の起こりは、五月に名古屋市で開かれた障害者スポーツ大会に参加したことによります。友人の誘いで走ったのですが、伴走者はなく、アイマスクをして、一人でゴールで鳴っているベルの音を目当てに走るのです。とても怖かったです。その結果でのご褒美でした。走った経験は、昨年のハンディマラソンとか、シティマラソンのチャレンジランくらい。あとは時々、遊び程度に走っていただけなのに。はてさて、どうなることやら。
 十年ほど前、ほとんど目が見えなくなりました。それが原因で、地下鉄のホームから転落したのをきっかけに、私の「何でも挑戦」の人生は始まりました。普通の女性がすることは、同じように何でもしたくて、家事はもちろん、点字、パソコン、ウォーキング、機織りなどをやってきました。しかし、今回の「走り」はどうなるか。毎日、汗をかきかき練習しているこのごろです。まあ、頑張りましょう。では、行ってきまーす。”(10月1日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・武藤さん(79)の投稿文です。名古屋市で開かれた障害者スポーツ大会に参加したことによって、名古屋市代表として全国身体障害者スポーツ大会に出場することになるとは、本人は驚きであろう。でもこれはありうることである。どんな競技でも、小さな大会から勝ち上がって上の大会に出場し、そこでさらに好成績を残せば、さらに上の大会に出られるのである。ここで一番に重要なことは、最初の大会に出ることである。その機会を生かすか、生かさぬかである。武藤さんは友人の誘いに乗ったのである。ここで拒否したらこの褒美はなかったのです。
 この文で驚いたのは「地下鉄のホームから転落したのをきっかけに、私の何でも挑戦の人生は始まりました」と言う箇所である。普通なら「転落したらこの機会に出るのを控えるようになった」となるところではあるまいか。どうしてこのように積極的になられたのか、それが知りたいところである。70歳くらいで目が見えなくなった、と言われる。目が見えなくなって、皆と同じようにしたくなった、と言われる。失うとその価値がよく分かり、頑張り始める。何となく分かる気もする。あるときはあることが当たり前で、大切にしない。失って初めてその価値が分かる。人間往々にありうることである。それにしても武藤さんは素晴らしい。


(第2857話) されど川柳

2019年10月20日 | 活動

  “「月いちの集い楽しみ句で遊ぶ」とばかり、最近の私は川柳にはまってしまった。今年は年女、改元とあって、心新たに年を迎えた。そんな折、市の広報で「初めての川柳教室」の案内が目に入った。私も何か一つ新しく始めてみようと思って、さっそく申し込む。
 そもそも川柳とは、から始まり、五回の勉強会は終わった。興味を覚えた私は、引き続きサークルにも仲間入り。良き先生と先輩の方々に教えていただき、ボチボチと楽しんで早半年余り。題が出て、それで五七五で作句。簡単そうで、なかなか難しい。字余りになったり、浮かばながったり、四苦八苦である。十七文字のドラマ。その中に、ユーモア、意外性などいろいろな要素がある。「たかが川柳、されど川柳」であった。
 大先輩の句に感心することしきり。一番ひよっこの私は、これからといったところ。新聞や本から光る言葉を拾い、脳トレにもなりそう。眼病を患い見にくい目で、天眼鏡を片手に、電子辞書を引いているありさま。不安いっぱいの自分を奮い立たせ、これからの生きがいの一つにしたいと思うこのごろ。さあ、文化の秋。あちこちで川柳大会も催されるので、頑張らなくては。”(9月24日付け中日新聞)

 愛知県東海市の主婦・坂さん(72)の投稿文です。坂さんはいい機会をつかまれた。人生100年時代である。いつから始めてもいい。川柳と言われて、ボクが話さない訳にはいかない。何にしろ、ボクはもう40年近い柳歴である。  ボクの感覚では、川柳は一人一派である。それぞれに主張、考えがある。坂さんの入られた会には会の方針がある。坂さんはそこで川柳とはこういうものであると、学んで行かれるだろう。出合った会や人によって全く違った流儀になっていく。たかが川柳である。そう難しく考えることはあるまい。自分の人生に少しでも生かされればいいのだ。坂さんの人生後半の生き甲斐の一つになればいい。
 柳歴40年と書いたが、本当につかず離れずやってきたと言うだけである。前半の20年余は「川柳東浦の会」と言う川柳の会で、後半の20年弱はこのホームページの川柳連れ連れ草である。当初は主張もあったが、今は575という短詩で続けていければいいと思っている。川柳連れ連れ草の今の参加者は10人程度である。皆さんそれぞれの流儀で、楽しみに投稿されている。書けばその時の時代や生活が反映される。その人の歴史が残るのである。続けていれば、その価値も高まろう。されど川柳である。
 この機会にこのホームページ「川柳&ウォーク」に掲載したボクの句を調べてみた。「知多の風」で1720句、「川柳連れ連れ草」で4090句になっていた。川柳連れ連れ草は今年10月号で214号になっている。どこまで続けられるか?今のボクの覚悟は、ボクが認知症等になって書けなくなるまでである。


