寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2594話) 新社会人

2018年03月31日 | 意見

 “もうすぐ四月。新生活の扉を開く人も多いことでしょう。そんな皆さんに心のどこかにしまっておいてほしいことがあります。何事も人のせい、周りのせいにしないことです。特に新社会人は職場でいりいろと注意され、叱られりこともあるでしょう。他の人と同じようにやったつもりでも、自分だけが注意される場面があるかもしれません。ほとんどの人は「なぜ自分だけ」と疑問に思うでしょう。不公平に感じるかもしれませんが注意された以上、何らかの点て自分に非があると考えてもよいのではないでしょうか。
 他にも「上司が理不尽だ」「職場環境が悪い」「希望する仕事に携われない」・・・などと思うことがあるかもしれません。その都度周りのせいにしていたら自分は成長できません。常に自分はどうすべきか、どうすればよかったのかを考えれば、きっと大きな成長につながると思います。頑張れ、新社会人!”(3月18日付け中日新聞)

 愛知県犬山市の会社員・鬼頭さん(男・37)の投稿文です。鬼頭さんの主張は、自分をよく見つめろと言う一言でしょう。周りのせいにしていたら成長はない、と言うことでしょう。何事にもいろいろな面があります。周りのせいにできることも必ず見つけられるでしょう。逆に自分に足りない部分も必ずあります。特に若い人は、まず自分を見つめてください、ボクもこの主張に大賛成です。今の若い人は弁が立ちます。理屈もよく知っています。ですからつい自己主張しがちです。自己主張してもいいのですが、同時に十分を振り返ることはもっと必要です。
 いい高校、良い大学と長い間しのぎを削るのは、希望の仕事、会社に就くためといったら叱られるでしょうか。もちろんこれがすべてではないのですが、現実には大きなウェイトを占めているでしょう。そして、就職戦線も勝ち抜き、なんとか希望に近い職に就く。しかし、1年、数年で離職する人が多いと聞く。ボクのいた会社でも若い人がよく退職していた。定年まで一職場であったボクには、辞めていく人が気になった。離職率について調べて見ると、学歴、仕事などによって大きな差があり、簡単には説明できない。しかし、大学卒で3年で3割辞めるのは昔からのことで、近年特に多くなったことではないという。何か信じ難い。今はいろいろな就職形態があり、簡単に比較できないのではないかと思う。


(第2593話) ウサギとカメ

2018年03月29日 | その他

 “ウサギとカメのかけっこを競う童話がある。カメが勝ったのには理由がある。ウサギはノロマなカメに負けるはずないと、途中で寝てしまったからである。どんなに力がある者でも油断したり、おごりがあってはならないと、イソップは教訓にしたかったのだろう。
 学生時代、恩師が何かの授業でこの話に触れ、「寝ていたウサギのそばをカメも通ったはず。なぜ起こさなかったのか、考えてくるように」と生徒に告げた。その後、話題になることはなかったが、今にして思えば「見て見ぬふりでいいのか?」と問いたかったのではないか。
 亡き師に聞くことはできない。もしカメがウサギに声をかけていたら・・・その後のストーリーは、どう変わっただろう。”(3月18日付け中日新聞)

 「300文字小説」から愛知県岡崎市の主婦・外尾さん(71)の作品です。昔なら単純に、ウサギの立場に立ってうなずき合って終わりであったろうが、今なら高校や大学入試に、また就職試験に使えそうな課題である。カメに立場に立つといろいろ態度が取れる。このようにしめしめと思って黙って通り過ぎるのか、はたまた声をかけるのか。声をかければ自分が負けることは大である。それを承知で起こすのか。声をかけられたウサギはどういう態度を取るであろうか。お礼を言って走り始めるのか、はたまた他の態度を取るのか・・・・その後のストーリーはもう千差万別である。これは人間社会で毎日でも起こりうる話である。細かく考えれば、選択の日々、選択の刻々である。この繰り返しの中で成長し、人間性を養っていく。今の自分はその集大成である。人生70年の集大成がこのざまである。そう思うと一つ一つがおろそかにできない。


