寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2877話) 熟柿

2019年11月29日 | その他

  “はじめて熟柿をもぎとった。手にした熟柿は本当にはれつしそうだった。ふわふわ。ぶるぶる。ぷにゆぷにゆ。
 あっ、熟柿からしるが出てきた。なめたら甘ずっぱいのかな?そう思った。ためしてみた。あまーい、あの柿の味がしてきた。しるは、じわじわとどんどんあふれ出てきた。
 熟柿はまるで真っ赤な太陽みたいだった。すっかり、しるでいっぱいになっていた熟柿を今度は太陽の光にあててみた。柿そのものはすきとおって見え、あふれ出るしるは宝石みたいに光りかがやいていた。なんて美しいんだろう。”(11月8日付け中日新聞)

 長野県飯田市の小学生・細江さん(女・10)の投稿文です。これは詩である。それも情感たっぷりな作品である。ここまで熟柿で書けるのか、ボクには無理である。小学生ならの感性であろうか。
 熟し柿、ボクの家にはまだたくさんの熟し柿がつら下がっている。今年は本当にたくさんの柿がなった。1本の木で500個以上成ったと思う。大きくて甘い冬柿である。取り切れない。熟しすぎてポトロポトリと落ちてくる。ボクは毎日、3~5個くらい食べている。堅い柿より少し熟して柔らかくなった柿が甘くて好きである。妻は硬い柿の方が好きのようである。最後にはてっぺんの方の柿を数個残しておく。鳥用である。柿の木1本にもいろいろな想いや楽しみがある。センダンの老木に続いての樹木の話でした。


(第2876話) センダンの老木

2019年11月27日 | 出来事

  “故郷の小川の岸辺には私が子どもの頃から一本のセンダンの木があり、小さな橋の上に枝を広げていました。その木が最近、全体的に茶色くなり枯れかかっているようで心配していました。しかし、よく見ると枝に新芽があってホッとしました。
 その昔、近所のおじいさんから聞いたことですが、人が死ぬと棺おけにセンダンの枝を1、2本入れたそうです。遺体の腐敗を防ぐとともに霊を慈しむという意味もあったようです。私は見慣れたこの木にそんな役割があるなんて思いもせず感動しました。
 センダンの匂いは強いですが、心を癒やしてくれ、素朴ながら優しさや懐かしさを感じられる木だと思っています。新芽の成長を見守っていくつもりです。”(11月7日付け中日新聞)

 岐阜県多治見市の加藤さん(女・88)の投稿文です。センダンの木と言う言葉につられて取り上げた。ボクの通った小学校にはセンダンの大木が校庭にあった。後には多くの木が植えられたが、当初はあまり木はなかった覚えである。それだけにセンダンの木はよく覚えている。校庭東北部の砂場の近くであった。小学校の数少ない記憶である。
 センダンを少し調べてみる。『幹は直立し、樹高は15~30mほどになり、成長に伴って樹皮は縦に裂ける。9~10月ごろに熟すクリーム色の大きな実は、枝先に鈴なりにでき、遠目からも目立つ。その姿は数珠がたくさんあるように見えるため、「千珠」と呼ばれ、それが変化してセンダンとなった。「栴檀は双葉より芳し」と、センダンは苗の段階から良い香りがするように、才覚のある人物は幼少時からそれを発揮するという意味で知られるが、本来これは熱帯アジア産のビャクダン(白檀)を語ったもの。』とある。そして、涼しげな枝葉が良好な緑陰を作ることから、校庭や並木に使われることが多い、ことも知る。ボクの通った小学校もこれに習っていたと言うことであろうか。
 投稿は庶民のいろいろな情報だけに、いろいろなことを思い出させてくれる。これからも気をつけて読み、いい話を紹介していきたい。


(第2875話) 「気をつけて」

2019年11月25日 | 行動

  “「気を付けてね」ー。この一言が最近、私にはすごく重く深いものに感じられるようになってきました。以前は何の気なしに使ってきた言葉ですが、すっかり年を重ねてきたせいか、ひょっとすると思いがけないような事故に遭って命を落とすかもしれないと考えてしまうからかもしれません。
 私は家を出る際、必ず行き先を妻に告げてから「気を付けて行ってくるよ」と言って出掛けています。妻から返ってくる「気を付けてね」の言葉を心に留めて自動車の運転はもちろん、歩いていても自然と周囲に気を配るようになってきました。そして妻が外出するとき、私は「頼むでぇ、気を付けてくれな。俺より先に死ぬなよ」と声を掛けています。”(11月5日付け中日新聞)