(第2856話) 二百十日 

2019年10月18日 | 知識

  “一日付け本紙サンデー版のクロスワードパズルを解いてみた。縦横のカギを頼りにマス目はどんどん埋まっていった。指定されたマスの計七文字は分かったが、その字を並べ替えて答えを導くことができなかった。
 三日の夕方になってその答えが「ニヒヤクトオカ」だと思った。漢字だと「二百十日」になる。そのような言葉があるのかをインターネットで検索してみた。二月の立春から数えて二百十日目に当たる頃は台風がよく襲来するため、農家はいっそう警戒を強めるべきだという教えがあったという。短大を出て会社員となり、それなりに社会経験を積んだつもりになっていた私だが、知らないことがたくさんあることを恥ずかしながら思い知った。”(9月22日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・川口さん(50)の投稿文です。この投稿文を読んで、確かに最近は二百十日という言葉は聞かなくなくなったな、改めて気がついた。そして知らない人も多くなっているのか。二百十日というと毎年9月初旬に当たる。今年は9月1日であった。台風はこの頃になるとよく日本を襲うのである。二百二十日と言う言葉も同じである。この機会に少し調べてみた。節分や彼岸などと同じ雑節の一つという。そして、二百十日は農業関係者にはよく知られていたようだが、あまり一般的ではなかったとある。ボクは一般的と思っていたが、ボクの家が農家だったからか。台風に襲われれば農作物の被害は大きい。農業関係者が気にするのはもっともである。そして台風は8月9月に上陸することが多いとあった。やはり二百十日を中心としている。
 今使われなくなったのは、台風が二百十日頃と限らなくなったからではなかろうか。今年など7月頃から10月までずっと騒いでいた気がする。最近は早くから情報が頻繁に流され、危機感をあおるからであろうか。でも言い過ぎて言い過ぎることはない。無駄になった対応も無駄ですめばこれに越したことはない。しかし、今年は台風15号、第19号など被害が実際に大きかった。被災者の皆様には悔やみをもうしあげたい。


(第2855話) 40年前の教え

2019年10月16日 | 教訓

  「『ありがとう』と『ごめんなさい』。この二つの気持ちを表わす言葉は思ったときに伝えてね」四十年以上前、幼稚園の教諭から聞いた教えを、母になった私は今も大切にしている。感謝と謝罪の気持ちは概して心に思ったときから時間がたてばたつほど言い出しにくくなるものだ。偶然出会った人が相手なら、そんな気持ちを伝えるチャンスはその場しかなく、ちゅうちょしていたら相手はどこかに行ってしまう。高校三年生の娘と中学校二年生の息子にも、これまで日常生活を送る中で折に触れてこのことを教えてきた。
 先日、中学校二年生の息子がはき古した靴下に向かって「ごめんな、ありがとう」と言って処分している場面に遭遇した。反抗期の真っただ中にあって荒っぼい言葉を私にも向けることが増えてきていただけに、一瞬意外に思ったが、素の息子を垣間見られた気がして感激した。息子にも私の教えが伝わったんだ!”(9月22日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の主婦・中島さん(47)の投稿文です。「ありがとう」と「ごめんなさい」、人間関係をスムーズにするのにこの言葉は効果は大きい。この二つの言葉だけで十分とも言える。逆にこの二つの言葉を使わずに他の言葉を使うから難しくなる。弁解したり、理屈を言ったり、非難したり等々。
 中島さんは幼稚園の先生から教わったこの二つの言葉をよく覚えておられた。幼稚園である。よほど印象に残ったのであろう。それを自分が実践する中で、息子さんや娘さんに伝えられた。先日ある知人が書かれた本をいただいたが、その中に「親の言うことを聞かぬ子も、親の真似は必ずする」という文があった。中島さんも、息子さんが反抗期で、親の言うことを素直には聞かないことに不安な中に、思いがけない息子さんの姿を見られた。これこそまさにこの言葉通りである。言葉には反抗するが、親の態度は自然に身についていたのである。「ありがとう」と「ごめんなさい」以外、態度にまさる言葉なしであろうか。