(第2592話) 卒業式の正装

2018年03月27日 | 出来事

 “3月に入ると、小学校の卒業式の練習が始まる。昨年の今ごろ、私はとても悩んでいた。息子たちの当日の服について。通っていた小学校では男子はスーツ、女子はブレザー&ミニスカートが大半を占める。ママ友づきあいのうまい人は譲り受けるなどしてわざわざ購入しないようだ。我が家はスーツは購入が必要なうえ、双子。だが、式当日以外に着ることがあるとは思えない。買うべきか買わざるべきか。お金が惜しいというより「卒業式の正装」の定義に引っかかりを感じ、「買わざるべき」を選びたい。でも、セーターで出る勇気があるのか。
 卒業式は学校最後の行事であってファッションショーではないのだから、白シャツに黒や紺のセーターとズボン、襟元にネクタイで十分だと思う。動きやすさの点でもスーツよりセーターだ。式のために歩き方や座り方、礼の仕方などを練習した成果が出せる。
 本入たちが「何でもいい」と言ったので、結局、スーツではなく紺のカーディガンを買った。中学生になった現在、学ランの下に着て超活躍しているカーディガンをハンガーにかけるたび、あの選択は正しかったとようやく安心している。”(3月10日付け朝日新聞)

 兵庫県明石市の主婦・秋山さん(45)の投稿文です。東京銀座の小学校で、制服問題が大きな話題になりました。そして、秋山さんのこの投稿です。学校の制服の話にも驚きますが、卒業式は1日のことです。育ち盛りの子供のことです。スーツなど1、2回手を通したらもう着られなくなるでしょう。貧しい時代に育ったボクには理解できないことばかりです。
 こんな文章を読んだ中で、ボクは先日小学校の卒業式に、来賓で出る機会を与えられました。実はボクの孫も卒業生です。どんな服装で来ているか、興味がありました。孫はカーディガンでした。カーディガンは少数でした。でも秋山さんが言われるようなスーツ姿やブレザーが多く気になりました。孫に聞くと特に指導はなかったようです。確かに華やかな気がしました。親はこんなところにも気を使っていたのでしょうか。今は子供も少なく豊かになり、子供に力が入る家庭も多いのでしょう。でもそうではない家庭もあります。こういう問題は自分の考えをしっかり持つことです。人は、思うほどに他人のことはあまり気にしていないものです。ボクの今年はいろいろな機会があり、沢山のまずいなと思ったことがあり気にしていましたが、人は自分が思うほどに気にしていないものだと思って、忘れることに心がけていました。


(第2591話) 交通安全

2018年03月25日 | 出来事

 “身をもって知るとはまさにこのことだった。今年に入ってすぐ、交通事故に遭った。実家へ向かう途中、父が運転する車がガードレールにぶつかった。まさか自分がそんな目にあうなんて。乗っていた4人のうち、一番の重傷が助手席にいた私の鎖骨骨折。それだけで済んだのが不幸中の幸い。後から強く思ったのは、全員シートベルトをして、1歳の娘をチーャイルドシートに乗せていて、本当によかったということだ。
 「命を守るシートベルト」というようなフレーズは何度も見聞きしているが、そういう思いからベルトをしたことがあっただろうか。今までももちろん着用していたけれど、どちらかというとそれは「きまり」だったからだ。チャイルドシートについても同様だ。使い始めた当初は「赤ちゃんをこんなのに乗せて大丈夫なのか」とさえ思ったこともある。でももし今回どちらもしていなかったらと考えるとぞっとする。
 交通安全の標語さながら、私のこの声もきっと他の人の心にはあまり響かないだろう。それでも私は声を大にして言いたい。シートベルトとチャイルドシートはとても大事だ。”(3月8日付け中日新聞)

 東京都の主婦・寺田さん(31)の投稿文です。自己の体験を伝える、非常に大切なことです。言葉だけの伝達ではなかなか心に響きません。寺田さんも言っておられるように、交通安全の標語や言葉は毎日のように聞きます。耳にタコでしょう。だから何気なく聞いて通り過ごす。シートベルトはしていますが、これも寺田さんが言われるように「きまり」だからしている、重要性を思ってではない人も多いでしょう。寺田さんは苦い、あまり人に言いたくない体験でしょうが、こうして投稿された。だからボクはこうしてまた伝えているのです。
 寺田さんのお父さんは何歳でしょうか。高齢者の交通事故は非常に増えているようです。ボクはもう十分に高齢者です。幸いに今まで警察にお世話になることはなくやってきました。でもこれからが重要です。一つでも少しでも事故になる原因を減らし、気を付けていきたいと思っています。