 岐阜間多治見市の安藤さん(男・70)の投稿文です。いい習慣です。お互い声をかけ合うだけもいいことです。これがなかなか少ないのである。特に日本人夫婦の会話は少ない。バスツアーで夫婦限定のバスは全く静かである。女性連れに比べると雲泥の差である。長年連れ添っているのであるから、そんなに新たな話題はないかもしれないが、それにしても少ない。家庭の中ではどうだろうか。もっと少ないのではなかろうか。長年のあうんの呼吸で分かろうが、分かればいいというものではなかろう。挨拶なりお礼なり、そこは声を掛け合って過ごしたいものである。声を掛け合うことによって、相手の気分や体調を知ることもあろう。安藤さんのような声を掛け合えば、自然気をつけることにもなろう。
 ボクもできるだけ声をかけることに心がけている。十分とは言えないだろうが、普通より多い気はしている。この文を機会にもっと心がけようと思う。


(第2874話) 距離30センチ意識

2019年11月23日 | 意見

  “16日付本欄の小学生の投稿「しせい正して視力守れ」には大賛成です。電車に乗ればほとんどの人がスマートフォンを眺めている昨今です。私も目とスマホとの距離が近いことが気になっていました。視力低下はもちろん、猫背になりはしないかと心配になってきます。
 半世紀以上前の私が小学校三年生だったとき、担任の先生からノートと目は30センチ離すように」と何度も言われ、常に心掛けてきました。そのおかげか良い姿勢が身に付き、視力が低下することはありませんでした。私が小学校教員になっても、この教えを子どもに伝えました。30センチ物差しの先に目玉の絵を付け、姿勢が良くない子にはあえて見せるようにしました。結果、他の先生から「姿勢の良いクラスだ」と褒められたこともありました。特に次代を担う現代の若者には、物を見るときは目から30センチ離すことを意識してもらいたいです。”(10月31日付け中日新聞)

 愛知県江南市の元教員・中村さん(女・77)の投稿文です。今の学校で、この30センチの話はされているのだろうか。確かにボクの子供時代はよく言われたものである。今の小学生は、もうこの時代からパソコンやタブレット、スマホである。文字を読むよりもずっと、1点を見つめることが多い。統計的にも子供の視力低下傾向ははっきりしているようである。30年前に比べ、視力1.0以下が小学生で5人に1人から3人に1人、中学生では3人に1人から2人に1人になっているという。
 この文から30センチは姿勢にもいい効果があることを知った。言われてみれば当然である。文字を見つめるとき、多くは前屈みになる。30センチを保てば背筋は伸びている。いい姿勢になるわけだ。今の若者は、ボクらの頃に比べ素晴らしい面が多い。でも姿勢についてはいいとは思えない。腰を落として立つ、歩く。すぐ座り込む。まっすぐ前を見て歩く人は少ない。ボクはまっすぐ前を見て歩くことに心がけている。高齢者は若者以上に前屈みなる。高齢者のなりゆきである。心がけないとまっすぐにはならない。ボクは時折ながら「姿勢がいいから若く見える」と言ってもらえることがる。ウォーキングを学んだおかげである。


(第2873話) ごみ拾いの男性 

2019年11月21日 | 行動

  “犬の散歩に出掛けた早朝、たばこの吸い殼や紙くずなどを拾い歩く年配の男性を見ました。すれ違いざまにあいさつを交わし、心の底から「お疲れさまです」と声を掛けました。数分後に振り返ると、すっかり小さくなった男性は小さな袋を取り出し、道端に落ちたままになっていた動物のふんを拾っていました。ペットのふんを処理せずに放置したままの人も少なからずいる昨今です。それを、さも当たり前のようにあのとき処理していた男性には頭が下がります。私は犬を飼う一人として、一部の不届き者のせいとはいえ肩身の狭い思いをする機会が随分増えたと感じていたからです。
 黙々とごみを拾って町をきれいにしようとするこの男性に、私も少しでも近づけるようになりたいと強く思いました。何より、あの男性を見ていてすがすがしさを覚えました。”(10月31日付け中日新聞)

