“一宮市の真清田神社前の広場に埋設されていた「道路元標」が今月、広場内の花壇に移され、再び地上に建った。大正時代、旧一宮市の道路の起点終点を示す標識として設置された石柱。 16年前に広場の整備で埋められて以降、通行人に踏まれ、催事では露店の下敷きになってしまっていたが、交通の歴史を知る遺産として再び光が当たることになった。
道路元標は一九一九(大正八)年制定の旧道路法で、全国の市町村に一つずつ設けると定められた。形や大きさはさまざまで、市内には計九カ所に現存。公民館の一角などに置かれ、埋設されているもは他になかった。旧一宮市道路元標は縦五十五センチ、幅、奥行きは二十五センチの四角柱で、正面に「一宮市道路元標」と刻まれている。
広場を管理する市公園緑地課によると、この道路元標は一九三四(昭和九)年ごろ、現在の国道155号が新たに整備されるのに伴い、近くの植栽帯に移設。二〇〇三年、「宮前三八市広場」を設けるために植栽帯を撤去する際、倒して埋設した。担当者は「(道路元標は)広場の入り口の中央にあり、人や自転車の通行の妨げになる恐れがあったため」と説明した。 今春、市が地元住民から要望を受け、移設することを決定。今月初め、広場の隅の花壇に建て、道路元標の歴史や役割を説明したプレートも設けた。(後略)”(10月22日付け中日新聞)
記事からです。ウォーキングで各地を歩いていると、時折道路元標を見かける。ボクは植栽帯の中に立てられていた一宮市の道路元標に覚えがある。あの道路元標はどこへ行ってしまったかな、と思ったこともある。そしてこの記事からいきさつを知った。埋設されていてよかった。それだから復元できた。このことから歴史的遺物は、その時の都合で簡単に処分してはいけないことを知る。
今の元気な高齢者は、行動力も知的好奇心も強い。歴史に興味を持っている人も多い。そういう人たちは、地道な調査を続け、専門家顔負けの成果を挙げることもある。新聞記事を見ているとそう思う。「高齢者は体験がある、知己も広い、そして時間もある」とボクはよく言う。そういう高齢者が興味を示せば、それなりの成果を挙げるだろう。この道路元標の復元に「地元住民から要望を受け」とあるが、その住民とは元市職員で郷土史研究家の田中さん(84)という人である。元気な高齢者はもっともっと地域のために尽くそう。
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