(第2590話)  「平成の言葉」

2018年03月23日 | 活動

 “今年から本紙朝刊一面に掲載されている「平成のことば」を、私は毎日ノートに書き写している。年初から何かを始めたいと思ったのと、以前から著名人の名言や格言を読むことが好きだったからだ。
 言葉だけを書いていたがそれでは物足りなくなって一月中旬から解説も書き写すようにしている。やがて、その言葉が発せられた日と掲載日が同じか、とても近いことに気付いた。その頃の自分を思い出して感慨にふけることもある。毎朝、平成のことばに心を突き動かされたり共感したりしている。最近はノートに書き写す字が上達してきた気がする。脳も活性化しているのではないか。「始めたら続ける」とい言葉通りに私はこれからも実践していくつもりだ。”(3月7日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・山崎さん(48)の投稿文です。ボクは数年前から「天声人語」の書き写しを始めました。始めたと言うより始めようとした、と言った方が正確でしょう。ほとんどできませんでした。できないと言うより、しなかったと言った方が正確でしょう。今年こそはと、決しました。そして、今まで8回です。まだ週1回にも当たりません。まずは週1回、そして週2回まで位上げたと思っていたところです。そして、この投稿文です。「平成のことば」の書き写しとは、これもありかと思いました。書き写しには文をしっかり理解する、文字をキチンと書く、いろいろな利点があります。天声人語でなくても平成の言葉でもいいのです。平成の言葉をボクは毎日読んでいます。真実、本音が出ていて感動する言葉も多いものです。長さは天声人語の5分の1くらいでしょう。随分しやすいでしょう。決まった時間を作り、習慣化すれば毎日でも実行できそうです。検討したい気がしてきました。


(第2589話) 拾ってくれた

2018年03月21日 | 出来事

 “朝いつものように夫を送り出そうとしていた一月下旬のことです。いくら捜しても夫の結婚指輪が見当たりません。私の住む地域では珍しく積雪があった日になくしてしまったようでした。思いがこもった指輪なので、また買えぱよいというわけにはいきません。
 念のため夫が通勤で使うJRの遺失物管理所へ問い合わせたら、指輪の忘れ物があったとすぐに連絡がありました。夫が確認に行くと、まさしく夫の指輪でした。電車の中に落ちていたのを誰かが拾って届けてくれたそうです。
 積雪のためにダイヤが大幅に乱れた日で、足元は悪く車内も混み合っていたことでしょう。誰もが気持ちにゆとりがなかったと思われる中、小さな指輪に気付いて届けてくれた人の行動に心を打たれ、私も同じように振る舞えるか、考えさせられました。「すてきな方に拾っていただいたね」と夫婦で感謝しています。”(3月6日付け中日新聞)

 愛知県尾張旭市の主婦・加藤さん(35)の投稿文です。混雑する電車の中で、落とした指輪が拾って届けられる、何と幸運な指輪でしょうか。こんなことあるのですね。小さなものです、皆急いでいます、混雑しています、拾って届けるには悪条件だらけです。でも、届けられた。こういう話を聞くと日本は本当にいい国だと、改めて思います。
 道路や通路などでゴミをよく見かけます。拾えば邪魔にならないし、気持ちよく通れます。ボクはこんな時、多くは拾いますが、拾わない時もあります。そんな時、いつまでも気になります。気にするくらいなら拾えばいいものを、と時折悔やみます。横断歩道で止まらなかった時もよく悔やみます。なかなかとっさという時はできません。ここはまさに人間性でしょう。人間ができていないということです。もっと優しくなるように精進しなければと思います。