 岐阜県各務原市のパート・安江さん(男・70)の投稿文です。こういう話は時折ある。またボクが見かけることもある。そして、ボク自身が拾うこともある。しかし、こういう人に比べ、無頓着に捨てる人がいかに多いか。捨てる人がいなければ不必要な行為である。公道に捨てることが「悪いこと」だと知らない人はいなかろう。公衆道徳や知識の話ではない。恥じない意識の問題である。許している社会の問題である。
 ボクの家は交通量の多い県道の東側で、交差点の近くである。道路を挟んで西側にはコンビニもできた。1年の大半は西風である。その西風によってゴミの集積場な屋敷になっている。歩道や屋敷に来た紙くずなどのゴミを拾わない日はないと言ってもよかろう。でも一昔前に比べて、減ったような気もする。これが世間一般なのか、ボクの家の例なのか知らない。ただボクの家は、コンビニができて交差点付近が広々となり、捨てにくくなった気もする。増えたのはコンビニのレシートである。これは拾わない日はないと言ってもよかろう。
 苦情を言っていても始まらない。地域環境が少しでもよくなるように、もう少し積極的な行動に出ることであろうか。


(第2872話) 持続可能性

2019年11月19日 | 活動

  “JR飯田線に揺られ、愛知県新城市の「つくしんぼうの会」を訪ねた。規格外や未利用の農産物からジャムや焼き肉のたれなどを手作りし、道の駅のような産直施設に卸す、よくある農村女性のグループだと聞いていたのだが。
 発足は二十一年前。もともとは高齢者の家事援助や、ミニデイサービスなどを自治体から請け負う地域福祉のグループだった。「当初、ミニデイの昼食には仕出しを取っていました。残す人が多かった。ならばいっそ、自分たちで作ろうとー」。会長の荻野孝子さん(七七)はそう言って、一枚の古い写真を取りだした。ミニデイに集うお年寄りたちのスナップだった。「するとどうです、この笑顔。これ見ちゃったら続けていくしかないでしょう」と荻野さんも笑顔満開。
 補助金だけに頼っていては続かない。「ならば稼ぎましょうよ」と始めた加工品開発だった。住み慣れた街で最期まで安心して暮らしていくために「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」。自主と自立を身にまとう、つくしんぼうたちのモットーだ。「西の方で電力会社の社長でもやってみませんか」そう言うと荻野さん。返事はなしに、大笑い。”(10月27日付け中日新聞)

 「世談」から論説委員・飯尾さんの文です。最近の女性の進出には素晴らしいものがある。しかし、この「つくしんぼうの会」もう21年である。地域福祉のグループから今や企業のようである。その発展も素晴らしいが、続いていることが更に素晴らしい。当初立ち上げた人たちには熱意がある。でも続けるとなるといろいろな問題が生じてくる。それを乗り越えて安定期に入る。次に問題は次世代にうまく引きつげるかである。このつくしんぼうの会の人たちは、慣れた家事の延長であったろう。そこに無理はなかった。ここがうまくいった要因であろうか。
 高齢の女性の活動にはいつも驚ろかされる。これは長年家庭に縛られてきた反動だろうか。家事には様々な要素がある。その能力を生かす延長戦であれば後は心意気だけである。それに比べ、男性は定年までに意気込みを使い切ってしまったのか、その後がなんとなく淋しい。また定年後に生かす能力は、その前のものとは違うことが多い。また現役時代の立場が邪魔することもある。一生涯を見たとき、ボクは日本社会は女尊男卑と思っている。


(第2871話) 家系図

2019年11月17日 | 行動

  “父方と母方それぞれの家系図を一年半かけて作りました。岐阜県内の親戚方を訪ねて聞き取りを重ねました。戸籍簿を取得するために何人もの親戚と一緒に役場に行きました。各菩提寺で資料を見せてもらったり墓碑や位牌を参考にしたりしましたが、判読に苦労したことも一度や二度ではありませんでした。
 父方、母方ともに私から数えて七代ほど前、江戸時代中期近くまでさかのぼることができました。こうして得た情報に、入手できる限りの一族の顔写真を添えて父方、母方それぞれA1判サイズの紙にまとめました。各親戚に配ると、「顔写真もあって親しみやすい」と喜んでもらえました。
 今家系図に取り組まなければ自分のルーツが分からずじまいになってしまう。そんな思いに私は突き動かされた気がしています。祖先とのつながりをいつまでも大切にしたいものだ。家系図を手に、そう強く思いました。”(10月26日付け中日新聞)