(第2854話) ハプニング

2019年10月14日 | 出来事

  “アメリカにいる息子が、「遊びにおいで」と航空券をプレゼントしてくれた。出発当日、不安を胸に中部国際空港のカウンタ-でパスポートを出したら、電子渡航認証(ESTA)がいるという。息子に確認したら「忘れてた」と。キャンセルも予約変更もできないチケットと言われ、今から申請するしかないと、慣れないスマートフォンで情報を入力。何度もやり直し、やっと完了したのは二時間後。幸い、飛行機は悪天候のため遅れているらしい。奇跡だ。
 成田行きの飛行機の出発間際、夫の承認が届いた。良かった。これで一人だけでもチケットを無駄にせずに済む。「取りあえず成田まで」と、成田までに私もOKになることを祈りながら飛行機に。機内サービスのコーヒーが疲れた体に染み渡った。成田到着。果たして私のESTAは?「やった、承認されてた」。途中、「家に帰ろう」と言った夫をなだめ、諦めないで本当に良かった。
 それからシアトル行きの飛行機まで、係の人について走って飛び乗った。シアトル空港で息子に会えたときは、夢のようだった。親切にスマホの入力を手伝ってくれた日本航空のお姉さん、ありがとう。飛行機さん、遅れてくれてありがとう。”(9月19日付け中日新聞)

 愛知県弥富市の主婦・松岡さん(66)の投稿文です。この内容を見ると、よくよく運が付いていたと思う。空港へ行ってESTAが必要と言われ、それからスマホで手続きをしたという。それを2時間もかかって。ところが飛行機の出発が遅れ、予定の飛行機に乗れたという。まずこんな幸運ってあるだろうか。そして成田からの出発までには2人ともEASTがとれたという。ボクもアメリカへ旅行したことがあるので、EASTを取った経験はある。いると知って、すぐインターネットで申請した。申請してから承認されるまでそんなに短時間ではなかった気がする。そして、いろいろな人の支援があった。松岡さんは66歳と言われるので、スマホや現在のシステムにそれほど慣れていないと思う。それだけに、支援してくれた人にただ感謝であろう。
 人生、いろいろな不運が生じる。ない人はいないだろう。今あるのは、そこを運よく、また上手にに切り抜けてである。自分の力だけではない。人の助けがあった場合もあろうし、幸運に巡り合わせた場合もあろう。ともかく今の自分があることは自分の力だけではない。ただただ感謝である。


(第2853話) 公園の清掃

2019年10月12日 | 活動

  “退職して人生初の海外旅行に出掛けた四十年前、イタリアやドイツ、スイスなど欧州六カ国を二週間かけて巡った。訪れた多くの街では道路沿いのビルや家々の窓辺に色とりどりの花が飾られていた。旅人を含めた往来の人の心を癒やし楽しませようとする欧州人の心意気を感じた。
 日本に帰国してすぐ、愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウン一角にある自宅前の公園の雑草が伸び放題になっていた。そのとき既にわが国の科学技術の発達は目覚ましかったが、市民による公共への奉仕という点で「欧州より随分遅れている」と感じた私はそれから自主的に公園を清掃するようになった。草取りをしたり落ち葉を掃き集めたりしている。
 私がかつて植樹したサクラやモミジの苗木はすっかり成長して季節ごとに彩りを添えている。わが庭を手入れするような気持ちで公園の清掃や木々の世話を今もしている。体の自由は利かなくなってきたが、今しばらく続けるつもりだ。”(9月19日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の岩本さん(男・96)の投稿文です。40年前から公園の清掃を始められて、今96歳と言われる。そして、今も続けておられる。世の中こんな人も見えるのだ。きっかけが、ヨーロッパの町を見てからと言われる。日本の町と比較された。ヨーロッパやアメリカでは自分の庭のように自分の家の外回りもきれいにされると聞く。それはきちんとした垣根がないことにあるらしい。日本では自分の庭はきれいにされるが、一歩外へ出れば知らぬ顔が多い。それは欧米とは逆に、日本では中が見えない程高い塀で囲われた家が多いことにもあろう。敷地内と敷地外が一緒に目に入らないのだ。一緒に目に入れば違ってくるかもしれない。
 そういう意味ではボクの家は違っている。家の前が県道で、大きな門扉や塀もない。低いフェンスがあるのみである。庭から道路も見えるし、道路から敷地内も見える。一体みたいなものである。だから一緒にきれいにする。敷地外のゴミはもちろん拾うが、草も取る。掃くこともする。それは随分昔からである。最近は少し高じてきていて、少しでも通る人に楽しんでもらおうと、案山子を立て花にも気を遣っている。案山子は数ヶ月ごとに衣替えをしている。年に7,8度は衣替えをする。今では「楽しみにしている」と声をかけてくれる人もあるし、見知らぬファンも多いようだ。
 岩本さんが始められたのが50歳半ばと言うことである。退職してと言われるが、当時は55歳が定年であったのだ。その後40年以上も続けられることを想定されたろうか。40年以上続けられ、植えた木も大きくなり、岩本さんの功績が示された。継続の効果は大きい。こういう声を聞くと、本当に人生100年時代が来たと感じる。