(第2588話) 終活とマラソン

2018年03月19日 | 活動

 “初めての終活セミナーに参加した。午前中セミナーを受講して総括ノートをいただいて、その後体験コーナーで入棺体験もした。狭くてなんかいい感じ。ピースして、写真も撮っていただく。翌日、新聞を読んでいると、昨日のセミナーの記事。入棺体験の写真、なんと私じやん。
 六十三歳で父母の介護の中、何か自分のためにとジョギングを始めた。なかなか続かず、どこかのマラソンでもと思って、初めてのマラソンは伊勢志摩のハーフ。父母を送ってからは、あちこち完走を目指して走っている。二〇一二年、名古屋ウィメンズマラソンにエントリー。皆、若々しく華やかないでたち。場違いかなあと思いながら、三年続いた。一五、十六年はマラソン人気が高まり落選。去年は宿泊付きでエントリー、今年も参加できる。
 入棺体験で決めた私のお葬式。お棺の中には、今まで走った完走証をお花の代わりに敷き詰めて、遺影は最後の年に撮る、とびっきり笑顔のフィニッシュ写真にする。今年は、去年、完走したときと同じ服を着て、ミッキーのキャップをかぶり名古屋の街をさっそうと走ろう。思い切ってセミナーに参加してよかった。”(3月2日付け中日新聞))

 愛知県岡崎市の伊東さん(女・74)の投稿文です。12歳から一挙に74歳の方に飛びますが、ここにも生きることが提示されています。これから始まる人と終わりを迎える人、大きな違いがあって当然です。することに違いがあっても、気持ちにはあまり違いがない気がします。そこは生きていることに感謝です。
 伊東さんは終活セミナーです。話を聞き、入棺体験をする。入棺体験など漫画事と思っていましたが、あるのですね。生前葬をする人もあるくらいだから、あって不思議はないのでしょうか。死後まで自分で企画しておきたい、これも人間の欲望でしょうか。もちろん、残された人が困らないように、ある程度の希望やら段取りを伝えるのは分かりますが、今のボクにはまだピンときません。こういう話を聞くと、そろそろ考えねばと思うのですが、まだ本気になれなせん。人前では余生とか、残り少ない人生といっていますが、本音は全くその気がありません。こう言うことによって、悔いなく生きようと鼓舞しているのです。永遠に生きるつもりでいるのでしょうか。これでは悔いることになるのでしょうか。


(第2587話) 生きていること

2018年03月17日 | 意見

 “生きている。それは当たり前のことなのだろうか。今ここに自分がいて、お父さん、お母さんがいる。家も庭もある。これらはどれも当たり前なのだろうか。
 ぼくは社会の授業で昔の戦争のことを学んだ。戦争は、ぼくが当たり前のように生きている世界とはまるでちがうような世界だった。ぼくは当たり前のように食べて、ねて、そして笑っている。そんなことが決して当たり前ではないことを知ってハッとした。今ぼくがここに生きているということは奇跡なのだと思った。
 お父さんとお母さんがいなければ、ぼくはいなかった。おじいちゃんやおばあちゃんがいなければ、お父さんもお母さんもいなかった。そう、生きているということは当たり前ではなくこの世の奇跡なのだ。まずは生きていることに感謝しなければならない。ぼくはそう思っている。”(3月2日付け中日新聞)

 愛知県知立市の小学生・佐々木さん(男・12)の投稿文です。小学生の投稿文です。これが小学生の意見かと全く驚きます。戦争の話からといっていますが、いろいろな知恵が混じり合っているのでしょう。周りの環境の影響も大きいと思います。今の時代、自分がすべての中心になりがちです。生まれて生きていることに、まして存在が先祖に及ぶことなど、あるのでしょうか。先祖があって自分がある、自分一人の命ではない、大切な命である。「生きているということは奇跡です。生きていることに感謝しなければならない。」こう思えば毎日をおろそかにできません。まして、自殺などできません。すべの人が意識し、感謝して過ごすことが必要と思います。