 岐阜県池田町の会社役員・竹中さん(男・78)の投稿文です。これはまた大変な作業をされたものである。実はボクも作ってみたい気がしているのである。今年2月に義弟が亡くなって、戸籍をいろいろ取り寄せた。思いがけないことが分かった。そして、先祖のことを知っているかというとそうではない。ボクも親からほとんど聞いたこともないし、ボクも子供らにあまり話したことはない。人類は継続である。自分が突然生まれたわけではない。親があって先祖があって初めて自分が存在するのである。その先祖を知らずして、どうするのであろうか。
 NHK総合テレビで「ファミリーヒストリー」と言う番組がある。最近時折見ている。著名人の家系の話であるが、出演している著名人もよく驚いている。どこの家系も少なくからずいろいろあろう。ボクには興味がある。竹中さんはよく調べられたと思う。その気になればできないことではない。いつかの夢としておきたい。いや、もういつかはないか?


(第2870話) 時空超え

2019年11月15日 | 出来事

  “「ポストにこんなはがきが入っていた」-。中学生の娘が驚いた様子で古びた二通のはがきを私に見せた。差出人は祖父の兄だった。中部第三八部隊大瀬隊という文字もあった。消印を見る限り、いずれも三重県内から送られたもののようだった。
 時空を超えたはがきがなぜ今届いたのかが理解できず、私は二通の宛先となっていた近隣宅を訪ねたら、家人の八十代ぐらいの男性に「よく分かったな」と笑顔で迎えられた。屋根裏を掃除していたら古いはがきがたくさん出てきて、そのうち差出人宅が近所と思われるものは試しに配ってみたとか。宛名はその男性の父親で、祖父の兄の幼なじみだったそうだ。
 私は幼い頃に祖父から「戦死した兄がいる」と聞いたことがあり、仏間に飾ってあった写真がよぎった。はがきで私との間をつないでくれた男性の父も戦争で亡くなったという。はがきいっぱいに鉛筆でびっしりと書かれた文字からは気遣いの言葉が読み取れた。”(10月24日付け中日新聞)

 三重県伊賀市のパート・花井さん(女・46)の投稿文です。この文は、男性の父親宛に来た手紙を差出人宅のポストに入れた、と言うことであろうか。「配った」とあるから男性が自分でポストの入れられたのであろう。違うかもしれないが、いずれにしろ、味のある行為である。どうなるか、結果を楽しみにされたであろう。全く遊び心である。こういうのは良い。こういう行為がどう発展していくか、それも楽しみである。事実、花井さんは男性宅を訪ねられ、いろいろなことを思い出された。花井さんにこのような投稿をさせる気持ちを起こさせた。日々に味付けをされた。こうした遊び心は毒にはならないだろう。薬にもならないかもしれないが、時には大きな効果を生み出すかもしれない。
 余生のボクにはもう照れや恥ずかしさもあまりない、いろいろなことが遊び心である。社会奉仕も遊び心である。もちろん節度や心使いは必要だが、その方が皆も楽しくなろう。先日も皆で歩く会で、歩く前に突然思いつきで檄を飛ばした。皆呼応してくれた。ボクの今一番の遊び心は案山子である。つい先日も衣替えをした。今までで一番かわいいのではないかな?楽しみながら悩んでいる。