(第2586話) ぴーちくの会

2018年03月15日 | 活動

 “八年前、手と足の力がなくなり、先生から「珍しい難病です」と言われ、七ヵ月間の入院、そしてリハビリ。おかげさまで今では、自分の身の回りのことで難儀なこともありますが、お勝手仕事もできるようになり、先生に感謝して幸せな毎日です。
 ですが今は特に寒くて、散歩もできず、外出といえば病院くらい。一日中、数独をやったり、小説を読んだりの退屈な暮らしです。そんな私に楽しみが。昨年七月から始まった、月一回の六十歳以上のおしゃべりの会です。つえをついて私の足で十分ほどの公民館に入ると、テーブル上に季節のかわいい花が。お世話くださる方たちの優しい心が見えるようです。認知症予防の勉強、頭と指の体操。また音楽の先生だったとても明るい方のオルガンと掛け声で、懐かしい歌を歌います。
 おいしいコーヒーとお菓子をいただき、なかなか会えない皆さんと、話の花が咲きます。三十人近くの人が、あっちでぴーちく、こっちでぱーちく、にぎやかなこと。あっという間の二時間です。お世話くださる方たちに感謝し、「また来月ね」とあいさつを交わします。帰り道に「来月も出かけて来られますように」と祈りながら。”(2月28日付け中日新聞)

 岐阜県瑞浪市の小関さん(女・77)の投稿文です。ボクが昨年6月から老人会で始めた「サロン羽根邨」と全く同じこと、そして「ぴーちくの会」と同じ風景です。風景は同じですからこのことは省略して、今後の腹づもりを書いてみます。
 サロンは老人会の事業として始めました。しかし、老人会の役員を探すことが非常に難しくなっている現状から考えると、役員が担っていてはとても続くとは思えません。そして、サロンを役員が担うとなると、役員の負担が大きくなりますます見つかりません。そこで、ボクは始めた責任として、ボクがやれる間はボクが中心でやる決意をしました。役員を辞めた後、どうした形で係わっていけるか、考えました。そして、サロンそのものは老人会の主催とし、それを担うクラブを作ることにしました。「サロン羽根邨世話人会」と称し、それに合う老人会の会則も変更しました。世話人会の当面のメンバーは今年の役員です。もう1年、ボクに付き合って欲しいと頼みました。幸い今年の役員は協力的な人が多かったのです。4月以降新たな趣向も出し、新たなメンバーも募るつもりです。サロン運営を、これからのボクの生き甲斐の一つにしようと思っています。それ程の価値のある事業と思っています。


(第2585話) 現金支給

2018年03月13日 | 出来事

 “大学生の息子と一緒にこの年末年始、食品工場でアルバイトをしました。そのときの給料を一月末に受け取りに行きました。現金支給は面倒だと思っていましたが、これがなかなかうれしいものでした。決して大金ではありませんが、手渡された封筒にあるお金の重みを感じました。中身の確認を求められ、お金を取り出して数える作業は「これが労働の対価なんだ」と思えました。振り込みでの支給では得られない体験ができました。
 こんな給与振り込みだけでなく、今や私たちの生活にはクレジットカードや電子マネーなど現金を使わない決済が浸透しています。消費者には日頃現金を持ち歩かなくて済むという安心感があり、店側は釣り銭などを用意しなくてもいいという利点があります。とはいえ、やはりお金の直接のやりとりで労働や商品の価値が実感できるものです。近い将来、社会に出て働く予定の息子には現金支給は良い経験になったと思っています。”(2月26日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の主婦・勝田さん(55)の投稿文です。多くの職場で現金支給はもうなつかしいことになったでしょう。ボクは昨年6月に完全退職しましたのでもう縁のない話になりましたが、ボクの職場で振り込みになったのはいつからだったか、もう思い出せません。
 ボクはまだ振り込みが希望者だった時には最後まで現金を貰っていました。ささやかな抵抗のつもりでした。最初は全額を、そのうちに担当者を気遣って万円単位に、そして現金支給が無くなって諦めました。これでおやじの権威は一気に失せた気がします。給料を妻に手渡すと、妻は必ず「ありがとう、ご苦労さま」と言ってくれました。それが明細表だけになると、その言葉は次第になくなりました。そのうち明細表もくれなくなり、自分でもいつ給料日か、意識しなくなりました。妻は手持ちが少なくなると、下ろしてくるだけです。サラリーマンの場合、子供にとって働く父親の姿はほとんど映りません。給料を渡す時だけが唯一の働いている証明だったのです。現金で渡すことによって、労働の価値も証明されます。これからますます金銭を手にする機会が減るでしょう。便利さも大きいでしょうが、弊害も大きいでしょう。ますます自己管理が問われる気がします。