(第2869話) ながら運転

2019年11月13日 | 出来事

  “一宮市で二〇一六年十月二十六日、スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」をしながら運転するトラックにはねられ亡くなった小学四年則竹敬太君=当時(九っ)=の父崇智さん(四ル)が二十三日、同市大江三の大志公民館で地域住民百人に講演した。崇智さんは、事故でつぶれた敬太君の水筒や靴を手に、事故状況を説明。家族で駆け付けた搬送先の病院で蘇生を願った当時を声を震わせながら語った。
 今年の県内のながら運転取り締まり件数がほぼ毎月、前年を上回っていると指摘。ながら運転は殺人行為。みな人ごとで、自分や身近な人が痛い目に遭わないと分からないのかと思うとさびしい」と述べた。
 講演後、崇皆さんは取材に「三年はあっという間。中学生を見ると、敬太は何の部活動をやっていたのかと、胸が締め付けられる」と語り、「ながら運転が世の中から無くなり、私が講演に呼ぱれなくなる日が来るといい」と話した。”(10月24日付け中日新聞)

 記事からです。先日あるところを通ったら、多くの人が集まりスマホを見ていた。あれは「ポケモンGO」だったろうか。今でもはやっているのだろうか。この記事の事故のあった場所はボクの家の近くです。本当に悔しいでしょう。こうした事故は被害者も加害者もその後は大変です。ながらスマホの罰則は更に強化されるようです。
 今のスマホ社会は異常だとボクには感じられる。高齢者はまだ少ないと思うが、誰もがスマホを手に持って移動している。鞄の中ではない。いつでも使えるように手に持っているのである。プラットホームや電車内を見ると、多くがスマホの画面を見つめている。何を見ているんだろう。皆それほどに忙しいんだろうか、皆それほどに勤勉なのだろうか。だが、皆がそうとは思えない。スマホを見つめていると、周りが全く見えなくなる。混んでこようが、弱者がいようが無頓着に動かない。そして歩きながらも見つめている。先日、ボクは自転車に乗りながらスマホを見つめている高校生と、ぶつかりそうになった。いつの時代にもこういうものは出てきたのだろうか。
 ボクもスマホを持っている。宝の持ち腐れのようにあまり活用をしていない。外出して見るようなことは少ない。


(第2868話) 道路元標

2019年11月11日 | 知識

  “一宮市の真清田神社前の広場に埋設されていた「道路元標」が今月、広場内の花壇に移され、再び地上に建った。大正時代、旧一宮市の道路の起点終点を示す標識として設置された石柱。 16年前に広場の整備で埋められて以降、通行人に踏まれ、催事では露店の下敷きになってしまっていたが、交通の歴史を知る遺産として再び光が当たることになった。
 道路元標は一九一九(大正八)年制定の旧道路法で、全国の市町村に一つずつ設けると定められた。形や大きさはさまざまで、市内には計九カ所に現存。公民館の一角などに置かれ、埋設されているもは他になかった。旧一宮市道路元標は縦五十五センチ、幅、奥行きは二十五センチの四角柱で、正面に「一宮市道路元標」と刻まれている。
 広場を管理する市公園緑地課によると、この道路元標は一九三四(昭和九)年ごろ、現在の国道155号が新たに整備されるのに伴い、近くの植栽帯に移設。二〇〇三年、「宮前三八市広場」を設けるために植栽帯を撤去する際、倒して埋設した。担当者は「(道路元標は)広場の入り口の中央にあり、人や自転車の通行の妨げになる恐れがあったため」と説明した。  今春、市が地元住民から要望を受け、移設することを決定。今月初め、広場の隅の花壇に建て、道路元標の歴史や役割を説明したプレートも設けた。(後略)”(10月22日付け中日新聞)

 記事からです。ウォーキングで各地を歩いていると、時折道路元標を見かける。ボクは植栽帯の中に立てられていた一宮市の道路元標に覚えがある。あの道路元標はどこへ行ってしまったかな、と思ったこともある。そしてこの記事からいきさつを知った。埋設されていてよかった。それだから復元できた。このことから歴史的遺物は、その時の都合で簡単に処分してはいけないことを知る。
 今の元気な高齢者は、行動力も知的好奇心も強い。歴史に興味を持っている人も多い。そういう人たちは、地道な調査を続け、専門家顔負けの成果を挙げることもある。新聞記事を見ているとそう思う。「高齢者は体験がある、知己も広い、そして時間もある」とボクはよく言う。そういう高齢者が興味を示せば、それなりの成果を挙げるだろう。この道路元標の復元に「地元住民から要望を受け」とあるが、その住民とは元市職員で郷土史研究家の田中さん(84)という人である。元気な高齢者はもっともっと地域のために尽くそう。